■飛鳥時代 (592-710)
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
592 | 崇峻天皇、暗殺される | ||
593 |
推古天皇、即位 初の女性天皇となる第33代推古天皇が即位。 |
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593 |
聖徳太子、摂政に 皇族の聖徳太子(厩戸皇子)が皇太子となり、天皇に代わり政治を行う摂政の役割に就く。 |
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600 |
第一次遣隋使、派遣 日本は122年ぶりに支那(隋)に使節を送った。この時の遣隋使派遣は「日本書紀」には記載なく、隋の正史「隋書」倭国伝に記載があるのみ。遣隋使によって隋の先端の文化や統治制度(中央集権国家の制度)を取り入れた。 |
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
601 | |||
603 |
冠位十二階、制定 役人の位を十二段階に分け、冠の色で識別。従来の出生により職業が決められた制度を改め、優れた人材を役人に登用できるようにした。 |
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604 |
十七条の憲法、制定 理想の国家像と役人としての心構えを記した十七条の憲法を定めた。「和の精神」の大切さを第一項目に、「仏教」への敬意を第二項目に掲げている。 |
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607 |
第二次遣隋使、派遣 第二遣隋使として小野妹子が隋へ派遣。第二次遣隋使は「日本書紀」及び「隋書」ともに記載あり。推古天皇が隋の煬帝(ヨウダイ)に充てた国書には「日出づる処の天子、書を没する処の天子に致す…」と書かれていた。煬帝は天子の称号を日本が使用し、対等な書きぶりであることに激怒した。当時、隋は高句麗と戦争中であったことから「朝貢すれども冊封は受けず」という日本の姿勢を黙認した。 |
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608 |
第三次遣隋使、派遣 前年に煬帝の怒りを買った天子という称号の代わりに、倭国王の称号として天皇を使用。「日本書紀」によるとこの時の国書には「東の天皇、慎みて、西の皇帝に申す」という文面が使用された。記録上、初めて天皇という文字が使用された。 |
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610 |
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
611 | |||
618 |
隋の滅亡、唐の建国 隋王朝の有力貴族の李淵(高祖)は、弱体化した隋を滅ぼし、唐王朝を建国した。 |
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620 |
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
621 | |||
622 |
聖徳太子、薨去 聖徳太子は皇太子のまま薨去(コウキョ)し、天皇に即位することはなかった。以後、蘇我氏が権力を持つようになる。 |
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624 |
朝鮮三国、唐の冊封を受ける 高句麗、新羅、百済は新たに誕生した唐王朝の冊封を受ける。 |
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630 |
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
631 | |||
640 |
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
641 | |||
大化1 | 645 |
乙巳(イッシ)の変 ※大化の改新の始まり(645年~) 蘇我氏が権力を持ち政治が腐敗した状況を打破するため、中大兄皇子と中臣鎌足が立ち上がる。両者は皇極(コウギョク)天皇の前で蘇我入鹿(イルカ)を殺害した。翌日には入鹿の父親の蘇我蝦夷(エミシ)も自害に追い込まれ、蘇我氏は失脚した。
皇極天皇の攘夷、孝徳天皇の即位 乙巳の変を受けて皇極天皇は史上初の譲位を実行し、第36代孝徳(コウトク)天皇が即位。また朝廷は日本で最初の元号「大化」を定め、大化元年とした。 ※現在も元号を定め、使用する国は日本のみ。 |
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大化2 | 646 |
大化の改新の方針を4箇条で掲げた大化の詔(ミコトノリ)を発表。公地公民制、国郡制、班田制、税制に関する4箇条。 公地公民制のもと班田収授法が施行され、戸籍に基づき口分田が与えられ、死ぬと国に返還されることになった。 税制では租・傭・調の3種類があり、租は田の広さに応じた稲を収める税で地方の財源、傭・調は男性の年齢に応じて米・布・特産品を納める税で中央の財源とされた。
豪族の巨大古墳造営が厳しく制限。墳陵は小型簡略化され、前方後円墳の造営がなくなった。古墳時代の事実上の終焉。 |
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650 |
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
651 | |||
660 |
百済、滅亡 唐・新羅連合軍が百済を攻め滅ぼした。倭国は百済とは友好国であり、百済滅亡後には百済の王族・貴族のみならず多くの百済人が日本に亡命した。朝廷は百済人を迎え入れ、半島の文化を積極的に取り入れ活用し、国の運営について学んだ。 |
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
661 | |||
663 |
660年に唐・新羅連合軍に滅ぼされた百済は倭国との友好国でした。倭国の政治を取り仕切る中大兄皇子(後に天智天皇)は、百済の復興を支援するため倭国・百済連合軍で朝鮮に出兵し、唐・新羅連合軍と戦った(白村江の戦い)。 白村江の戦いでは倭国は完敗で、中大兄皇子は唐・新羅連合軍の日本列島侵攻に備えて、九州に防人を置いた。一方で唐はその後高句麗を攻めたため、日本を攻める余裕はなかった。 |
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668 |
天智天皇、即位 中大兄皇子は即位して第38代天智(テンジ)天皇 |
高句麗、滅亡 | |
670 |
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
671 | |||
672 |
天智天皇の崩御後、皇子の大友皇子(オオトモノオウジ)と天皇の弟の大海人皇子(オオアマノオウジ)の間で皇位継承を巡る対立が起き、内乱に発展(壬申の乱)。内乱を制したのは大海人皇子であった。 大海人皇子側の味方は地方中小の豪族であり、大友皇子側の味方は大豪族(蘇我氏・中臣氏など)であったため、内乱を経て有力が豪族が没落したことで、天皇の権威が高まった。 天武天皇、即位 壬申の乱を制した大海人皇子(オオアマノオウジ)は即位し、第40代天武天皇となった。天武天皇は「古事記」や「日本書紀」を編纂を命じた天皇としても知られる。 |
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680 |
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
681 | |||
690 |
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
691 | |||
694 |
藤原京、完成 支那王朝の都を模範にした藤原京が完成。 |
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700 |
和暦 | 西暦 | 日本 | 海外 |
大宝1 | 701 |
大宝律令、制定 大宝律令を制定し、律令国家(現在の法治国家に近い)の体裁を整えた。律は刑罰を定めた刑法に相当し、令は政治システムを定めた憲法・行政法・民法に相当する。大宝律令には詔書の書式を定める法律があり、「日本天皇」を示すよう規定される。つまり日本の国号、天皇の称号を用いることが法律で明文化された。 独自の律令を持つことは独立国に証である。冊封体制下にある国の場合、独自の律令は持たず、宗主国の律令をそのまま流用するのが常である。 |
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大宝2 |
702 |
日本国として遣唐使を派遣 大宝律令制定後の遣唐使では、唐に対して日本という国号を称し、対外的に日本と名乗った最初のこととなる。「旧唐書」によると「日本国は倭国と別種なり。その国、日の辺りに在るを以って、故に日本を以って名となす」と記されている。 |
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和銅1 | 708 |
和同開珎、発行 朝廷は和同開珎という最初の発行。日本で発行・鋳造された最初の貨幣であり、主に平城京で流通した。平城京には東市と西市があり、各地からの多様な物産品で賑わった。 |
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和銅2 | 710 |
平城京に遷都
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