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年表_物理学/化学_18-SH


■18世紀後半(1751~1800)

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1751        
1752 ベンジャミン・フランクリン アメリカ

雷が電気放電だと立証

※凧上げ実験

雷雲に向けてあげた凧とライデン瓶(1745年)を用いた実験により、稲妻より得た電気は摩擦電気と同じ性質を持つことを立証。なおこれ以前には類似の実験で感電死する者も何人かいた。※他の方法で得られる電気が同一かどうかはファラデー(英)が実証。

1752 メルヴィル  

気体の線スペクトル

※NaのD線など

アルコール・ランプの炎に塩、明礬、硝石を落とし、その光をプリズムを通して観察。黄色の光(後にNaのD線と呼ばれる)が他の色よりも強く輝いていた。熱した気体から出る線スペクトルを最初の発見である。※一般に分子が出す光は帯スペクトル、高温に熱して原子に分かれると線スペクトルが見られる。

1753 ジョン・キャントン イギリス 静電誘導  
1753     英国博物館の設立 スローンの施設博物館を国営化し、大英博物館を設立。
1754 ジョゼフ・ブラック イギリス 二酸化炭素  
1755        
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1756 フランツ・エヌピス ドイツ 焦電効果の研究  
1757        
1758     ハレー彗星、出現 エドモンド・ハレーの予言通り、周回彗星であるハレー彗星が回帰した。ハレー自身は1742年に亡くなっており、この回帰を見ることはなかった。
1758 ジョン・ドロンド イギリス 色消しレンズの特許取得  
1759 ジョン・ハリソン イギリス

ゼンマイ時計

航海用クロノメーター

時計職人ハリソンは、イギリス政府が募集した航海用クロノメーターの製作(1713年)に対して40年以上もの歳月を費やした。1759年にようやく条件(経度が0.5度の精度で測定可能等)を満たす時計(ゼンマイ時計)の開発に成功した。船旅での厳しい条件(温度変化、揺れ、塩水による腐食の耐性等)の中でも正確に動く時計があれば、船の居場所を特定することができるため、海洋大国イギリスにおいて最重要課題となっていた。

1759 パラ植民地政府 ポルトガル

ポルトガル国王へゴム製品を献上

アマゾン河口地方のパラの植民地政府は、ポルトガル国王にゴム製品を献上した。この奇妙な物質が一般の目に触れた出来事であり、当時の科学者を驚かせ、困惑させた。

1759

シャトレ伯爵夫人

(エミリ・デュ・シャトレ)

フランス

書物『プリンキピア』(仏訳)を出版

※ラテン語からフランス語へ翻訳

 
1760   イギリス

産業革命/運河時代の始まり

産業革命の起点は蒸気機関、紡績業/金属業で新技術が発明された1760年代。イギリスの歴史学者アーノルド・トインビーは1760年頃に経済発展プロセスに断絶が生じ、その過程が1850年頃に完了したと指摘。イングランド初の人工運河ブリッジウォーター運河が開通(1761年)し、運河による石炭輸送の拡大は初期産業革命を支えた。

発明/普及の年表(18世紀後半)

1760 ジョゼフ・ブラック イギリス

熱容量の概念

※熱と温度の区別

温度の異なる等量の水と水銀を混ぜると、混合物の温度は両者の単純平均値(中間の値)にはならない。ブラックは熱容量(物質の熱を受け入れる能力)の概念を発表し、熱と温度を区別した。なお熱容量の概念は、熱運動説よりも熱物質説(カロリック説)での説明の方と親和性が高く、益々、カロリック説の支持拡大に寄与した。

1760 レオンハルト・オイラー スイス

書物『固体・剛体の運動理論』

オイラーの運動方程式

※ニュートン力学の剛体への拡張

オイラーはニュートンの運動第2法則を微分方程式の形で表した。これにより惑星でもボールでも運動を考える時、質点(質量を持つ点)と考えて運動方程式を使えるようになった。

1760年の書物では、オイラーは力学の対象を質点だけでなく、剛体(変形しない大きさ・形を持つ物体)の運動を取り扱えるよう拡張した。剛体の運動では、その重心の並進運動と回転運動に分離して計算できる(オイラーの運動方程式)。

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1761 ジョゼフ・ブラック イギリス 潜熱の概念

水が状態変化する際、その温度は保持される。加えた熱が温度上昇に費やされず、物質の状態変化(氷↔水↔水蒸気)にのみ費やされる現象から潜熱を発見。潜熱の概念は、熱運動説よりも熱物質説(カロリック説)との親和性が高く、カロリック説支持に寄与した。

1765        
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1766 ヘンリー・キャベンディッシュ イギリス

書物『人工空気に関する実験についての三つの論文』

可燃性の軽い人工空気(水素)

金属(亜鉛、鉄、錫など)を酸で溶かすと、可燃性の気体(フロギストンと呼ぶ)が発生し、その重さは通常の空気の1/11であることが報告された。キャベンディッシュが発見し、生成した人工空気は、人工的に発生させた気体を意味する。"可燃性の人工空気"は後に、ラヴォアジエによって元素の一つであることが確認される。

【錬金術の瓦解】

錬金術の基盤である四元素の一つである"空気"について、人工的に発生させることができ、大気とは異なる性質を持つ気体があることが判明する。

1766 ヨハン・ダニエル・ティティウス ドイツ

ティティウス=ボーデの法則

※未発見の惑星の予感

物理学者ティティウスは太陽から各惑星(当時知られていた6惑星)までの距離(軌道長半径)aが簡単な経験式(数列)で表せることを発見。a/AU=0.4+0.3×2^nとなり、n=-∞が水星、n=0が金星、n=1が地球、n=2が火星、n=4が木星、n=5が土星である。n=3とn=6は当時対応する天体は見つかっていなかった。

※AUは天文単位であり、太陽と地球の距離を意味する。

ティティウスの発表は当初、物理的根拠に乏しく学会の反応は冷ややかでパズルの類に過ぎないと批判された。しかし1772年に天文学者ボーデが著書『星空の知識入門』(第2版)でこの法則と物理的説明や考察を紹介したことで注目され始めた。

後に天王星(ハーシェル/1781年)が発見され、古代からの惑星数の固定観念が崩壊した。また天王星はティティウス=ボーデの法則のn=6に対応しており、法則の信憑性が高まった。

そこでn=3の惑星を探す動きとなり、その結果火星と木星の間の小惑星帯(メインベルト)において小惑星ケレス(ピアッツィ/1801年)が発見された。n=3の領域のメインベルトには惑星クラスの天体は存在しなかったが、一説には近くの木星の重力により集合が阻害されたのではないかと考えられている。現在でも小惑星ケレスはメインベルトの最大の天体である。

1767 ジョゼフ・プリーストリー イギリス

書物『電気学の歴史と現状』

 
1767 ジョゼフ・プリーストリー イギリス

電気力の逆二乗則を提唱

※定量的な証拠はなし

 
1768 エンデヴァー号 イギリス

エンデヴァー号(帆船)の出港

太陽視差

1天文単位(太陽-地球の距離)

1769年6月3日に金星の太陽面通過が起きることを軌道計算から予測。観測条件の良い南太平洋に遠征隊(エンデヴァー号:クック船長)を派遣し、金星の日面通過時間から太陽の視差を計算。正確な太陽視差が測定できれば、正確な1天文単位が計算できる。
1768     ゴム管 1768年にゴム製品がポルトガル国王へ献上され、世間にも存在が知れ渡った。1768年には実用化の一例としてゴム管が作られた。
1769 ジェームズ・ワット イギリス

揚水機械 (蒸気機関)

※熱効率は3%へ

ワットは17歳でロンドンで器具製作を学び、22歳でグラスゴー大学内で実験器具の製作工房を開業。その後、ニューコメン機関(大気圧機関/1712年)の模型作りの依頼を受け、これが蒸気機関の改良の端緒となる。ニューコメン機関の欠点は、仕事に寄与しないシリンダー自体の加熱・冷却の繰り返し(大きな熱損失)と、頻繁な温度変化によるシリンダーの金属疲労による故障の多さにあった。ワットはこれら欠点を改善するため、復水器(冷却専用シリンダー)を追加で設けるなど改良し、ピストン内蔵のシリンダーを高温に維持することで、減圧だけでなく蒸気による増圧をそのまま動力として利用可能にした。熱機関(熱エネルギーを力学エネルギーに変換する機械)としての効率は、1%未満(ニューコメン機関)から約3%まで高めたが、依然、残り約97%の熱は熱のまま捨て去られた。製造技術の制約で大気圧程度の蒸気圧しか扱えない点はニューコメン機関と同様であり、小型化に向けてより高圧に耐えられる部品の製造技術が求められた。

ワットの蒸気機関の実用テストの成功は、1774年頃である。1780年代には本格的にワットの蒸気機関は普及し、石炭の産出量の急増に貢献した。

【気体の状態方程式について】

気体の性質は、ボイルの法則(1662年)は知られていたが、シャルルの法則(1787年/1802年)はまだ知られておらず、それらを統合したボイル=シャルルの法則の発見者は未定とされるが、早くても1787年だろう。つまり、ニューコメン(1712年)やワット(1769年)の蒸気機関は、気体の性質が明らかではない中で経験的な試行錯誤により開発されたと言える。

1769 ニコラ・ジョゼフ・キュニョー フランス

蒸気機関車(世界初の自動車)

蒸気機関を搭載した大型車両を開発。実験走行中に壁に衝突し、その後二度と走ることはなかったが、世界最初の自力で走った自動車となった。
1770 アントワーヌ・ラヴォアジエ フランス

書物『水の本性について…』

定量的な精密化学実験

元素変換(水→土)の否定

※錬金術の原理の否定

書物『水の本性について、及び水の土への変換を証明すると称される実験について』を著す。徴税請負人ラヴォアジエは、職人に特注して作らせた実験機器を使い高精度の定量測定を実施。水の煮沸実験から定量的に元素変換(水→土)を否定した。

【錬金術の瓦解】

錬金術の基盤である四元素に対して化学的操作により可能と信じられてきた相互変換のうち、水と土の相互変換を精密な定量分析によって否定した。

1770 ジョゼフ・プリーストリー イギリス

消しゴム

※India Rubber

コロンブスの発見(1493年~1496年)以来、暑いとベトつき、寒いと堅くなるゴムの実用化は限定的であった。プリーストリーは1770年頃、消しゴムとして有用であることを報告(これ以前はパン屑を使用)。ここから英語のrubber(ゴムの別称、こするものの意)という語が生まれた。※グッドイヤーによる加硫法の発見(1839年)でゴムの実用性は高まる。

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1771 シャルル・メシエ フランス

書物『メシエカタログ

星雲(ネブラ)のリストアップ

メシエは当初、彗星の観測に従事していたが、彗星と見間違いやすい星雲(nebula)の存在に気づき、夜空に見える星雲を全てリストアップした。1771年に発表された最初のカタログ(メシエカタログ)には45個の星雲や星の集合が挙げられた。

その後リストされる星雲の数は次々に増やされ、これらの星雲にはメシエにちなみM1から始まるM番号(メシエナンバー)が割り振られることとなった。

1772 カール・ヴィルヘルム・シェーレ スウェーデン

酸素ガスの分離

集光レンズで集めた太陽光をガラス容器内に置いた酸化銀を加熱し、初めて純粋な酸素を取り出した。シェーレはこの激しく燃える気体を"火の空気"と名付けた。
1772 ダニエル・ラザフォード イギリス

窒素

密閉容器内の空気中で炭化水素を燃焼させ、二酸化炭素を除いた残存気体を「タメな空気」とした。このダメな空気は火を消し、動物を窒息死させる気体であった。ラザフォードは、ダメな空気をフロギストンで飽和された気体(今でいう窒素)と考えた。

1772

ヘンリー・キャベンディッシュ イギリス

電気力の逆二乗則

※後のクーロンの法則(1785年)

電気力は距離の二乗に逆比例して変化するか、あるいは逆二乗から外れたとしても、その違いは1/50以下であるという結論を得た。これは1785年にシャルル・ド・クーロンが発見する(電気に関する)クーロンの法則に他ならない。クーロンよりも早くこの法則をキャベンディッシュが発見していたことは、後にキャベンディッシュ研究所の初代所長になるマクスウェルによるキャベンディッシュの実験ノートの解読調査(1874年~1879年)から知られることになる。

1774

ジョゼフ・プリーストリー イギリス

酸素ガスの分離

 
1774 A.ゴットロープ・ウェルナー ドイツ 書物『鉱物の外的特徴』

ウェルナーは製鉄所の監督官だった父親の影響で鉱物学に興味を持ち、製鉄所での実務経験を積んだ後、フライベルグ鉱山学校で鉱山技術者になるための基礎教育を受けた。後にライプチッヒ大学に進学し、在学中に書物『鉱物学の外的特徴について』と題する鉱物分類の著作を出版した。これが認められ、1775年には母校(鉱山学校)の教員に迎えられている。

本書は鉱物を表面の色彩・パターン、形状などから細かく鉱物を分類する。色彩は、白・黒・灰色・青・緑・黄・赤・茶色の8つの基本的な"色類"に分け、その下にさらに"色種"を定め、鉱物の色を分類する。また色や形などの外的特徴のみならず、固い物で引っ掻いた時の傷の付き方や、叩いた時の音の鳴り方なども判断指標として利用した。

1775  

イギリス

アメリカ

アメリカ独立戦争、発生

※1775年~1783年

1775年4月~1783年9月の間のイギリス本国とアメリカ東部沿岸イギリス領(13植民地)の戦争。ボストン近郊でイギリス軍と植民地軍の衝突が引き金。翌年1776年7月にアメリカ独立宣言が大陸会議にて採択。

1775 ジョン・ウィルキンソン イギリス

高精度の中ぐり用旋盤

工場主・発明家のウィルキンソンは、隙間の狭い高精度な蒸気機関シリンダーを製作可能な中ぐり用旋盤を発明。中ぐり用旋盤で金属材料を回転し、そこに固定した刃物を接触させて金属材料を筒状に加工。直径1.45mの中ぐり用旋盤により誤差0.15mのシリンダーが生産可能となり、砲身製造にも利用された。中ぐり用旋盤では、刃物台を歯車で動かすため、金属材料を削る際に双方の距離を調整する点は不便であった。

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1776 クリスティアン・ホレボー デンマーク

太陽の黒点活動の周期性

※太陽活動の周期性

黒点が極めて少なかったマウンダー極小期(1645年~1715年)が18世紀初頭に終わると、太陽黒点についての理解は進展する。デンマークの天文学者ホレボーは、太陽黒点の増減が周期的である可能性を初めて指摘した。但し、その詳細までは踏み込めなかった。

※太陽黒点の周期性が10年周期だと発表(1844年)したのは、ハインリッヒ・シュワーベである。

1777 アントワーヌ・ラヴォアジエ フランス

書物『新しい燃焼理論』

空気は混合物(酸素と窒素)

燃焼反応における重量変化に着目し、物質的な授受の描像を示した。従来の脱フロギストン空気を酸素と名付け(1779年)、空気は単体ではなく、酸素と窒素の混合物であると結論付けた。

1778        
1779 アントワーヌ・ラヴォアジエ フランス 酸素の発見 酸素ガスの単体分離は既にシェーレやプリーストリーにされていた。ラヴォアジエは元素として酸素を認識し、呼吸と燃焼における酸素の役割を解明。物質と酸素の化合が燃焼であると定義。
1780

ルイージ・ガルヴァーニ

イタリア

動物電気(ガルヴァーニ電気)

解剖学者ガルヴァーニは、起電機や雷を用意せずとも2種類の金属の組み合わせで電気(ガルヴァーニ電流と呼ぶ)が流れ、カエルの脚が痙攣することを発見。この実験結果は後に論文『筋肉運動に対する電気作用について』として発表(1791年)。ガルヴァーニの見解は、2種類の金属の組み合わせが必要であるものの、電気の発生源はカエルの体内とし、流れる電気は動物電気と呼ばれた。エイやウナギなど発電器官を持つ魚は知られており、そこから類推されたとすればごく自然な見解とも言える。動物電気の実験は、容易に再現できるため理学者、生理学者、医者のみならず庶民まで広く知られた。反響が大きかった理由として、既に死んだと思われる切断されたカエルの脚がまるで蘇ったからのように動く生命の不可解さもあったのではないか…と思われる。カルヴァーニの動物電気の発見は、1818年に出版される小説『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』(メアリー・シェリー著/イギリス)の着想にもなったとされる。ここでの"プロメテウスの火"とは新たなエネルギーである電気のことを指すと指摘されている。

※起電機とは、回転するガラス円板とクッションの摩擦で発生させた静電気を集めておく装置で、当時のヨーロッパの実験室でよく見かけるものである。

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1781

ヘンリー・キャベンディッシュ

イギリス

電圧と電流の比例法則

※後のオームの法則(1827年)

 
1781

F.ウィリアム・ハーシェル

カロライン・ルクリシア・ハーシェル

イギリス

天王星(ジョージ星)

※ティティウス=ボーデの法則のn=6

※惑星数の固定観念が崩れる

音楽家ハーシェルは、科学書に記される望遠鏡の製作法と天文観測に強く興味を惹かれ、実際に自身で部品を買い集めて反射鏡とレンズを磨き、倍率千倍に及ぶ反射望遠鏡を作成した。故国(イギリス)にいた妹のカロリーネ(英語でカロライン)をドイツに呼び寄せ、2人で協力して夜空の星々を系統的に観測(恒星分布の調査)を行った。

天文観測を初めて10年目の1781年、丹念な夜空の観測を継続によって特異的な運動をし続ける星を見出した。これが惑星であることが判明し、当時のイギリス王ジョージ3世を称えて「ジョージ星」と名付けた。後にこの新惑星は、太陽系第7番目の惑星である天王星(ウラヌス)と正式に命名される。天王星の発見により古代より惑星は6個(水星・金星・地球・火星・木星・土星)という固定概念が崩れ去った。なお天王星は、ティティウス=ボーデの法則におけるn=6の惑星に相当し、この法則の信憑性は高まった。

ハーシェルはこの功績により、終身年金を受け取れることになり、さらに天文学の研究に専念していった。

1781 イマヌエル・カント ドイツ

書物『純粋理性批判

コペルニクス的転回という表現

カントは著書『純粋理性批判』において、自説の斬新さとそれ故の理論の明晰さを強調するため、天動説(地球中心の宇宙体系)を否定して地動説(太陽中心の宇宙体系)を唱えたコペルニクスを引用した。その際に用いた表現が「コペルニクス的転回」であり、いわばの自分の本のPRのための惹句(キャッチフレーズ)であった。

1783 F.ウィリアム・ハーシェル イギリス

論文『太陽と太陽系の固有運動』

宇宙における太陽系の運動

ハーシェルは、望遠鏡の発明(リッペルハイ/1608年)後の17世紀の観測結果と18世紀の観測結果を突き合せて、恒星の僅かな位置変化とその速さを確認した。数十個の恒星の約半世紀にわたる位置変化を調べた結果を、論文『太陽と太陽系の固有運動』で発表した。長期的な観測で天界の位置を変化させている恒星はいくつも存在し(半年ごとの変化ではないため年周視差ではない)、僅かな変化もあれば大きな変化もあった。

ハーシェルは天界の恒星の長期的な位置変化は、太陽系の動きのせいではないかと考えた。恒星の位置変化の分布を調べることで、我々の太陽系はヘラクレス座のラムダ星へ向かって動いていると推測した。

1783 モンゴルフィエ兄弟 フランス

熱気球

世界初の有人飛行

空を飛ぶ夢を最初に実現したのは熱気球である。製紙業を営むモンゴルフィエ兄弟は、紙袋に水素を入れて飛ばす実験を試みた。しかし、水素はすぐに抜けて少し浮かび上がる程度。兄弟は空に立ち上る煙に目につけて、煙により浮かばせることに成功。兄弟は、煙の中に水素のような空気より軽いガスが含まれていると認識していた。

1783年6月4日、パリで熱気球の公開飛行を実施し、内側に紙を貼った布製の気球に煙を流し込み、約2km(約10分間)ほど飛んだ。さらに9月19日に動物(羊とアヒルと鶏)を乗せて飛行し、10月15日に人類初の有人飛行(係留あり)を達成。11月21日に係留なしの有人飛行を達成。

1783 ジャック・シャルル フランス 水素気球

モンゴルフィエ兄弟の熱気球の評判を聞き、シャルルは煙(熱)ではなく水素を使用する気球を考えた。課題は、大量に水素を作る方法とその水素を溜める気球素材である。水素は鉄屑(0.5t)を硫酸(0.25t)で溶かして用意し、密閉性の高い気球は内面をゴムで塗ったものを用意した。

1783年8月27日、パリで飛行実験を実施。上空1000mの高度、24km(約1時間)ほど飛行した。12月1日に水素気球による有人飛行を達成。

1784 ヘンリー・キャベンディッシュ イギリス

論文『空気に関する実験』

水の合成

キャベンディッシュは、空気(混合物であることの発見/1777年)と水素(可燃性の軽い人工空気/1766年)を密閉容器に入れて、蓄電池から放電させた電気火花で燃焼させる実験により少量の水が結露することを発見した(水素と酸素が化合し、水が生じた)。
1784 ピエール・シモン・ラプラス フランス

太陽系の安定性を証明

摂動論を考案

18世紀には過去の観測データより、木星と土星の軌道が各々で少しずつ変化していることが確認されていた。これは太陽以外の惑星間でも微弱ながら重力が働き、その影響が長い年月では無視できないためである。将来的には木星や土星の軌道が大きく狂い、太陽系が崩壊してしまうのではという疑問が生まれたが、重力を作用しあう天体が三つ以上になると、計算は途端に難しくなり、厳密解を求めることが不可能になる。こうした中、摂動論を用いて計算し、太陽系の長期的な安定性を証明したのがラプラスである。

摂動論とは、太陽の強い重力に加えて他の惑星の微弱な重力を補正項として考慮し、近似計算を繰り返して、惑星運動の微細なズレを限りなく厳密に求める力学的手法である。この結果、木星や土星はその平均的な軌道の周囲を長い周期で変動するだけだと分かった。

※後に摂動論による惑星軌道の解析は、観測データとのズレを用いて逆算的に未知の惑星を発見する糸口となっている。例えば、天王星の軌道のズレから海王星(ガレ/1846年)が、海王星の軌道のズレから冥王星(トンボー/1930年)が見つかっている。

1784 レバレンド・ジョン・ミッチェル イギリス

暗黒星

ブラックホール理論のはしり

強力な重力により光の粒子が引き付けられて出てこれない暗黒の星の存在を発表。当時、ニュートンが支持する光の粒子説が優勢であり、ミッチェルは光が粒子であるならば万有引力の法則が働き。ミッチェルは、太陽の500倍以上の星では光は脱出できないと述べた。

【ブラックホール理論の前提の違い】

ニュートンによれば万有引力は質量のあるもの同士で働く力と定義されるため、光を粒子とすれば何かしら質量があり、万有引力が光にも働くという前提で暗黒の星(今でいうブラックホール)の存在を予言したと思われる。現代では一般相対性理論(アインシュタイン/1915年)に基づいて、大きな質量(密度)を持つ物体が周囲の時空を歪めることが万有引力の原因であるため、質量のない光であってもその傍を通り過ぎる場合には進路が曲げられたり、脱出できなればブラックホールとなる。

1785 シャルル・ド・クーロン フランス

電気のクーロンの法則

磁気のクーロンの法則

※距離の逆二乗則

捩り秤

電気・磁気の定量評価

摩擦の法則

土木技術者のシャルル・ド・クーロンは、電気や磁気を初めて定量的に評価した。自作の"捩り天秤"を使い、2つの電荷間に働く静電気力を測定。電荷間に働く斥力や引力は、2つの電荷量(Qとq)の積に比例し、距離の2乗に逆比例する数式を示した。また磁気(磁極であるN極とS極の間)でも同法則が成立することを発見。クーロン(C)は電気量の単位でもある。

※捩り秤は、金属線のねじれの角度によって作用した力を測るもの。

※ニュートンの万有引力の法則(逆二乗の法則)の発見(1687年)から約100年後のこと。

1785 アントワーヌ・ラヴォアジエ フランス

水の熱分解

水は元素でないことの実証

赤熱した銃身(鉄)に水蒸気を通すと水素と酸素に分解されることを示した。酸素は鉄に酸化鉄として固定させ、残る水素は補集した。水が単体(元素)ではないことを実証した。
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1786        
1787 ジャック・シャルル フランス

シャルルの法則

※定圧下の体積と温度の関係

絶対零度

シャルルは水素気球実験(1783年)の4年後に精密実験により、空気の体積(V)と摂氏温度(t)の間にV=a(t+273)という関係式(シャルルの法則)を発見。aは比例定数。また関係式を図示し外挿すると、体積をゼロにした時の温度として絶対零度(約-273℃)を発見。摂氏温度(℃)を絶対温度(K)に書き換えると、シャルルの法則はV=aTとシンプルになる。熱気球はモンゴルフィエ兄弟が発明したが、熱が浮力を生み出す原理はシャルルが解明した。

【シャルルの法則の発見・発表】

シャルルの法則は、シャルル自身は1787年頃に発見していたが公表はしなかった。シャルルの研究成果を検証し、世の中に発表したのはゲイ・リュサックによってである(1802年)。

1787 不定  

ボイル=シャルルの法則

ボイル=シャルルの法則の公式的な発見者はおらず、これまでに発見された諸法則を一つの式に融合したものである。諸法則とは以下の三つの法則である。

ボイルの法則(ボイル/1662年):PとVの関係(T:一定)

アモントンの法則(アモントン/1700年頃)もしくはゲイ・リュサックの法則:PとTの関係(V:一定)

シャルルの法則(シャルル/1787年):VとTの関係(P:一定)

①~③が出揃うのは1787年のため、1787年をボイル=シャルルの法則の発見年とした。但し、シャルルの法則が再発見され、世間に広まるのはゲイ・リュサックによる功績(1802年)と考えられるため、1802年をボイル=シャルルの法則の発見年と考えることもできる。

1788 J・ルイ・ラグランジュ フランス

書物『解析力学』

ラグランジュの運動方程式

力学的エネルギー保存則

オイラーの運動方程式(1760年)では直交座標を用いていたが、ラグランジュは直交座標の代わりに一般化座標と呼ばれる適当な独立変数で表現する運動の一般方程式(ラグランジュ方程式)を導いた。

ラグランジュはラグランジュ方程式により、位置エネルギーと運動エネルギーの和の時間変化はゼロとなること(→力学的エネルギー保存則)を数学的に証明した。当時はまだエネルギーという用語は導入されていなかったが、実質的に力学的エネルギーの保存を示した。

※力学的エネルギーを含めたより包括的なエネルギー保存則の概念は、電磁気学や熱力学の確立後にユリウス・ロベルト・フォン・マイヤーによって1842年に提唱される。

1789   フランス

フランス革命、発生

※1789年~1799年

1789年5月~1799年11月。

1789

アントワーヌ・ラヴォアジエ

※近代化学の父

フランス

書物『化学原論』

質量保存の法則

(⇒精密な定量測定)

単体(元素)の定義と元素表

(⇒錬金術の終焉)

化学的にそれ以上分割できない究極の要素を"単体(元素)"と定義。水素、酸素、窒素など33種の元素をリストアップし、初めて元素表なるものを提示。その中には熱現象に係る不可秤量物質(質量のない物質)であるカロリック(熱素)も含まれた。化学反応における質量保存の法則が示され、化学反応とはモノの配列替えにすぎず、モノが消えたり発生することはないと結論付けた。化学反応を定量的に捉える新しい物質観を提示。

【錬金術の終焉】

錬金術の基本思想は、万物は火、空気、水、土の四元素からなるとする古代ギリシア以来の物質観が支配的であった。これら4元素は化学的な操作で相互変換できると考えられ。

1789 M.ハインリヒ・クラプロート ドイツ

ウラン

ウラン鉱物であるピッチブレンド(閃ウラン鉱)から酸化ウランを生成し、新元素ウランを発見。

1790

       
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1791 ルイージ・ガルヴァーニ イタリア

論文『筋肉運動に対する電気作用』

→動物電気(ガルヴァーニ電気)

ボローニャ大学の解剖学教授ガルヴァーニは、1780年に発見した動物電気(ガルヴァーニ電気)について論文にまとめ、発表した。まるで死んだ生物が生き返ったかのような発見であり、後にボルタの電堆(パイル,今でいう電池)の発明(1799年)、電磁気学の発展につながる。また文学界でもメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』(1818年)の着想にもなったと考えられる。

1791 ニコラ・ルブラン フランス

ソーダ(炭酸ナトリウム)の工業的製法

(ルブラン法)

ルブランは、塩化ナトリウムから炭酸ナトリウムを合成する方法(ルブラン法)を開発。ルブラン法はソルベー法(アンモニア・ソーダ法)(1861年)が開発されるまでルブラン法は利用された。

1791 マイケル・ファラデー イギリス

ファラデー、誕生

1791年9月22日、ファラデーはテムズ川に架かるロンドン・ブリッジから南へ2kmほどのニューイントン・バッツで、貧しい鍛冶職人の家に生まれた。父は病気がちで、一家の生活はいつも困窮していた。満足な学校教育を受けることなく、家計を助けるために13歳でロンドンの製本屋リボーのもとで働き始める。

当時の富裕層の間では自分の好きな本を独自のデザインを施し、金箔で書名を打刻した蔵書を作ることを趣味とする人が多く、リボーのもとにもその注文が多数あった。少年ファラデーは製本仕事の修業を積む中、仕事の合間を利用して、製本依頼の書物を読み、独自に科学(特に電気と化学)の知見を深めていった。また実際に自ら実験装置を組み立てるようになり、それに感心した製本屋の顧客のダンスから王立研究所(1799年設立)で開催されていた化学者デービーの公開講座のチケットを譲り受けた(1812年)。

幸運な偶然から王立研究所(1799年設立)の花形教授デイヴィーの助手に採用されたことを契機に科学者としての道を歩み始める。数学的素養を身に付ける教育の機会に恵まれなかったが、開拓期にあった電磁気学や化学などの分野で実験を通じた発見により、数々の金字塔を打ち立てる。

1792 ジョサイア・ウェッジウッド イギリス 温度と放射スペクトルの関係

高名な陶芸家ジョサイア・ウェッジウッドは、全ての物体が同一温度で赤色になることを記録している。なお陶磁器メーカーのウェッジウッドのHPはこちら

1794

カウント・ランフォード

(ベンジャミン・トンプソン)

アメリカ

論文『摩擦による熱の源に関する実験的研究』

カロリック説(熱素説)への疑問

⇒熱運動説へ

仕事から熱への変換

ミュンヘンの兵器工場で砲身の中ぐり作業中、その摩擦力により発生する大量の熱を見てカロリック説(熱素説)に疑問を抱いた。当時、熱が原子・分子の運動により生じるとする熱運動説は一般的ではなく、熱を運ぶカロリック(熱素)が広く支持されていた。
物質内に含まれる有限のカロリック(熱素)が、中ぐり作業を続ける限り無尽蔵に湧き出す様子を見て、カロリック(熱素)ではなく物質粒子の運動だとランフォード伯は考え、熱運動説を提唱した。

ランフォードの熱運動説は仕事から熱を生み出す逆のエネルギー変換を研究対象としており、19世紀に定式化されるエネルギー保存則の発見に至る地盤を形成したと言える。

※後にジェームズ・ジュールにより力学的仕事が熱に変換される効率の定量的な研究(熱の仕事当量の研究)が行われる(1845年)。

【産業革命と熱運動説の提唱】

定性的な説明ではカロリック説は有効であったが、産業革命によって蒸気機関で動く工作機械(ジョン・ウィルキンソン発明の中ぐり用旋盤/1775年)などが登場し、短時間で膨大な熱が発生するのを目の当たりにする機会が増えたことがカロリック説への疑問、熱運動説が台頭した背景にあろう。

1794

ロバート・ストリート

イギリス

ガスエンジン(内燃機関)の考案

揚水ポンプ用のガスエンジンを考案。実際に実用化はされなかった。

※内燃機関の実用化は1860年にエティエンヌ・ルノワールにより製作されたガスエンジン(ルノワール・エンジン)とされる。

1794 アントワーヌ・ラヴォアジエ フランス

ラヴォアジエ、断頭台へ

ラヴォアジエの本業は、フランス革命前の旧体制下における徴税請負人だった。そのためフランス革命によって断頭台の露に消えた。

1795

       
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1796 ピエール・シモン・ラプラス フランス

書物『世界の体系』

暗黒星の紹介

ジョン・ミッチェルに続き、ラプラスは自著『世界の体系』の中で暗黒の星(ミッチェル/1784年)の存在についてミッチェルと同じ説で紹介した。暗黒の星は、光の粒子説と万有引力の働きをベースにして考案されたが、光の干渉実験(トマス・ヤング/1801年)以降、光の波動説が優勢になるとこの着想はしばらく忘れ去られる。

1798 パリ科学学士院 フランス

メートル法の制定

メートルの原器及びキログラムの原器

メートルの定義 → 地球の子午線

キログラムの定義 → 水の密度

セカンドの定義 → 地球の自転

当時、国/都市/仕事ごとに無数の単位があり、商工業・科学の発展の障害となっていた。フランス革命(1789年5月~1799年11月)の最中に、革命政府(国民議会)の決議を経て、パリ科学学士院が新たな単位の策定を始めた(1791年)。

長さの単位(m)は、「地球の北極から赤道までの子午線の1000万分の1」と定義し、メトロン(ギリシャ後で"測る"の意味)からメートルと命名。パリを通る経線上の北端(ダンケルク)~南端(バルセロナ)の距離を測量し(約1000km)、その40倍(360°/9°)から地球一周の距離(約40000km)を測定。

質量の単位(kg)は、「1気圧のもとで密度最大1cm^3の水の質量(1g)の1000倍」と定義。但し、水は気圧・温度・蒸発などでブレるため定義通りの測定は困難であった。そこで同じ質量の金属製の分銅を作り、以後はそれを基準として利用した。

時間の単位(s)は、「1平均太陽日(地球の自転1回分)の1/86400」と定義。これは1日を24等分、1時間を60等分、1分を60等分している(24×60×60=86400)。平均太陽日とは、ある地点での太陽が南中してから再び南中するまでの時間の平均値である。

1798 ヘンリー・キャベンディッシュ イギリス

論文『地球の密度の測定実験』※キャベンディッシュの実験

地球の密度測定

⇒万有引力定数の決定

当時、地球の密度はいくらか、ということが天文学者、物理学者、地質学者、測量技師にとって問題となっていた。王立協会は1772年に万有引力委員会を発足し、測定により地球の密度を求めようとした。

キャベンディッシュの友人ジョン・ミッチェルは、実験室内で2つの物体の間の万有引力を測定する装置を作り、地球の密度を求めようとした。しかしジョン・ミッチェルは実験を始める前に亡くなったため、後にキャベンディッシュがそれを精度を高め改良した。キャベンディッシュはねじり秤の原理を応用して精密な測定を行い、2つの金属球の間の万有引力の大きさを測定することに成功した。それの結果から地球の平均密度が水の5.48倍であることを導き、王立協会に提出した。またこの実験から万有引力定数を正確に決定でき、任意の2つの物体の間の万有引力が計算できるようになった。

1798 志筑忠雄 日本

書物『暦象新書

ニュートン力学の日本への移入

※オランダ語版からの和訳

ニュートンの大著『プリンキピア』(1687年)が日本に移入されたのは、一世紀余り後の1798年(江戸時代後期/寛政10年)に志筑忠雄による翻訳書『暦象新書』を通してである。この『暦省新書』は、イギリスの物理学・天文学の書物のオランダ語訳を日本語に翻訳し、注釈を加えたものである。なお地動説、重力、求心力、遠心力などの訳語を作ったのは志筑忠雄である。1798年に暦象新書の上編、1800年に中編、1802年に後編が完成する。

1799 アレッサンドロ・ボルタ イタリア

電池 (電堆/ボルタ電池)

ボルタの列

ボルタは友人であるカルヴァーニの動物電気(1780年)の研究に触発され、電池の原理を突き止めた。カエルの脚は単なる検出器であり、電気の発生源は接触した2種の異なる金属である。ボルタはZnとCuのような2種の金属板で塩水に浸した紙やフェルトを挟み込んだものを積み上げた電堆(電池)を作り、電流が得られることを報告した。

ボルタは起電力は2種類の金属の組合せと一つの液体で決定し、物体の接触面の大小には関係しないことを示し、電流の流れの方向と起電力を決めるボルタの列(Zn-Pb-Sn-Fe-Cu-Ag-Au)を発表した。

1799 ジョゼフ・プルースト フランス 定比例の法則 薬剤師の家に生まれたプルーストは、化合物が純粋であれば構成する元素を同じ質量比で含むという定比例の法則(一定組成の法則)を発見。異なる鉱山で産出した孔雀石であっても、それが純粋ならば定比例の法則に従う。従わないの場合は混合物と判断できる。なお、定比例の法則は元素が固有の質量を持つことを示唆している。
1799 ピエール・シモン・ラプラス フランス

書物『天体力学』、刊行開始

※全五巻、1825年に完結

摂動論

太陽系の安定性の証明

当時、過去の観測記録から木星と土星の軌道の大きさが徐々に変化していることが指摘されていた。ケプラーの法則に従って、両惑星が永久に同じ楕円軌道を回り続けるわけではなく、いずれ太陽系が崩壊するのでは…という危惧が指摘され始めた。

ラプラスは摂動論という解析学の計算法を用いて、木星と土星の各軌道はその平均の大きさのまわりを周期的に振動していることを示した。つまり、軌道の変化が一方向に進行して太陽系が崩壊することはなく、太陽系は安定して存在し続けることを実証した。

※摂動論とは、惑星の運動を決定する際に、太陽からの強い重力に加えて、他の惑星からの微弱な影響も補正項として近似的に取り入れ、計算を逐次繰り返して、最終的に精確な解を求める手法である。

1799 ナポレオン軍 エジプト ロゼッタ・ストーン エジプト遠征中、ナイル河口のロゼッタで古代エジプトの神殿の一部と思われる石板を発見。
1799

ジョセフ・バンクス

カウント・ランフォード

(ベンジャミン・トンプソン)

イギリス

イギリス

王立研究所、設立

大英帝国の首都に知識を普及し、有用な機械の発明と改良を促進させ、学術講演と実験を通して、科学を日常生活に役立てることを目的とした公共の機関を、寄付金により設立する、という趣旨のもと王立研究所は設立された。

教授には1800年にガーネット、1801年にヤング、1802年にデービーとなっている。

1800 アレッサンドロ・ボルタ イタリア 論文『異種の伝導物質の単純な接触によって発生する電気』

1799年に製作した電堆(パイル)について、論文としてロンドン王立協会の哲学会報に発表した。論文タイトルにあるように、電気の発生源は、ガルヴァーニが主張したような生物が持っている発電器官ではなくて、異種金属同士の単なる接触によることを強調している。

従来、摩擦起電機で得た摩擦電気をライデン瓶(蓄電器)に一定量貯めておき、電気実験の際には放電現象として瞬間的に利用していた。ボルタの電池は連続的に長時間の安定した電気を供給できる(静電気に対して動電気と呼ぶ)ため、後世の電気エネルギーの活用や電磁気学の発展に貢献した。

1800 F.ウィリアム・ハーシェル イギリス 赤外線 太陽光の熱作用を調べるため色ごとの熱量を測定。赤色の外側に温度計を置くと、最も強い熱作用が見られた。
1800

アンソニー・カーライル

ウィリアム・ニコルソン

イギリス

イギリス

水の電気分解

⇒水素と酸素に分解

※水は元素でないことの実証

電気分解法

ボルタ電池の発表を受けて、カーライルは早速自ら電池を製作。金属と導線の接触をよくするため水を垂らしたところ、導線の周りから気泡の発生が認められた。そこでカーライルはニコルソンと共同で、水を満たした管の中に導線を二本差し込み、一方を銀板(陰極側)、もう一方は亜鉛版(陽極側)につないで電気を流した。その結果、陰極から水素、陽極から酸素の発生が確認でき、電気エネルギーによる水の電気分解を発見した。電気には化学反応を引き起こす能力があり、電気分解法という新たな化学分析法を提示した。

【電流の3作用について】

電流の3作用(熱作用、磁気作用、化学作用)のうち、化学作用の発見である。続いて磁気作用はエールステッドアンペール(1820年)、熱作用はジュール(1840年)に定量的な評価がなされる。

1800 ヨハン・ヴィルヘルム・リッター ドイツ

硫酸銅溶液の電気分解

⇒銅を析出

電気分解法

リッターはカーライルらによる水の電気分解の研究に注目し、硫酸銅溶液に対して電気分解を行った。電気エネルギーによって極板に銅を析出(単離)した。