· 

年表_国史_鎌倉時代


■鎌倉時代 (1192-)

和暦 西暦 日本 海外
建久3 1192

源頼朝、征夷大将軍に任命 ※鎌倉幕府の成立

後白河上皇の崩御後、後鳥羽天皇が源頼朝を征夷大将軍に任命し、政権を委任。正式に鎌倉幕府の成立。平氏政権に続く二番目の武家政権が誕生。

 
建久10 1199

源頼朝、落命

将軍・源頼朝は不慮の落馬事故で落命。以後、長男・源頼家が2代将軍となり引き継ぐ。

 
  1200     
和暦 西暦 日本 海外
  1201    
元久0 1204 源頼家、北条時政の刺客により暗殺  
元久0 1204

北条時政、政権掌握 ※鎌倉幕府の初代執権

北条時政は2代将軍源頼家を失脚させ、3代将軍には源実朝に据え、自らは政所の別当となり、政権を掌握。

 
元久2 1205

北条時政、失脚

北条時政は源実朝を廃止て、娘婿の平賀朝雅を将軍に擁立しようと画策していたが、自身の娘の北条政子とその弟の北条義時が有力御家人と協力してい父親である北条時政を伊豆に追放。

 
元久2 1205

北条義時、政権掌握

北条時政を失脚させ、北条義時は政所別当となり、政権掌握。

 
  1210    
和暦 西暦 日本 海外
  1211    
       
       
建保7 1219

源実朝、公暁により暗殺

3代将軍の源実朝が2代将軍の源頼家の子公暁(クギョウ)に暗殺。清和天皇の子孫である源頼朝の系譜が断絶し、出自不明の北条氏が実権を掌握することは、朝廷にとって由々しき事態である。

 
  1220    
和暦 西暦 日本 海外
  1221

『禁秘抄』、成立

第84代順徳天皇が著した禁秘抄。天皇自ら有職故実を解説し、天皇の心構え、宮中祭祀、宮中の日常や行事、天皇が習うべき学問・芸術に至るまで記載。類書はなく歴代天皇が模範としたと思われる。

 
承久3 1221

承久の変 ※幕府支配体制の完成

後鳥羽上皇は執権北条義時の討伐を命ずる院宣を発し、践祚したばかりの仲恭天皇(満2歳)にも同様の宣旨を出させた。上皇自らが挙兵し、鎌倉幕府の御家人に衝撃が走った。

北条泰時を総大将とする幕府軍は京都へ攻め上り、官軍に上皇自らが戦場に来ていないことを確認して戦い、勝利を収めた。

 
承久3 1221 

二上皇(後鳥羽上皇と順徳上皇)を配流

承久の変で京都は幕府軍に完全制圧された。北条泰時は後鳥羽上皇を隠岐(島根県)、父の計画に協力した順徳上皇を佐渡(新潟県)に配流(ハイル)。挙兵に反対した土御門上皇も自分だけ京都に残るのは忍びないと自ら土佐(高知県)に赴き、幼い仲恭天皇は退位させられた。

 
承久3 1221

六波羅探題、設置

幕府は京都の幕府出先機関であった京都守護を改組し、朝廷の監視強化のための六波羅探題を設置。戦後処理として上皇側の公家・武士から取り上げた土地を東国の武士の恩賞としたので、幕府の支配は西国まで広がった。

 
承久3  1221

後堀川天皇、即位

幕府は後鳥羽上皇の兄で皇位に就いたことのない守貞親王(後に後高倉院)を治天の君に推し、その皇子を天皇に立て、第86代後堀川天皇とした。

 
貞応3 1224

北条泰時、第3代執権に

 
  1230    
和暦 西暦 日本 海外
  1231    
貞永0 1232

御成敗式目(貞永式目)、制定

51条からなる初の武家法。武家社会の習慣、源頼朝以来の判例を成文化。御家人の権利義務、所領相続の規定、裁判基準等を定める。

 
  1240    
和暦 西暦 日本 海外
  1241    
仁治3 1242

四条天皇、崩御

満11歳の第87代四条天皇が廊下で転び崩御。御所の廊下で滑石を塗って人を転ばせようとして、自らが転倒と伝えらえる。

 
仁治3 1242

後嵯峨天皇、即位

まだ子供の四条天皇に後継ぎはおらず皇位継承問題となった。北条泰時の意見により承久の変で中立的であった土御門上皇の皇子を即位させることになり、第88代後嵯峨天皇が誕生。

 
  1250    
和暦 西暦 日本 海外
  1251    
建長4 1252

宗尊親王、征夷大将軍に就任

執権北条時頼は後嵯峨天皇の第一皇子の宗尊親王を将軍に迎えた。皇族として初の征夷大将軍であり、北条氏の念願が実現。鎌倉幕府は後鳥羽上皇の軍と戦った過去があるが、皇族将軍が実現し、朝廷との関係は改善された。

 
       
  1260    
和暦 西暦 日本 海外
  1261    
文永3 1266

元からの国書を受け取る

元への服従を求める国書を受け取った執権北条時宗は、この要求を断固拒否する姿勢を示す。

 
       
  1270    
和暦 西暦 日本 海外
  1271

異国警固番役、設置

執権北条時宗は元軍襲来に備えるため、九州の御家人に異国警固番役を課して沿岸警備を命じる。

フビライ・ハン、国号を元に

チンギスハンの孫フビライハンは国号を元と定め、大都(北京)に遷都。

文永11 1274

文永の役 ※元寇

高麗軍含む約3万の元軍が約900隻の軍船に分乗し、対馬・壱岐・九州北部に侵攻(文永の役)。対馬・壱岐の武士・島民は全滅し、九州北部に上陸した元軍に対しては鎌倉幕府軍が撃退。

 
  1272 

後嵯峨天皇、崩御

第88代後嵯峨天皇が後継者を指名せずに崩じたため、兄(第2皇子)の後深草天皇と弟(第3皇子)の亀山天皇の間で深刻な対立が生じ、皇室が分裂した。

 
  1275

元、日本に使節団を派遣

執権北条時宗は元の使節団一行を鎌倉に連行し処刑。 

 
  1279

元、日本に使節団を派遣

執権北条時宗は元の使節団を逮捕し、博多で処刑。

 
  1280    
和暦 西暦 日本 海外
弘安4 1281

弘安の役 ※元寇

再び元は日本に軍勢を送り込む。約4千の軍船に分乗する14万の元兵に対し、12万の鎌倉幕府軍が迎え撃った。再来の準備を進めていた幕府軍により元軍は約2ヵ月間海上に留め置かれた。そして7月30日夜半の台風襲来で元軍は甚大な被害を受け撤退した。元軍の死者数は9~13万人とされる。

 
       
       
       
       
  1290    
和暦 西暦 日本 海外
弘安4 1281

弘安の役 ※元寇

再び元は日本に軍勢を送り込む。約4千の軍船に分乗する14万の元兵に対し、12万の鎌倉幕府軍が迎え撃った。再来の準備を進めていた幕府軍により元軍は約2ヵ月間海上に留め置かれた。そして7月30日夜半の台風襲来で元軍は甚大な被害を受け撤退した。元軍の死者数は9~13万人とされる。

 
       
       
       
       
  1290    
和暦 西暦 日本 海外
  1293 鎮西探題、設置  
       
       
       
       
  1300    
和暦 西暦 日本 海外
応長0 1311

北条貞時、病死

9代執権の北条貞時が病死。以後、幕府内の権力抗争が激化し、執権と得宗の機能不全が表面化。

 
       
       
       
       
  1320    
和暦 西暦 日本 海外
  1321    
       
       
       
       
  1330    
和暦 西暦 日本 海外
  1331    
       
       
       
       
元弘3 1333

鎌倉幕府、滅亡

関東では新田義貞が鎌倉を陥落。16代執権北条守時と得宗北条高時はいずれも自害。約140年続いた鎌倉幕府の終焉。

 
建武3

1336

足利尊氏、京都制圧

九州に退いた足利尊氏は後醍醐天皇の討伐を命じる光厳上皇の院宣を携えて兵を募り、九州で大軍の組織に成功。尊氏は京都へ向かい、湊川の戦いで新田義貞と楠木正成の軍を破り、京都を制圧。