■18世紀前半(1701~1750)
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1701 | ||||
1720 | イギリス | イギリス |
南海泡沫事件、発生 ※1713年頃~1720年8月18日 |
南米貿易の独占権を持つ南海会社が1713年に設立後、株式ブームが生じた。夢の事業を謳う多数の株式会社(永久機関、海水の淡水化、鉛から銀を抽出など)が設立され、値上がり期待でブームに。1720年6月11日、泡沫会社禁止法が施行されたが、ブームは抑えられず、同年8月18日に個別の会社名を列記し訴訟手続きを命じた第二次泡沫会社禁止法により、ついにバブルが崩壊。物理学者で造幣局長官も務めたニュートンも大損失を被り、天体の動きは計算できるが人々の行動は計算できない、という名言を残している。 |
1730 | 堂島米会所 | 日本 |
堂島米会所、開始 ※最初の近代的な先物市場 |
1730年9月(江戸時代)、大阪・中之島の淀屋橋の一角に、堂島米会所(ドウジマコメカイショ)という米の取引所が設立。当時の日本国内の米の値段は、ここで取引される相場に左右された。現物取引を正米取引と呼び、先物取引を帳合米取引と呼ぶ。証拠金である敷銀が1%であったため、米相場を大きく左右したのは帳合米取引であった。世界初の近代的な先物市場の誕生であるが、要するに青田売り・青田買いの取引ができる場所である。 北は青森から南は鹿児島まで、全国の米(年貢米)は海路で大阪の地に集められた。各大名は取引所の周りに蔵屋敷を構え、仲買人に取引の指示を出した。米の販売は、藩の運営に必要な貨幣の調達手段であり、年貢米を少しでも高く売りたい、将来の米の価格を今決めて財政を安定化させたい、というのが幕府をはじめ大名たちの痛切な課題であった。 堂島米会所は、米の仲買人1000人ほどで構成され、組織、取引の仕組み、決済制度などほぼ現在の先物取引と同じ形態で運営された。全国から集まった米は蔵屋敷に納められ、各藩は蔵の中の米の所有権を証明する米切手を発行し、売買はそれで行われた。 |
1750 |