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年表_国際情勢_20-Q1


■20世紀第1四半世紀(1901~1925)

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1901年        
1902年1月 日本

イギリス

日本

イギリス

日英同盟、調印・発効

※1902年1月30日、ロンドンで調印

義和団の乱(1900年)の後、日露の間で軍事的な緊張が高まった。ロシアに比べて大幅に国力の劣る日本は戦争になった場合を考え、イギリスと軍事同盟を結んだ(日英同盟)。イギリスは清(列強の半植民地状態)に対して利権を持ち、ロシアの満洲支配や南下政策に危機感を持っていたため日本と利害が一致していた。

日英同盟の条文では「いずれかの国が戦争になった場合、一方は中立を守る」とある。但し「もしどちらかが2つの国と戦争になった場合、一方は同盟国に味方して参戦する」とする。これは集団的自衛権であり、この条文は実際に日露戦争で機能した。

1903年  

ロシア

満洲還付条約、調印

※1年半に亘る満洲徹底計画

義和団の乱(1900年)の後、ロシアを除く列強は満洲から兵を撤退させた一方、ロシアだけは引き揚げず部隊を増強して事実上満州を占領した。ロシアの満洲占領状況の列強の批判や日英同盟の締結もあり、ロシアは清と満洲を返還する条約を結ぶ。1年半に3回に分けて南から徐々に撤退する内容だった。※但し、ロシアは条約内容を反故にする。
1903年11月

セオドア・ルーズベルト

※第26代米大統領

パマナ

コロンビア

アメリカ

パナマ、コロンビアから独立

※第2の独立

※中南米に対するアメリカの棍棒外交

アメリカはパナマ運河建設をコロンビア共和国上院に拒否されたため、コロンビアからパナマ地域の分離・独立を画策。1903年11月、パナマをコロンビアから独立させることに成功し、その憲法にはパナマ運河地帯の幅16kmの主権を永遠にアメリカに認めるとの規定が設けられた。

1904年2月  

日本

ロシア

日露戦争、開始

※1904年2月~1905年9月

旅順口攻撃が端緒

満洲還付条約を反故にしたロシアに対して日本の世論は「ロシア討つべし」という声が高まった。多くの新聞社は戦争ムードを醸成し、政府は無為無策と激しい言葉で非難していた。日本政府は大国ロシアに勝てる可能性は低いと見てギリギリまで外交交渉の道を模索し、ロシアに満韓交換論を提案した(1903年8月)。満韓交換論とは、ロシアの満洲支配を認める代わりに、日本の朝鮮支配を認めてくれというもの(1900年頃、伊藤博文が提唱)。ロシアは満韓交換論の提案を蹴り、旅順(リョジュン)に極東総統府を設置し、日本を挑発しつつ南下政策を内外に誇示した。

1904年2月4日、日本は御前会議(天皇臨席による閣僚会議)において日露国交断絶を決定し、2月6日にロシアに告げた。2月8日にロシアの旅順艦隊に対する日本駆逐艦による奇襲攻撃(旅順口攻撃)で、両国の開戦に至る。2月10日に両国は正式に宣戦布告する。なお当時、攻撃前の宣戦布告は国際法において必須ではなかった。

世界の列強は当初、日露戦争は日本にとって絶望的と見ていた。

国家歳入ではロシアが約20億円、日本が約2.5億円。

常備兵力ではロシアが約300万人、日本が約20万人。加えてコサック騎兵は世界最強の陸上部隊と言われ、海軍も世界最強と言われていた。

日本の敗色濃い状況の中、日英同盟(1902年)が一筋の光明となった。日英同盟には「いずれかが2つの国と戦争になる場合、一方は同盟国に味方して参戦する」という条項があった。実はロシアも清と露清密約(1896年6月)を交わしており、そこには「日本がロシア・朝鮮・清に進行した場合、露清両国は陸海軍で相互に援助する」という条文があった。日英同盟の存在が、清の日露戦争への参戦を牽制する効果を発揮した。

1904年5月

高橋是清

※日銀副総裁

※ダルマさん

日本

英・米にて軍費(外貨)調達

日英同盟により清の参戦を牽制できたものの、国家予算など日本が圧倒的に不利な状況は変わらない。特に物資調達のための資金が1億円も不足していた。これを外債で補おうと考えていたが、日露戦争開戦と同時に日本の金利は上昇(債券価格は暴落)しており(市場は日本の敗北を予想)、発効予定の1000万ポンドの外債購入者(引き受け手)は現れなかった。また同盟国イギリスも公債引き受けは軍費提供に当たり、日英同盟における中立違反となると考えていた。

この難事に、日銀副総裁の高橋是清はロンドンに出向き、中立問題についてはアメリカの南北戦争中に中立国が公債を引き受けた事例を示し、「日本は万世一系の天皇の下で一致団結し最後の一人まで戦い抜く所存だ」としてイギリスを納得させた。またロンドン滞在中に帝政ロシアを敵視するアメリカのユダヤ銀行家ジョイコブ・シフの知遇を得てニューヨーク市場も調達先とした。その結果、7年満期の割引国債を利回り7%程度で発行し、ロンドンとニューヨークの両市場で500万ポンドずつの調達に成功した。

結局日本は1904年~1907年まで新規調達・借り換えを含めて合計約13億円弱(6回分)の外債発行を実現した。鴨緑江(オウリョクコウ)会戦(1904年4~5月)での日本勝利で国際市場での外債発行は安定し、利回りも低下した。

1905年5月

東郷平八郎

秋山真之

日本

ロシア

日本海海戦バルチック艦隊を潰滅

※アジアの目覚めの出発点

1995年1月の旅順の陥落、1995年3月の奉天(ホウテン)会戦など陸上戦で日本は優勢であった。しかしロシアは講和の意思はなく、日本と大陸の輸送路を断つために遥々バルト海からウラジオストクにやって来るバルチック艦隊(当時世界最強)との決着をつける必要があった。1905年5月、対馬海峡において日本の連合艦隊は名参謀の秋山真之の作戦、司令長官の東郷平八郎の決断力、将兵らの奮戦により、バルチック艦隊をほぼ全滅させた。

ロシア艦隊は戦艦6隻、巡洋艦5隻を含む21隻が沈没した一方、日本は小型の水雷艇3隻を失う程度で世界海戦史上に残る一方的勝利に終わった。ウラジオストクに入港できたロシア艦隊は僅か4隻だった。

■アジアの目覚めの出発点

37年前まで鎖国によって西洋文明から隔てられた極東の小さな島国が、ナポレオンさえ勝てなかったロシアに勝利したと世界を驚かせた。また400年以上続いてきた「劣等種族である有色人種は白人には絶対勝てない」という神話が崩された。日本の勝利が世界の植民地の人々に与えた驚きと喜びは計り知れない。以後、世界の植民地で民族運動が高まり、日露戦争こそ世界の秩序を塗り替える端緒となった大事件となった。一方、列強諸国の受け止め方は違った。日英同盟のイギリスですらその大多数の国民が日本の勝利に眉を顰めたとされ、日本に対する警戒心が芽生え始めた。

■日本海海戦における日英同盟の重要性

実は日本海海戦に至る段階でロシアのバルチック艦隊は既に満身創痍であった。ロシアのバルト海のリバウ軍港から対馬海峡に至る(バルト海→北大西洋→南大西洋→インド洋→南シナ海→東シナ海→日本海)7ヵ月間、水兵は殆ど船の上で過ごした。日本の同盟国イギリスの妨害により、殆ど港に入れず、蒸気船の燃料である石炭や水・食料の補給に困難をきたした。当時は冷蔵庫はなく肉や野菜を新鮮なまま保存することはできず、加えて暑さに不慣れなロシア兵が灼熱の赤道を二度も通過し、水兵の多くが飢えと病気で苦しんだ。バルチック艦隊がウラジオストクに向かうために最短距離の日本海通過を選んだこと、日本の哨戒艇に早期発見されてしまったことは、石炭燃料の枯渇と、良質の無煙炭の補給ができずもうもうと煙を噴き上げて移動していたことに起因する。

1905年7月

桂太郎

ウィリアム・タフト

日本

アメリカ

桂・タフト協定  
1905年8月  

日本

イギリス

第2次日英同盟  
1905年9月

小村寿太郎

セルゲイ・ヴィッテ

セオドア・ルーズベルト

日本

ロシア

アメリカ

ポーツマス条約(日露講和条約)、調印

※日露戦争の終戦条約

短期決戦で講和に持ち込もうと考えていた日本政府は、日本海海戦でのバルチック艦隊撃滅後、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に講和交渉の仲介を依頼した。ポーツマスにて日露講和会議が開かれたが、日本(小村寿太郎)の要求はロシア(セルゲイ・ヴィッテ)に拒否された。これはニコライ二世(ロシア・ロマノフ王朝最後の皇帝)の命令により、日本が賠償金に拘るようなら、戦争継続もやむなしと考えていたことによる。日本政府は戦争が再開されると、最終的には敗れると分かっていたため、賠償金は要求しない、樺太の南半分を日本に割譲、という妥協案で講和を結び、日露戦争は終結した。賠償金は取れなかったが、朝鮮半島における優越権、旅順・大連の租借権を日本に譲渡などをロシアに認めさせ、極東地域における日本の支配力は拡大した。

■日本国民の講和憤慨

日露戦争に勝利したが、その戦死者は日清戦争の約6倍(約8万人)となり日本史上、最大の戦死者を出す結果であった。多大な犠牲を払ったものの賠償金のないポーツマス条約の内容を知った日本国民は政府に対して怒りを爆発させた。政府としては日本がギリギリの状態で勝利したことを情報公開することはできず、秘密保持はやむを得なかった。新聞社は政府の弱腰を叩く記事を書き、世論は政府非難一色となる。

9月5日、東京の日比谷公園で条約反対・戦争継続の国民集会が行われたが、民衆は暴徒化し東京は無政府状態となる。翌日、政府は戒厳令を敷き、近衛(コノエ)師団が出動したことでようやく鎮圧した(日比谷焼打事件)。この事件は、新聞社(メディア)が戦争を煽り、国民世論を誘導した事件であった。

1905年11月  

日本

韓国

第2次日韓協約、調印

※日本による韓国保護国化

日露戦争後、日本は大韓帝国を保護国(外交処理を代理で行う国)とする第2次日韓協約(日韓保護条約)を締結した。日本は韓国皇帝陛下の下部組織としてソウル(漢城)に統監府(トウカンフ)を置き、初代統監に伊藤博文が就いた。

この時日本が大韓帝国を保護国とするにあたり、世界に了承を取り付けている。

日本国内の一部には韓国を併合しようとする意見もあったが、併合反対の意見が多数を占めていた。併合反対派の主な理由は、併合に伴う莫大な費用を工面できない点であった。なお統監の伊藤博文は併合反対の立場を取っていた。

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1906年        
1910年8月

寺内正毅

李完用

日本

韓国

韓国併合条約、調印

1909年10月26日、併合反対であった伊藤博文がハルビン駅構内で朝鮮人テロリスト(安重根)により暗殺され、事態は一変する。日本国内で併合論が高まると同時に、大韓帝国政府からも併合の提案がなされた。大韓帝国最大の政治結社である一進会もまた日韓合邦を勧める声明文を出した。

しかし日本政府は列強の反応を憂慮し、併合には慎重であった。日本が列強に併合を打診すると、反対する列強はおらず、むしろイギリスやアメリカの新聞記事では、東アジア安定のため併合を支持する論調であった。そうした国際社会が歓迎する中、両政府の合意のもとで併合がなされた。

 

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1911年2月  

日本

アメリカ

日米通商航海条約(小村条約)、調印

※関税自主権の回復に成功

1858年(安政5年)に結ばれた不平等条約がようやく改正された。

1911年7月  

日本

イギリス

第3次日英同盟

悪化した日米関係を懸念して、イギリスは日英同盟の対象国からアメリカを除外することを望み、その趣旨が盛り込まれた。
1911年10月  

支那

辛亥革命

欧米列強の進出により支那大陸では清の影響力は弱体化した。その中で満洲族(女真族)が治める清を打倒し、漢民族の復興を目指す運動が起きる。孫文の影響を受けた革命軍が武昌・漢陽を武力制圧(武昌起義)。清朝は革命軍の制圧に失敗し、15省が次々と独立を宣言。

辛亥とは革命の起きた1911年の干支に因む。

1912年1月

孫文

中華民国

中華民国臨時政府、成立

孫文、臨時大統領に就任

1911年12月、孫文は中華民国臨時政府の大統領選挙に立候補するためアメリカから帰国し、当選した。

1月1日、清国から離脱する各省の代表者らの会合にて中華民国臨時政府が南京に成立。孫文は臨時大統領に就任した。

1912年2月 愛新覚羅溥儀

清朝、滅亡

中華民国臨時政府は、清国の袁世凱と交渉。中華民国臨時政府は清国が降伏する見返りとして袁世凱に中華民国臨時政府の大統領の地位を約束した。その言質を得るや袁世凱は革命派に寝返り、清国要人に政権交代を促した。

2月12日、清朝皇帝である愛新覚羅溥儀(当時7歳)が正式に退位。満洲族(女真族)が統治した清は276年の歴史に幕を閉じ、滅亡した。

1913年3月

袁世凱

中華民国

袁世凱、臨時大統領に就任

 
1912年10月  

バルカン同盟

オスマン帝国

オーストリア

第一次バルカン戦争、開始

※1912年10月~1913年5月

日露戦争で敗北したロシアは不凍港獲得を目指して東アジアからバルカン半島(オスマン帝国)へ南下政策に転じた。ロシアは汎スラヴ主義(スラヴ民族の勢力拡大)を掲げてセルビアやブルガリアと手を組み、バルカン半島は急激に緊迫した。1912年10月、ロシアが支援するバルカン同盟(セルビア、モンテネグロ、ブルガリア、ギリシャ)がオスマン帝国に宣戦布告し、オーストリアがオスマン帝国を支える形で、バルカン戦争が勃発した。オスマン帝国との間で発生した戦争を第一次バルカン戦争と呼び、後のバルカン同盟内での内紛を第二次バルカン戦争と呼ぶ。

1913年3月 ウィルソン大統領

アメリカ

ウッドロウ・ウィルソン、第28代大統領就任

 
    バルカン同盟

第二次バルカン戦争、開始

※1913年6月~1913年8月

第一次バルカン戦争終結後、獲得した領土分割を巡りバルカン同盟内での内紛に当たる第二次バルカン戦争が勃発。ブルガリアをその他バルカン同盟国が

1913年9月

BASF社

カール・ボッシュ

フリッツ・ハーバー

ドイツ

アンモニア合成工場、稼働

※窒素化合物の自国内調達

1912年、BASF社は西ドイツ・オッパウでアンモニア合成工場の建設に着手。1913年9月には世界初のハーバー=ボッシュ法によるアンモニア合成工場日(産30t、年産8700t)が稼働開始。直接的な天然資源(南米の硝石など)の制約を受けず、ドイツ国内で化学肥料(→食糧)や爆薬の原料を製造可能に。
1914年    

サラエボ事件

オーストリア皇太子(皇位継承者、フランツ=フェルデナント)がボスニアの州都サラエボにてオープンカーでパレードの最中、セルビア人青年により射殺された。これを口実にオーストリアはセルビアに宣戦布告し、これを合図に第一次世界大戦が始まる。

1914年     パナマ運河の開通 パナマ運河の開通により、大西洋から太平洋へ船の乗り換えなしに
1915年        
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1917年3月   ロシア 二月革命  
1917年11月   ロシア 十月革命  
1917年4月

ウッドロウ・ウィルソン

大統領

アメリカ

ドイツ

アメリカ、ドイツに宣戦布告

※モンロー主義の破棄

サラエボ事件から4年目、ドイツの潜水艦が無差別攻撃を開始(1917年2月~)し、アメリカ船も3隻撃沈された。これを受けてヨーロッパ大陸への不干渉を重視したモンロー主義の伝統を破り、ドイツに対して宣戦布告・参戦。それまでアメリカは英仏の国債を購入しており、利害関係からもドイツを勝たせるわけにはいかなかった。

1918年    

シベリア出兵、開始

1917年のロシア革命からくる社会主義の波及を食い止めるため、連合国は

 

日本では米需要の増加を見越した買い占めや売り惜しみから米騒動が起きた。

1919年   アメリカ

金本位制に逸早く復帰

 
1919年6月    

ヴェルサイユ条約、締結

※第一次世界大戦の講和条約

27ヵ国が参戦した史上初の世界大戦の講和条約。ドイツはこの条約で、海外領土と植民地を全て奪われた上、軍隊は縮小、徴兵制の廃止、武器弾薬の保有の制限、兵器関連の研究の禁止、1320億マルクの賠償金(当時のドイツのGNP20年分に相当)などが課せられた。

1920年        
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1921年        
1922年1月 レイモン・ポアンカレ大統領

フランス

ベルギー

ルール地方の占領

フランスは第一次世界大戦後、国土が戦場になり、またロシアに貸した金は革命で不良債権化したことで経済的に弱っていた。そうした中でドイツの賠償金の支払いも遅延したことを受けて、

1922年10月

ベニート・ムッソリーニ

イタリア

ファシスト党、ローマ進軍

※ファシスト党の一党独裁体制へ

武装したファシスト党員がローマに進軍し、中枢部を占領。国王(ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世)はファクタ内閣を罷免して、ムッソリーニに組閣を命じ、ファシスト政権が成立した。自由主義国家からファシスト国家へと転換した事件である。

1922年11月    

ワシントン会議

ワシントン海軍軍縮条約

※1921年11月~1922年2月

列強は中国問題を協議するワシントン会議を開催し、一旦中国の市場から手を引くことを決定。
1922年12月 ソビエト連邦 ソ連

ソビエト連邦、誕生

※史上初の社会主義国家

ロシアは第一次世界大戦終盤の1917年に起きたロシア革命で内戦が続いていたが、1922年に「ソビエト連邦」(ソビエト社会主義共和国連邦)として生まれ変わった。マルクスやレーニンの思想を継承した史上初の社会主義国家。
1923年    

関東大震災、発生

 
1924年   ドイツ

金本位制に復帰

 
1925年   イギリス 金本位制に復帰