· 

年表_国際情勢_19-SH


■19世紀後半(1851~1900)

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1851年        
1853年7月 マシュー・ペリー

アメリカ

日本

黒船来航

※浦賀沖に蒸気船4隻で来航

黒船来航の遠因は、アメリカ・メキシコ戦争(1846年~1848年)でアメリカの勝利によってカリフォルニアを獲得し、そこで金鉱が見つかりカリフォルニア・ゴールドラッシュ(1848年)が起きたことである。当時、アメリカ東海岸から西海岸に渡る安全なルートは地球を一周(大西洋→喜望峰→インド洋→マラッカ海峡→南シナ海→太平洋)することであり、アメリカ国家としてはその権益を諸外国(イギリスなど)から守るためにも東海岸に軍艦を派遣する必要が生じた。その際の中間拠点(燃料補給や貿易相手国)として日本との交流が必要になった。

【ペリーの来歴】

ペリーは、アメリカ海軍士官として蒸気船を率いてメキシコ戦争(1846年~1848年)に従軍し、ベラクルス上陸作戦で名をあげた。メキシコ戦争終結の5年後、今度は東インド艦隊の司令官として上海経由で日本に来航。

1855年    

パナマ地峡鉄道の開通

※世界最短の大陸横断鉄道

 
1856年6月

イギリス

フランス

イギリス

フランス

アロー戦争(第2次アヘン戦争)、開始

※1856年6月~1860年8月

 
1856年8月 アメリカ連邦議会

アメリカ

グアノ島法を可決

グアノ(海鳥の糞の堆積物)の利権争いは熾烈を極めていた。利益を生み出すこの資源を得るためにアメリカの連邦議会はグアノ島法を制定した。

他国政府の法的管理下にない島に滞積するグアノを米国市民が発見した際には、米国大統領の裁量で米国が領有したと判断する制度である。この制度により米国の起業家たちはクリスマス島など世界各地の島と環礁の領有を主張した。

1857年  

イギリス

イギリス、ムガル帝国を滅亡

※インドの植民地化完了

 
1858年8月 ナポレオン3世

フランス

インドシナ出兵

※フランス・ベトナム戦争

フランスは宣教師殺害に対する賠償を口実にスペインと共同でベトナムに出兵(艦隊派遣)した。

1859年   エジプト

スエズ運河、着工

イギリスやフランスがアジア諸国(インド・ベトナムなど)を植民地化(もしくは保護国化)すると、大量のイギリス・フランス製品がアジアへ流入し始めた。従来のアフリカ最南端(喜望峰)の回るルートを大幅に短縮するため、エジプトのスエズ地峡に運河を建設する必要があった。

フランスはエジプトの独立運動を支援し、オスマン帝国からの切り離しに成功。外交官レセップスを送り込み、エジプト総督のムハンマド・アリー家と交渉してフランスとエジプトの共同出資でスエズ運河の建設が始まった。

1860年10月

イギリス

フランス

ロシア

イギリス

フランス

ロシア

北京条約、締結

※アロー戦争の終戦(講和)条約

 
1860年11月

エイブラハム・リンカーン

アメリカ

エイブラハム・リンカーン、大統領当選

独立以来、南部人(主に民主党、地主が多い)の大統領が続いていた。これは南部の地主階級が主導権を握っており、大統領選をやると南部の民主党が6、北部の共和党が4くらいの投票率になることが多かった。しかし1860年の選挙では、北部人(主に共和党、資本家が多い)のリンカーンが勝利した。

リンカーンは論点を貿易制度から奴隷制という非人道的制度の是非にすり替えて、民主党内の票を奴隷制反対派(改革派)と賛成派(保守派)に分断できたことが奏功した。

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1861年3月

リンカーン大統領

アメリカ

エイブラハム・リンカーン、大統領就任

 
1861年4月  

アメリカ北部

アメリカ南部

アメリカ南北戦争、開始

※1861年~1865年

リンカーン(共和党)の大統領当選に不服の南部人が、南部11州からなるアメリカ連合国の樹立を宣言。背景として南北間で異なる産業構造(北部は工業、南部は綿花等の農業)による経済格差がある。

綿花栽培と黒人奴隷を両輪とし、イギリスへの綿花輸出で儲けたい南部は自由貿易を支持する一方、イギリス同様に工業製品を製造する北部はイギリスとの競争を避けられるよう関税による保護貿易を支持した。

1863年1月  

アメリカ北部

奴隷解放宣言

 
1865年        
西暦 人物・機関 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1867年3月  

アメリカ

アメリカのアラスカ購入

ロシアは1859年にアラスカを売却する意向をアメリカ打診していたが、南北戦争の影響で進展していなかった。1867年3月にロシア皇帝アレクサンドル2世は在米外交官に命じ、アメリカ合衆国国務長官ウィリアム・S・スワードとの交渉を行わせた。その後3月30日にアメリカのアラスカ購入の条約が調印された。

1868年1月 明治政府

日本

王政復古の大号令、発布

※新政府の樹立

大政奉還を受け、明治天皇は朝廷を中心とする新政府を組織する宣言(王政復古の大号令)を実施。江戸幕府は廃止に。

1869年5月

ユニオン・パシフィック鉄道

セントラル・パシフィック鉄道

アメリカ

アメリカ大陸横断鉄道の開通

馬車でロッキー山脈を越えることは困難であったが、
1869年11月   エジプト

スエズ運河の開通

ヨーロッパからインドまで、従来のアフリカ最南端ルートでは片道16000kmであったが、スエズ運河開通による紅海ルートでは10000kmとなった。約2/3の距離の短縮を実現。
1870年  

プロイセン

フランス

普仏戦争、開始  
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1871年1月

プロイセン国王

(ウィルヘルム1世)

ドイツ ドイツ帝国、成立 普仏戦争でパリ近郊のヴェルサイユ宮殿でプロイセン国王は皇帝ウィルヘルム1世としてドイル帝国の成立を宣言。
1874年12月  

日本

台湾

琉球漂流民殺害事件

(宮古島島民遭難事件)

宮古島島民54人が台湾の原住民によって虐殺された事件。日本は直轄する清に抗議したが、清は「台湾は化外(ケガイ)の地」(統治外の土地)として、責任はないと答えた。日本はこの返答を聞き、台湾は清の支配が及ばない土地と解釈して、翌年に台湾に出兵した。
1874年5月  

日本

台湾

台湾出兵

※1874年5月~12月

琉球漂流民殺害事件を発端として、台湾(清国の直轄領)に出兵。台湾を制圧した日本は、後に清と交渉し、日本の出兵が自国民(琉球人)への加害に対する義挙であることを認めさせた。これにより間接的に、琉球が正式に日本に帰属することを清に承認させた。一方、清は台湾が領土であることを認めている。

1875年9月  

日本

李氏朝鮮

江華島事件

※1875年9月20日~9月22日

世界(アフリカ・南米・中東・インド・東南アジア)の大部分を植民地とした欧米列強は、最後のフロンティアとして中国大陸に狙いを定めていた。植民地化に出遅れていたロシアの南下政策もあり、日本は朝鮮半島の近代化を望み、李氏朝鮮の開国を迫った。

朝鮮(清国の冊封国)の首都漢城の北西岸、

1875年11月 ディズレーリ首相

イギリス

エジプト

イギリス、スエズ運河株式を買収

スエズ運河建設後、エジプト政府は財政危機に陥った。ここに目を付けたイギリスのディズレーリ首相はスエズ運河会社株式のエジプト保有分を買収した。以後、スエズ運河は英仏の共同経営となる。

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1876年        
1879年    

硝石戦争

※太平洋戦争と呼ぶ

 
1880年        
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1882年7月 興宣大院君

李氏朝鮮

壬午事変

※李氏朝鮮における親日派の後退

開国以来、李氏朝鮮は日本の支援を受けて改革を進めていたが、改革に反対する保守派が大規模な暴動を起こし、漢城(ソウル)の日本公使館を襲撃し、日本人軍事顧問や公使館員を殺害した。壬午事変(ジンゴ)と呼ぶ。

日本は兵を派遣したが、清もまた宗主国として派兵した。反乱軍を鎮圧した清は、袁世凱を派遣し、事実上の朝鮮国王代理として実権を掌握させた。これにより李氏朝鮮における親日勢力(改革派)が後退し、再び清への従属度合いを強めていった。

1883年7月 井上馨(カオル)

日本

鹿鳴館、完成

※鹿鳴館外交

西洋列強から日本が近代国家だと認められることが、不平等条約改正のための喫緊の課題であった。外務卿の井上馨は欧化政策の一環として、欧米からの来賓をもてなす洋館「鹿鳴館」を建造。ここで西洋風の舞踏会や晩餐会を開き、欧米に阿(オモネ)る鹿鳴館外交を行った。

こうした欧化政策を快く思わない日本人も少なくなく、非難の声も上がった。結局、井上の外務大臣辞任(1885年)と同時に鹿鳴館時代は幕を閉じることになる。

1883年8月  

フランス

清仏(シンフツ)戦争、開始

ベトナムの領有を巡り、清とフランスの間で戦争が勃発。

1884年12月  

李氏朝鮮

甲申(コウシン)政変

※甲申事変、朝鮮事件

1883年に勃発した清仏戦争のため、朝鮮半島に駐留していた清軍の多くが内地へ戻った。そこで李氏朝鮮の改革派(親日勢力)は清がフランスに敗れたことを好機と見て新清勢力に対してクーデターを起こした。日本の援助で王宮を占拠し新政権を樹立したが、清軍の介入により3日で鎮圧された。

1885年4月

伊藤博文

李鴻章(リコウショウ)

日本

天津条約、調印

※朝鮮半島の軍事的緊張の緩和

李氏朝鮮において甲申政変により、日本と清の間で軍事的緊張が高まったものの、両国が朝鮮半島から兵を引き揚げることを約束する天津条約を交わした。この条約には「将来朝鮮に出兵する場合は相互通知が必要と定める。派兵後は速やかに撤退し、駐留しない」という条項がある。

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1886年         
1889年2月 明治政府

日本

大日本帝国憲法、公布

明治天皇が憲法作成を命じてから約13年。明治政府は憲法作成に際し、欧州各国の憲法を研究すると共に、聖徳太子の「十七条の憲法」以来の日本の政治思想について深く研究し、立憲君主制と議会制民主主義を謳う憲法を作成した。

天皇もまた憲法の条文に従うとされた。第十一条の天皇の統帥権(天皇は陸海軍を統帥す)に関する条文は、昭和に入ると政治家や軍の一部により拡大解釈され濫用される。

1890年  

南米

グアノの枯渇

1802年にフンボルトが南米の島でグアノを発見し、優良な肥料として1850年代にグアノ取引が最盛期(イギリスは年間約30万トンを輸入)を迎えた。それから数十年後の1880年代末には貴重なグアノは底をつき始め、出荷量が激減した。海鳥は今まで通り糞を落としていたが、白く厚い堆積物は消えて岩肌が露出した。イギリスの輸入量は年間2万トンにまで落ち込んだ。

窒素を含む次の肥料資源として注目を浴びたのが、内陸の砂漠に眠る硝石である。1840年にはリービッヒらが無機栄養説を提唱しており、植物成長に有効な肥料は有機物に限らず、化学合成した無機物でもよいことは知られていた。但し空気中の窒素を固定する化学合成技術は確立されておらず(アンモニアの工業的製法であるハーバー=ボッシュ法の確立は1912年)、硝石などの天然に存在する無機資源を利用する時期となる。

1890年 アルフレッド・セイヤー・マハン アメリカ

書物『海上戦力史論

海軍大学校で戦史の教官となったマハンは『海上権力史論』を著した。そこで古代から18世紀までの戦争を概観した。
1890年 アメリカ政府 アメリカ

フロンティアライン消滅の報告

※北米大陸の西進完了

1890年の国勢調査報告書に、もはやフロンティアラインと呼べるものはなくなったと書かれ、西部進出、つまり先住民から略奪可能な土地は消滅。
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1891年        
1893年

セオドア・ルーズベルト

アメリカ

ハワイ

ハワイ事変(ハワイ革命)

ハワイ共和国の誕生

ハワイ王国(カメハメハ王朝)の滅亡

アメリカはハワイ王国にアメリカ系移民を送り込み、ハワイ革命を引き起こした。結果としてハワイ王朝を倒しハワイ共和国が誕生。

後にアメリカへの加盟を申請し、それが受託されて50番目の州となる。

1894年2月

東学党

全土の農民

李氏朝鮮

東学党の乱(甲午農民戦争)

※清と日本の朝鮮半島への派兵

李氏朝鮮にて大規模な農民反乱が起きた。東学党は困窮する農民を主体とする一派であり、朝鮮政府に対する経済改革要求から政治運動に発展し、全土へ波及した。

清は朝鮮政府からの要請で朝鮮へ軍隊を送ったため、天津条約(1885年)に基づき日本も朝鮮へ派兵した。反乱の鎮圧後、朝鮮政府は清と日本に朝鮮からの撤退を求めるが、どちらの軍も受け入れず、一触即発の緊迫した状況となった。

1894年7月

青木周蔵

ジョン・ウッドハウス

日本

イギリス

日英通商航海条約、調印

※領事裁判権の撤廃に成功

7月16日、
1894年7月

日本

日本

日清戦争、開始

※1894年7月~1895年4月

李氏朝鮮で起きた東学党の乱(1984年2月)により、清と日本が朝鮮半島に派兵し、反乱の鎮圧後、両者の軍隊が一触即発の状態となった。

7月25日、ついに両国軍隊が衝突(豊島沖海戦、29日には成歓の戦い)し、8月1日には両国が同時に宣戦布告した。

1894年11月

栗野慎一郎

ウォルター・グレシャム

日本

アメリカ

日米通商航海条約(陸奥条約)、調印

※領事裁判権の撤廃に成功

11月22日、
1895年4月  

日本

日清講和条約(下関条約)、調印

※日清戦争の終戦(講和)条約

※李氏朝鮮、清から独立

近代装備に優る日本軍は各地の戦闘で清軍を圧倒し、この戦争に勝利した。講和(終戦)条約である下関条約の第1条は「朝鮮の独立」を清に認めさせるもの。李氏朝鮮は260年間続けた清への朝貢(チョウコウ)を止め、清の属国から独立し、国内では親日派が台頭する。

日本は清から2億テールの賠償金(当時の日本の国家予算の4倍)と、遼東半島を得た。

1895年4月

日本

ロシア

フランス

ドイツ

日本

ロシア

フランス

ドイツ 

三国干渉

※遼東半島の清への返還要求

下関条約調印から6日後、ロシア・フランス・ドイツは日本に対して、(下関条約により日本が清より割譲した)遼東半島を清へ返還すること勧告(要求)した。これを三国干渉と呼ぶ。その理由は極東の平和を乱すから…というものだったが、それは建前であり実際は満州の利権を狙っていたロシアが、フランス・ドイツに働きかけたものであった。フランスとドイツは双方がロシアと一方的に接近することを牽制し、また三国干渉により清国に恩を売り見返りを得ようとする目論見があった。

日本は三国に抵抗する国力はなく、泣く泣くこの干渉を受け入れて遼東半島を清に返還した(11月8日:遼東還付条約に北京にて調印)。遼東半島の還付によって、日本は還付金3000万テールを得た。

また李氏朝鮮では清からの独立後、日本が三国干渉に屈したのと見ると親日派に代わり親ロシア派が力を持った。

※日清戦争は、列強に清帝国は弱いという事実を教えることとなった。

1895年

 

フランス

フランス、安南鉄道の延長と鉱山採掘権(雲南・広東)の獲得

※蚕食される清国

 
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ

1896年6月

 

ロシア

ロシア、東清鉄道敷設(フセツ)権を獲得

※蚕食される清国

 
1897年10月 李氏朝鮮 李氏朝鮮

李氏朝鮮大韓帝国へ改称

※王から皇帝へ

※独立門の建立

下関条約から2年後、李氏朝鮮は国号を大韓帝国と改めた。また君主は「王」ではなく、朝鮮史で初めて「皇帝」と名乗った。1897年11月には清国からの独立を表す記念碑として漢城(ソウル)に独立門が建立された。

大韓帝国では日本軍占領下で親日派が政権を握り、両班(ヤンバン)の廃止、奴隷制廃止など近代化政策を急速に進めた(甲午改革:1894年~1986年)。

1898年3月  

ロシア

ロシア、旅順・大連の租借権を獲得

※蚕食される清国

 
1898年4月 アメリカ政府

アメリカ

スペイン

米西戦争の開始、フィリピン獲得

※1898年4月~8月

北米大陸の西進完了(1890年)後、太平洋に進出。東南アジアのフィリピン・グアム・キューバを領有するスペインとの戦争(米西戦争)でアメリカが圧勝。フィリピンを支配下に収める。
1898年7月 アメリカ政府

アメリカ

ハワイ併合

ハワイ共和国がアメリカの50番目の州へ

太平洋に進出するアメリカは、独立王国ハワイを併合。

※ハワイ併合後、真珠湾にはアメリカ太平洋艦隊の基地が建設。

1899年  

フランス

フランス、広州湾の租借権を延長

※蚕食される清国

 
1899年 ジョン・ヘイ

アメリカ

門戸開放宣言

※Open door of China 

アメリカの外交官ジョン・ヘイが、対中国で門戸開放宣言をした。元来アメリカは1823年にジエームズ・モンロー大統領によってヨーロッパ大陸とアメリカ大陸間での相互不干渉主義(モンロー主義)という外交方針を採っていたが、対中国では利権獲得に動き始めた。アメリカの門戸開放宣言に対して既に中国を手に入れた列強は黙殺。

ハワイ、フィリピンを採ったアメリカの最終目標は中国マーケットであったが、日清戦争後に中国はアメリカ以外の列強に分割され、アメリカは出遅れた状況であった。

1900年6月  

列強

義和団の乱(北清事変)

欧米列強が清を蚕食する中、それらを排斥しようと秘密結社「義和団」が誕生した。清に伝わる葡萄と新興宗教の白蓮教一派が合体し、国内の失業者や難民を吸収して、瞬く間に大きな組織となった。清政府はこれを排外政策に利用しようと密に支援した。

義和団は「扶清滅洋(フシンメツヨウ)」をスローガンに掲げて、1900年に北京に入り各国の公使館を包囲した。清政府はこれをチャンスと捉えて、欧米列強に宣戦布告した。日本含む列強8ヵ国は在留自国民の保護を名目に、清に軍隊を送り込んだ。孫悟空や諸葛孔明を神と崇める団員は修業を積めば不死身の身体になれると信じ、近代兵器で武装した列強軍隊に徒手空拳(トシュクウケン)で挑んだが、一瞬のうちに鎮圧された。

列強は清に対して、4億5千万テールの賠償金を科し、軍の北京駐留を認めさせた。これにより清は列強の半植民地となった。

柴五郎の活躍】

凶暴な暴徒が各国公使館を取り囲む中、英語・フランス語・中国語に精通した柴は他国軍と協力して、義和団から公使館を守り通した。柴は事前に北京城及びその周辺の地理を調べ尽しており、さらに中国人の間者(スパイ)を使って情報網を築き、籠城軍の実質的な司令官として活躍した。

「義和団の乱」の後、ロンドン・タイムズ紙は社説で「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記したが、その功績は柴によるところが大きい。柴は、イギリスのビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与された。柴五郎は欧米で広く知られた最初の日本人となった。イギリス公使のクロード・マクドナルドは、柴とその配下の日本兵の勇敢さと礼儀正しさに深く心を動かされ、ロバート・セシル首相に日英同盟の構想を熱く語ったと言われている。日英同盟の交渉には、マクドナルドが全て立ち合い、同盟締結の強力な推進者となった。

1900年 アルフレッド・セイヤー・マハン  アメリカ

書物『アジアの問題とその国際政策への影響』

『海上戦力史論』を刊行後、マハンは書物『アジアの問題…』で次のように結論付けた。

①海上権力(シーパワー)を握った国が世界の覇権を握ってきた。

②中国貿易ルートとカリフォルニア防衛のため、パナマ運河を建設せよ。

③パナマ運河防衛のため、カリブ海をアメリカ海軍の内海にせよ。

④太平洋上のハワイ・フィリピンに米軍基地を建設せよ。

⑤ロシア海軍の太平洋進出を阻止するため、米・英・日・独の海洋国家同盟を構築せよ(ドイツは中部太平洋のマーシャル諸島などに植民地を建設していた)。