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見聞語録_と_独創性


番号 語録 文献

001

■独創性などない

「独創性ということがよく言われるが、それは何を意味しているのだろう。我々が生れ落ちると間もなく、世界は我々に影響を与え始め、死ぬまでそれが続くのだ。いつだってそうだよ。一体我々自身のものと呼ぶことができるようなものが、エネルギーと力と意欲の他にあるだろうか!私が偉大な先輩や同時代人に恩恵を蒙っているものの名を一つ一つ挙げれば、後に残るものはいくらもあるまい。」

独創性についての話は『ゲーテとの対話』の中で最も中心的なテーマである。…当時ドイツのロマン主義派の人々は、自分や同時代の書き手の才能に対して、「オリジナリティがあってすごい」「独創的だ」と大した自画自賛ぶりだった。それを聞いて苦々しく思っていたのがゲーテである。ゲーテの主張は、どんなものでも、先人たちの影響なしに作ったものなどないということだ。偉大な先駆者たちの作品をしっかりと模倣し、継承したという意識を持つことがむしろ正統である。それを自分の独創性だと考えるのは思い上がりというものだと指摘する。

実際、シェークスピアやモーツァルトのように、最も独創的だと思われている知性の方が、既存の良いものを上手に消化して使っている。…独創性などという主観的なものに囚われるよりは、もっと力強いものに憧れ、大いに影響を受けよとゲーテは言うわけだ。

『座右のゲーテ』

齋藤 孝

※『ゲーテとの対話 上』p201 

エッカーマン

002

■自分だけの師匠を持つ

「ドイツの馬鹿どもときたら、学識を得ようとすれば、才能をなくしちまう、などと思っている。どんな才能だって、学識によって養わねばならないし、学識によって初めて自分の力量を自在に発揮できるようになるのだというのに。まあ、しかし、馬鹿は馬鹿のするに任せておこう。馬鹿につける薬はないのさ。」

『座右のゲーテ』

齋藤 孝

※『ゲーテとの対話 上』p251

エッカーマン

003

■癖を尊重せよ

「ある種の欠点は、その人間の存在にとって不可欠である。古くからの友人がある種の癖をやめたと聞けば、不愉快になることだろう。」

「友人がある癖をやめた時に不愉快になる」というのは、少し極端するぎる言い方かもしれないが、癖がなくなった途端、寂しくなるというのはありそうなことだ。…癖とはそもそも人間の過剰な部分である。…なぜなら、癖の強さは個性の強さだからだ。

『座右のゲーテ』

齋藤 孝

※『ゲーテ全集13』p394

ゲーテ

004

■異質なものを呑み込む

「国語の力とは、異質の要素を拒否することではなく、これを併呑することにある。自国語よりも微妙なニュアンスを持つ、含蓄ある言葉が外国語にあっても、これを使ってはならぬというような、全ての否定的国語浄化論を私は排する。」

国語浄化論において、基本的に優れた外国の言葉があれば、それを取り入れた方が自国語は豊かになるというスタンスに立っていたのがゲーテである。

何かを構築する時には、異質なものを徹底的に否定し排除していくやり方と、いいものであれば異質なものでもどんどん呑み込んでいってしまうやり方の二つがある。前者の方が一見純粋さを保てるように思えるが、それで浄化はできても、本質は痩せ細ってしまうことも多い。

『座右のゲーテ』

齋藤 孝

※『ゲーテ全集13』p360

ゲーテ

005

■痩せ細る現代の独創家

表現上の「個人」の独創性について厳格主義を誇る現代の作家の書いたものが、数年経つか経たぬうちに読まれなくなり、他方、個人の表現力より歴史の表現に自らを委ねた作家の作品がいつまでも読まれるのは、一体どういう秘密に基づくものであろう。厳格な独創性、他に依存しない自分自身、自分独自の価値の主張に、果たしてどんな意味があるのであろう。

「個人」とか「自由」とかいう思想はそもそも間違っているのではないか。俺が俺が…と叫んでいるうちに自分は痩せ細り、創造性の薄い時代になってしまった。薄いからなお叫ぶ。現代はそんな哀れな時代である。

『人生の価値について』

西尾幹二

p42