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年表_国史_戦国時代


■戦国時代 (1467-1603)

和暦 西暦 日本 海外
応仁元年 1467

応仁の乱

 

 
文明9 1477

応仁の乱、終結

 

 
天正10.6 1582.6

山崎の戦い

明智光秀を討ち取る。

 
天正10.7 1582.7

太閤検地を本格化

年貢徴収を確実なものとするべく日本全国で田畑の広さ(測量)や収穫高を調査する政策(太閤検地)が本格化。また新しい体積の単位「石(コク)」を導入。

 
天正15.6 1587.6

バテレン追放令、発布

秀吉はキリスト教に対して厳しく対応した。キリシタンが神社仏閣を破壊していること、ポルトガル人が日本人を奴隷として売買していること、宣教師らがスペイン・ポルトガルによる侵略と結託していること、などを問題視し、宣教師を追放した。一方で長崎での南蛮貿易については商売のことだとして、以降も取引の継続を許した。

 
天正16.7 1588.7

刀狩り

戦争を禁止し、全国の治安回復を狙った政策(刀狩り)。刀狩りや検知の徹底は、武士と百姓の区別を明確にし、その後の身分制社会の基盤となる。

 
天正18.8 1590.8

豊臣秀吉、天下統一

7月に小田原征伐(北条氏政を討伐)による関東平定、8月に奥州諸大名(伊達政宗ら)を討伐による奥州平定を果たし、天下統一を完成。

 
天正20 1592

文禄の役(朝鮮出兵)

秀吉は明を征服する野望を抱いていた。朝鮮に明への道を貸すよう求めたが、朝鮮(当時は明の属国)がこれを断ったことで戦争に発展。日本軍の朝鮮出兵により漢城(ソウル)を陥落させるが、各地で義兵が蜂起し、苦戦することになる。

 
       
慶長3 1598

慶長の役(朝鮮出兵)

前回(文禄の役)の失敗を踏まえて戦線を伸ばさず、朝鮮半島南部を固める作戦を採った。秀吉の死により日本軍は朝鮮半島から撤退するが、朝鮮の国土や生活は甚大な被害を受けた。

 
慶長3 1598

豊臣秀吉、没す

秀吉が没したことで北京遷都計画が中止され、日本軍は朝鮮半島から撤退。明の公式記録『明史』によれば明と朝鮮には勝算がなかったと記載される。秀吉による朝鮮出兵が明の国力を奪い、後に支那大陸を統一する女真族(清)の台頭へとつながる。

 
慶長5 1600

関ヶ原の戦い

豊臣氏の支配を続けようとする石田三成が挙兵すると、関東を領地とする徳川家康(秀吉政権の五大老の筆頭)が関ヶ原でこれを破った。

 
慶長8

1603

徳川家康、征夷大将軍に任命

後陽成天皇は関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康を、征夷大将軍に任命し、これにより大政奉還まで264年間続く、江戸幕府が成立する。