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年表_発明/普及_19-SH


■19世紀後半(1851~1900)

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1851   イギリス 第1回ロンドン万国博覧会  
1851 ブレッド兄弟

イギリス

ドーバー海峡の国際海底ケーブル

の運用開始

1850年にブレッド兄弟によりドーバー海峡に敷設された世界初の国際海底ケーブル(電信線)は、翌1851年に運用開始。海底ケーブルの敷設は電信網が地球規模に拡張する契機となった。
1852   イギリス

アイリッシュ海の海底ケーブルの敷設

ウェールズ(イギリス)~アイルランドスコットランド(イギリス)~アイルランドの間(アイリッシュ海)に国際海底ケーブルが敷設された。
1852  

イギリス

ベルギー

デンマーク

北海横断海底ケーブルの敷設

 
1853 マシュー・ペリー 日本

黒船、浦賀沖に来航

アメリカのペリー提督率いる蒸気軍艦が浦賀沖に黒い威容を現す。蒸気軍艦は外輪式で、海洋航行中の主推進力は自然の風力による帆走であり、蒸気機関の稼働は補助的である。海洋航行における石炭調達場所の確保は優先事項である。

ペリーは徳川幕府に対して、1/4サイズの蒸気機関車とモールス式電信機を献上した。

1854 - アメリカ

アメリカの電信線の

敷設総距離は66227km

アメリカの電信線の敷設総距離は約6万6227kmに達した。地球1周半の距離に相当。
1855 - 欧州 腕木通信、全廃 電信(1844年に利用開始)の普及により腕木通信は急速に廃れ、1846年の総距離ピーク(4081km)時の9年後の1855年に全廃となった。フランスでの腕木通信の運用期間は正規なサービス開始(1794年)から約61年間だった。なおフランスでは腕木通信と電信の折衷案であるフォア・ブレゲ電信機は廃止され、モールス電信機に変更された。
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1856        
1857 長崎製鉄所 日本 日本初、汽船用蒸気機関の製造 嘉永6年(1853年)の黒船来航により科学技術力の格差を江戸幕府は思い知った。幕府はすぐに西洋の近代技術導入を進め、安政4年(1857年)には長崎製鉄所にて蒸気船用の蒸気機関が作られた。
1858

アトランティック・テレグラフ社

サイラス・フィールド

アメリカ

大西洋横断海底ケーブルの敷設

ドーバー海峡の海底ケーブル敷設(1850年)の成功後、欧州の地中海・黒海など海底ケーブルが数多く敷設された。一方、大西洋をまたぐ情報伝達は依然として蒸気船に頼っていた。アメリカの実業家サイラス・フィールドによる敷設作業は難航したが、1858年に大西洋(アイルランドのヴァレンティア島とカナダのニューファウンドランド島の間)を横断する大西洋横断海底ケーブルを敷設完了。ヴィクトリア女王はアメリカのブキャナン大統領に最初のメッセージを送った。導線の被覆に用いる絶縁素材の劣化による信号の減衰など課題は多く見られた。

1859   アメリカ

ペンシルベニア・オイルラッシュ

※1859年~1870年代初頭

米ペンシルベニア州で油田が発見。大規模な掘削が始まり、アメリカ初の石油生産ブーム到来。照明用の燃料として石炭ガスや油脂を抜き、灯油が主役となる。但し原油の精製物のうち灯油以外の取り扱いは厄介であった。例えばガソリンは気化しやすく引火性が高いため照明用燃料に不向きな一方、軽油・重油は気化しにくく安全ではあったが、燃やすと黒い煙を出す等の欠点が多かった。なおガソリンをエンジン燃料に利用する試みは、1870年代から始まる。

1860 エティエンヌ・ルノワール フランス

ガスエンジン(ルノワール・エンジン)

※世界初の実用的な内燃機関

※無圧縮式の2サイクル

蒸気エンジンは、効率を上げるには大型化が免れず、また始動に時間を要し、動いていない時にも燃料がいる等の問題があった。そこでルノワールはガスエンジンに注目した。

ガスエンジンは、シリンダー内に混合気(空気+石炭ガス)を吸入した後、圧縮せずに電気着火で爆発させる無圧縮方式の内燃機関。1回転毎に爆発する2サイクルで電気式の点火装置を使用。熱効率は4%程度と蒸気機関の3倍ほど。蒸気機関と比べて小型軽量で、燃料補給や使用前後の操作の煩雑さも低減された。

石炭ガスは、石炭の乾留(蒸し焼き)で得られ、ガス灯の燃料としても使用される。

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1861 ヨハン・フィリップ・ライス ドイツ

音声伝達装置(テレフォン)

ベルの電話機発明の15年前、ドイツの工業学校教師ライスは音声伝達装置を開発した。送話器には豚の膀胱膜(ソーセージの皮)で作った薄膜を使い、音声による薄膜の振動を電流の強弱に変換した。受話器にはコイルに流れる電流の強弱が電磁石に作用し、バイオリンが奏でられる仕組みとなっている。ライスはこの装置をテレフォンと名付け、フランクフルトの物理学会で発表した。テレフォンはインプットとなる音声(膜振動)を電流に変換し、ヴァイオリンを奏でる装置でそのまま音声を伝えるものでなかったため、当時はよくできたオモチャ程度にしか受け入れられなかった。

1862 フリードリヒ・ヴェーラー ドイツ アセチレンの合成 石炭から得られるコークスと石灰石とからカーバイドを作り、水を加えてアセチレンが合成。
1862 アルフォンセ・ボー・ド・ロシャ フランス

4サイクルの原理

吸入→圧縮→膨張→排気という4つの行程を持つ4サイクルの原理を発表。

1862 エティエンヌ・ルノワール フランス

ガスエンジン自動車

ルノワールはガスエンジン(1860年発明)を馬車に取り付け、時速5kmで試験走行した。このガスエンジンは1.5馬力で、毎分100回転に過ぎなかった。補給用のガスを積むと嵩張り、性能に限界を感じたルノワールはやがて自動車への関心を失った。その後、ガスエンジンはボート用エンジンへの利用など試みられたが、最終的には工場や作業場向けの据え置きエンジンとして使われた。

1863   イギリス

世界初の地下鉄開業

 
1865   イギリス ロンドン地下に下水道を設置

1854年のロンドンでのコレラ大流行、1858年の夏の猛暑でのテムズ川に溜まった糞尿による大悪臭など都市化と相まって生じる公衆衛生の問題が政治の世界でも無視できなくなった。1865年にようやくロンドン地下に下水道が整備された。この下水道はテムズ川に垂れ流すシステムで川の流れと潮流で海に流される。

上下水道設備はインダス文明、古代ギリシャやローマの文明など既に考案・建設されており、ロンドンはようやくそこに追いついたと言える。

下水設備により都市は清潔になり糞尿を感染源とする病気(コレラ、腸チフス、赤痢など)から救われた一方で、糞尿を都市から農村部へ還流する仕事(ナイトマンと呼ばれた)がなくなり、農村部での作物生産に不可欠な栄養素を別に補給する必要が生じた。ロンドンのファーマーズ・クラブの創設者ウィリアム・ショーは1848年にこう指摘している…「下水に流される糞尿が実はどれほどの価値を秘めているのか、私達はあまりにも無頓着すぎるかもしれない。愚かにも宝の山を日々無駄にしてしまっている」。

1865  

イギリス

インド

イギリス~インド間の電信網を構築 イギリスはイギリス領インドと電信で交信するため、1865年にイギリス~インド間に電信網を構築した。しかし通信品質は非常に悪く、メッセージが届くのに平均で5-6日を要した。イギリス~インド間は2ルートあったが、いずれも諸外国の電信当局を通過する必要があり、機密情報が筒抜けになる恐れがあった。
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1866        
1867        
1868 明治政府 日本 明治政府、成立 前年(1867年)の大政奉還を受けて、翌1868年に明治天皇は朝廷を中心とする新政府を組織する宣言である王政復古の大号令を発布。
1869        
1870    

普仏戦争、発生

※1870年7月~1871年5月

プロイセン王国とフランス帝国との間に起きた戦争。1870年7月に始まり、1871年5月にプロイセン王国の勝利で終結。プロイセン側で参戦したドイツは、フランスから莫大な賠償金(50億フラン)と石炭・鉄鉱石の産地であるアルザス地方とロレーヌ地方を接収した。

また1871年には念願のドイツ統一を果たし、初代ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世が誕生した。

1870  

イギリス

インド

イギリス独自のイギリス~インド間の

電信網を敷設

諸外国への機密情報の流出を懸念し、1870年までにイギリスは自前のイギリス~インド間の電信網を敷設完了。開通式ではロンドンのイギリス皇太子からインド総督に向けて打電し、その返信が約30分後に届いた時、会場は喝采に包まれた。
1870  

イギリス

東アジア

イギリス~上海間の電信網を構築

イギリス資本の電信線はインドより東へと延び、1870年にはムンバイ、ゴール、シンガポール、ジャカルタなどの東南アジア諸国を経由して上海に至った。
1870  

日本

日本、電信サービスの開始

1869年に東京(築地運上所)~横浜(裁判所)間で電信線が架設され(約32kmに電柱536本)、翌1870年1月より電報サービスが始まる。飛脚より安くて速いので評判となった。
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1871 グレート・ノーザン・テレグラフ社 デンマーク 上海~長崎間の電信網が敷設 1871年6月26日、デンマークのグレート・ノーザン・テレグラフ社(大北電信会社)により、上海~長崎間の電信線が敷設完了。これによりロンドン~長崎間の電信が可能になった。明治政府成立から3年足らずで日本は世界の電信ネットワークの一部に組み込まれた。
1871 チャールズ・バベッジ イギリス

バベッジ、逝去

解析機関の開発への取り組み

バベッジは1849年に差分機関の二号機の設計図を作成したが、さらなる計算機として解析機関(アナリティカル・エンジン)を考えおり、生涯、解析機関の設計改良に取り組んだ。差分機関が加算と減算によって数値を計算するものであったが、解析機関は加減乗除の演算機能を備えており、パンチカードを使ってプログラムすることが可能という斬新なものであった。その機構には記憶装置(メモリ)と演算処理装置が組み込まれ、電気信号の代わりに歯車とレバーを用いる違いはあったが、現代のコンピュータの原型と言えた。

1872

  日本 岩倉使節団、イギリス訪問

岩倉使節団はアメリカ歴訪の旅を終え、1872年7月にイギリスを訪問。産業革命の象徴たる鉄道事情を視察した。当時は地下鉄にも蒸気機関が使われている。

1872 シュトルツェ ドイツ

ガスタービン・エンジンの試作

熱した空気でタービンを回す軸流式のガスタービンを考案し、実際にエンジンを試作。しかしこれは不成功に終わった。
1872   日本

日本初の営業用鉄道の開始

※品川~横浜間

1872年6月、
1872   日本

日本初の近代図書館、

書籍館」が開館

1872年8月、
1873        
1874        
1875        
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1876 A.グラハム・ベル イギリス

電話機

※世界初の実用的な電話機

ベルはスコットランド生まれでロンドン大学で音声学を学んだ。その後、父親と共にアメリカに渡り、ボストン大学で音声学教授を務めつつ、父親の聾学校でも教えていた。またベルの母と妻は聾(ロウ)だった。

ベルはロンドンで電気学の権威チャールズ・ホイートストンの教えを受け、電信技術に関心を抱いた。ベルの最初の研究は多重通信(1本の電信線で複数の通信を行う)であり、実験中に鉄片を電磁石の前で振動させると電磁石のコイルに生じた電流が受話器に流れて、受話器の鉄片を同じように振動させることが分かった。ベルは改良を重ね、人間の声がきちんと聞こえる電話機を発明した。

1876年3月10日、ベルの電話は完成した。第一声はあの有名な「ワトソン君、こちらへ来てくれ給え。君に用があるんだ。」であり、実験室のベルから隣の部屋のワトソンに音声が送られた。なお1876年10月にはボストン-ケンブリッジ間の約3kmの通話に成功した。

1876 イライシャ・グレイ アメリカ

電話機

ベルが1876年2月14日午後、代理人を通じてワシントンの特許局に電話機の特許申請した同日、2時間差で特許申請したのがグレイである。プロの発明家を自任するグレイは特許の優先権を巡りベルと論争を挑んだ。アメリカでは日本の先願主義と異なり、先発明主義であるため、申請は遅れても最初の発明者であることを証明できればその権利が与えられる(後願者の申し出による発明者を決める手続きをインターフェアレンスと呼ぶ)。しかしグレイは勝ち目がないと見て、インターフェアレンスせず、そのままベルに特許権が与えられた。

1876 ニコラス・アウグスト・オットー ドイツ

4サイクル採用ガスエンジン

(オットーのサイレント・エンジン)

※内燃機関の時代の幕開け

オットーは4サイクルエンジンを採用したガスエンジン(内燃機関)を開発し、出力及び熱効率を飛躍的に向上させた。熱効率は当初から10%を超え、音も静かだった(オットーのサイレント・エンジンと呼ばれた)。燃料には石炭ガスが引き続き利用された。内燃機関は、蒸気機関(外燃機関)と比べて小型軽量な上、頻繁な水の補給や、始動前・停止後の面倒な作業もほとんど不要となるなど、ユーザーにとって歓迎すべき点が多かった。

ガスエンジンを開発(1860年)したルノワールも1883年に4サイクルエンジンを開発した。しかし先に開発したオットーにより特許侵害でルノワールは告訴されている。ルノワールにとって幸いなことにフランスにもアルフォンセ・ボー・ド・ロシャによる先行特許(1862年)があることが分かり、ルノワールの勝訴となった。以後、4サイクルエンジンはどの業者にも開放され、効率の良い内燃機関自動車の開発に有利に働いた。

なお4サイクルエンジンの導入に先見的役割を果たしたダイムラーとマイバッハは、オットーの会社の工場長と設計主任として10年間(1872年~1882年)ほど働いていた。彼らが自立したのはオットーとの対立だという。

1877 A.グラハム・ベル イギリス

ベル電話会社、設立

※後のAT&T(アメリカ電話電信会社)

ベルは発明した電話機を当時の有力な電信会社ウエスタン・ユニオンに10万ドルで売却する話を持ち掛けたが、その申し出を断られた。ベルは致し方なく、義父の助けを借りるなどして1877年7月にベル電話会社を設立した。後のAT&Tへと発展する。

なお電話ビジネスが拡大するとウエスタン・ユニオンも方針転換し、グレイとエジソンの発明を手に入れて積極的な参入を図っている。電話ビジネスにより衝突した両社は最終的には政治的な決着が図られた。ウエスタン・ユニオンは電話事業から手を引き、ベルにその権利の一切を譲る。その代わりベルは収入の20%を17年間にわたりウエスタン・ユニオンに支払い、かつ電信事業に進出しないというものだった。ベルは電話部門、ウエスタン・ユニオンは電信部門でそれぞれ独占的に利潤を得る保証を得た。

1877 トマス・アルヴァ・エジソン アメリカ 炭素式電話機

ベルの電話機発明の翌年、エジソンはベルの電話の改良特許というべき炭素(カーボン)粒利用の送話器の特許を出願した。振動板に接して詰められた炭素粒は音声に対して電気抵抗を大きく変化させるため、感度が大幅に向上した。また送話器と受話器を独立させ、話し手同士の音声がぶつからなくなった効果も大きい。現代の電話はエジソンの電話機の末裔と言える。

1877 エドワード・マイブリッジ イギリス

ズープラクシスコープ

※映画の原理

英国の写真研究家マイブリッジは、競馬審判用の写真を撮ろうと競走路の片側に12台のカメラを等間隔に並べ、馬がその前を通ると順次糸が切れてカメラのシャッターが連続的に切れる仕掛けを作った。これにより馬の走る様子が連続写真で記録可能となった。この装置をズープラクシスコープと呼び、その成果は全米講演旅行で披露した。その途中でエジソンを訪問しており、エジソンのキネトスコープ開発のヒントにもなった。

1878 カール・フリードリヒ・ベンツ ドイツ

ガソリンエンジン

※ガソリン使用の内燃機関

ベンツはカールスルー工業高等専門学校時代に内燃機関の研究に熱心な教師と出会い、当時開発が進んでいたガスエンジンの知識や技術を身に付けた。その後、工場での実務経験を積み、蒸気エンジンやガスエンジンの可能性を把握した。

当時、とある家でのガソリンによる爆発事故をきっかけとなり、ベンツは石油を精製したガソリンが内燃機関に適した燃料になること、ガソリンを使えば図体の大きいガスエンジンの欠点が解消できると考えた。1878年、ベンツは初めて2サイクルのガソリンエンジンを完成させ(特許取得は1879年)、1880年にはガソリンエンジンの生産に着手する。最初は工作機械や小型発電機の動力用に使う据え置き型が発売されたが、その生産が軌道に乗るとベンツの関心は自動車に向けられた。

【内燃機関のガソリンの使用】

最初の内燃機関であるガスエンジンでは当初、豊富にあった石炭を乾留させて得られる石炭ガスを使用していた(※石炭ガスはガス灯にも使用されている)。しかし、自動車の移動用エンジンに使用する場合、石炭ガスの発熱量の低さや自動車に搭載する石炭ガス発生器が重いという欠点があり、1回の充填で僅か数キロしか走らなかった。

石油の存在は古くから知られていたが、蒸留・精製の技術の発展により気化しやすく引火性の高いガソリンが得られるようになった。ガソリンをエンジン燃料に使う研究は1870年代から始まり、1878年にベンツによりガソリンエンジンを発明した。

1878 トマス・アルヴァ・エジソン アメリカ

蓄音機の特許取得

 
1879     白熱電球  
1879 酒井忠恕 日本 「情報」の初出 元陸軍武官の酒井忠恕は、フランスの軍事書の翻訳する際に「情報」という用語を初めて用いた。用途は現在と同様で、敵の陣地の情報、偵察により得た情報、など。
1880     学術雑誌サイエンス、創刊  
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1881     電気鉄道  
1881 デュガルド・クラーク イギリス

クラーク式2サイクルガスエンジン

※圧縮・掃気式

※実用的な2サイクルエンジンの先駆け

オットー以前のエンジンは2サイクル(1回転毎に爆発がある)だったが、最初は不完全で安定して回転せず、実用化の点では4サイクルに遅れをとっていた。しかしその後2サイクルも改良が加えられた。

1881年のディガルド・クラークが発明したガスエンジンは、ポンプで吸引空気を加圧し、1回転毎に新しい混合気(ガス+空気)をシリンダー内に送り込んで排気を追い出す、という掃気の考えを採用した点で2サイクルエンジンの実用化につながった。

1882

エティエンヌ・マレー

フランス

マレーの写真銃(連続写真撮影機)

※映画撮影機の原型

円形の写真乾板を回転させて連続写真を撮るマレーの写真銃を発明。引き金を引くと乾板が間欠的に回転し、被写体を撮影する仕組みで映写機にかけると"動く写真"となる。40コマ程度と少ないが原理上、世界最初の映画と呼べるものであった。
1882   日本

ガスエンジンの輸入

※日本初の内燃機関の登場

明治15年(1882年)、学校教育の実験用にイギリス製のガスエンジン(内燃機関)が輸入された。
1883

ゴットリープ・ダイムラー

ヴィルヘルム・マイバッハ

ドイツ

ホットチューブ式点火装置

 
1884 チャールズ・アルジャーノン・パーソンズ イギリス

反動タービン(蒸気タービン)

※外燃機関

外燃機関である反動タービンの特許を取得し、発電用や船舶用の蒸気タービンの実用化の道を開く。
1884

東京工業学校

※現東京工業大学

日本

石油エンジンの輸入

明治17年(1884年)、東京工業学校が石油エンジンを輸入。

※明治28年(1895年)には、東京工業学校はこの石油エンジンをコピーした試作機を完成させる。

1884   日本

日本初の天気予報

 
1885 カール・フリードリヒ・ベンツ ドイツ

ガソリンエンジン自動車(三輪自動車)

※世界初のガソリンエンジン自動車

ベンツは1884年に自動車用エンジンの主流となる4サイクルエンジンを開発し、翌1885年に世界初のガソリンエンジン搭載の自動車を開発した。操行可能な1輪を前方に、二輪を後方に配した三輪車である。単気筒のエンジン(2-3馬力、毎分250回転)が後方の二輪に伝わる。

しかし第一号車に対する世間の評価は冷たかった。そこで気性の強さで知られるベルタ夫人が1888年8月に2人の息子を乗せて時速約100kmで走破し、有用性を示した。また同年のミュンヘン博覧会で出品され、ガソリン1リットルで三輪車が1時間走ることを示し、衝撃を与えた。ベンツは博覧会主催者からゴールドメダルを授与されている。

【ガソリンの処理に困っていた石油会社にとって歓迎】

アメリカのペンシルベニア州で油田が1859年に発見されて以来、照明用の灯油以外のガソリンなどの処分に困っていた石油会社としては、ガソリンを利用した実用的な自動車エンジンの開発は歓迎するべきことであった。

1885

ゴットリープ・ダイムラー

ヴィルヘルム・マイバッハ

ドイツ

ガソリンエンジン自動車(二輪自動車)

※世界初のオートバイ

ダイムラーは開発したガソリンエンジンを走行手段に使うため、自転車に取り付けた。当時の自転車は前輪が大きく、背の高いものだったので安全のため前輪と後輪が同じ大きさで低いフレームのものを自製し、これに0.5馬力のエンジンを搭載した。見栄えも悪く、運転もしにくいと悪評だったが、息子パウルが1885年11月10日に3kmほど離れた隣村との間を無事に往復した。

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1886

ゴットリープ・ダイムラー

ヴィルヘルム・マイバッハ

ドイツ ガソリンエンジン自動車(四輪自動車)

ベンツが三輪自動車を開発した翌年の1886年、ダイムラーとマイバッハは四輪自動車を開発した。1.5馬力の縦型エンジンを、改良した馬車のシート下にセットしたものだ。

ドイツでは自動車誕生の年を1886年としているが、これはベンツの三輪自動車車の特許申請が1886年1月29日であることと、ダイムラーとマイバッハの四輪自動車の完成が1886年の冬であることを受けて、両方に花を持たせるための配慮と考えられる。

1887 ロバート・ボッシュ ドイツ 火花点火式装置

磁石発電機による火花点火方式を完成。

1887 東京人造肥料 日本 過リン酸石灰の国内生産

英国留学中に最先端の化学肥料製造技術に深い感銘を受けた高峰譲吉は、帰国後の1887年に東京人造肥料(現日産化学)を設立。過リン酸石灰の工業的生産を開始。

1888

オーギュスタン・ル・プランス

※映画の父

フランス 16レンズ式撮影機  
1889

トマス・アルヴァ・エジソン

ウィリアム・ディクソン

アメリカ キネトスコープ(覗き箱方式映画)

映画は覗き箱方式と映写方式があり、前者は観客一人一人が装置の覗き穴を通して映像を見るのに対して、後者は大きなスクリーンに映像を映す方式である。エジソンは覗き箱方式映画であるキネトスコープを発明した。キネトスコープはコインを入れると電灯がつき、モーターが回転してフィルムが動き出す。フィルムは35mm幅で1秒当たり46コマ送り込まれる。フィルムは約15mで映写時間は40秒に過ぎない。

世の中に動く写真への関心が高まっていることを察知したエジソンは、映画の開発グループを編成した1888年にウィリアム・ディクソンを加え、実際の仕事はディクソンが担当した。

1890

イライシャ・グレイ

アメリカ

テレオートグラム

※FAX(ファクシミリ)の原型

 
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1891

ジョゼフ・デイ

イギリス

クランク室圧縮型2サイクルガスエンジン

ピストンの往復運動に伴うクランクケース内の容積の変化を利用した、現在の2サイクルの主流、クランク室圧縮型のガスエンジンを発明。動弁機構のないシンプルな構造のこのエンジンは、20世紀に入るとモーターサイクルやモーターボードなどに急速に普及していく。 
1892        
1893 ヴィルヘルム・マイバッハ ドイツ 霧吹き式の気化器  
1893 ルドルフ・ディーゼル ドイツ

ディーゼルエンジン

(圧縮着火式エンジン)

ガソリンエンジンが開発されてガソリンが使用可能になったことに続き、軽油・重油といった低質油を燃料とするディーゼルエンジンが、ルドルフ・ディーゼルにより開発された。
1894        
1895

リュミエール兄弟

※映画の父

フランス

映写式キネトスコープ(シネマトグラフ)

エジソンが覗き箱方式を発明した一方、リュミエール兄弟は映写方式のキネトスコープを発明した。リュミエール兄弟の父親は写真館を経営していた関係で、兄弟は自然に写真技術は身に付けていた。映写式キネトスコープの開発も、父親がパリでキネトスコープを体験した話をヒントとなった模様。1895年に映写式キネトスコープと命名して特許申請したが、エジソンの亜流との誤解を避けるため、後にシネマトグラフに変更される。兄弟が開発したシネマトグラフで用いるフィルムの幅はエジソンと同様に35mmだが、送り穴は1コマ当たり1つ(エジソンの場合は4つ)とし、撮影速度は1秒当たり16コマとした。トーキー(音声付き映画)以前はこのコマ数が標準規格となった(トーキー映画出現後は24コマ)。

リュミエール兄弟はさっそく入場料1フランで興行を始め、たちまち人気を博した。『列車の到着』という作品では、機関車が客席側に向かって突進するのを目の当たりにして、席を立って逃げだす観客もいる騒ぎになったという。

1895

グリエルモ・マルコーニ

イタリア

無線通信装置の開発

無線通信の実験開始

※世界初の無線通信の成功

1890年代半ば、逝去したヘルツ(電磁波の検波/1888年)を追悼する記念論文を読み触発され、有線(電信や電話)ではなく電磁波を使った無線通信の実現を決心する。強力な発信機、放射装置、受信機が必要であったが、発信機は電気火花発生装置、放射装置はアンテナを高く張り、受信機はコヒーラーを使用した。1895年には三階から電波を飛ばして地下室で受ける実験を繰り返し、翌年には約2km離れた距離でモールス信号による送受信に成功した。マルコーニは遠距離でも無線通信が可能だという確信を抱いた。

コヒーラーはその原理をエイドワール・ブランリーが発見(1890年)し、受信機(電磁波検波器)としての有用性を示してコヒーラーと命名したのはオリヴァー・ロッジであった。コヒーラーはガラス管の中に2つの電極を配し、その間にニッケルや銀の金属粉末をゆるく詰め込んである。電磁波が来ると金属粉末が密着(cohere)して電気抵抗が大きく減少し、電気をよく伝える。

1895   日本

日本初の市電(路面電車)、開通

※京都にて

 
1895

東京工業学校

※現東京工業大学

日本

国産の石油エンジンを製造

※国産の内燃機関の第1号

明治17年(1884年)に東京工業学校は石油エンジンを輸入していた。約10年後の明治28年(1895年)には、この石油エンジンをコピーした試作機を開発した。これが内燃機関として、国産第1号と言われている。
1895

島津源蔵

日本

鉛粉製造法

鉛蓄電池の国内製造

 
1985

板橋火薬製造所

日本 硝酸の国内生産 ガットマン方式で
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1896

アレクサンドル・ポポフ

ロシア

無線通信の実演

※ロシアにおける無線通信の父

ポポフはマルコーニと同時期に、コヒーラーを用いて無線通信の実験を始めている。ロシアではポポフを"無線通信の父"として、彼が最初に無線通信の公開実験をした1895年5月7日を"無線の日"と定めている。但し、ポポフの評価のスタンダートとされるサスキンドの論文(ポポフと無線電信の始まり)によれば、ポポフの無線通信実験は1895年説は誤りで、仮に実験が実施されていたとしてもせいぜい放電検知の域に留まっていた可能性が高いとされる。対するマルコーニは実演(1895年夏)はそれより早い。

とは言え、オリヴァー・ロッジコヒーラーを用いて実用的な受信機を単独考案し、無線通信の実験を行ったポポフの功績は大きい。

1896

グリエルモ・マルコーニ

イタリア 無線電信で初の特許取得

マルコーニはイタリア政府に無線技術を売り込むも、見向きもされなかった。マルコーニの母アニーの親元がアイルランドの著名ウイスキー鋳造元だったことから、母親の伝手を頼りにイギリスに渡った。1896年、マルコーニはイギリス郵政省の支援を受けながら、イギリスで無線電信の実験を行い、同年特許の取得に成功。これが無線電信に関する世界最初の特許である。

1897        
1897

池貝鉄工所

日本

ガスエンジンの国内製造

ドイツ製のエンジンをお手本にしてガスエンジンを製作。
1898

グリエルモ・マルコーニ

イタリア

ワイト島-ボーンマス間無線通信の成功

イギリスのワイト島-ボーンマス間(約19km)で、無線電信に成功した。
1899 グリエルモ・マルコーニ イタリア

英仏海峡横断無線通信の成功

※世界初の国際無線通信

1899年3月、英仏海峡(ドーバー海峡)を隔てたイギリス(サウス・フォワランド)~フランス(ヴィムルー)の間(約50km)で、無線電信に成功した。これは世界初の国際無線通信の事例となった。
1899     初の日本製映画が公開  
1900 グリエルモ・マルコーニ イタリア 無線電報サービスの開始

1896年、無線通信の事業化のためマルコーニは母の伝手を頼りにイギリスに渡った。そして直ちにイギリスで特許を申請し、ジョン・フレミングを技術顧問に迎えてマルコーニ無線電信会社を設立。海洋大国イギリスでは島の灯台や船との連絡手段の確保は重要課題であり、船舶市場での無線通信のニーズは高かった。1900年、マルコーニの無線機を最初に搭載した商船は北ドイツ・ロイド汽船が所有するカイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ号であった。その後相次いで大手汽船会社がマルコーニ社と契約を結んだ。

マルコーニ社の無線電報サービスは、無線機自体を販売するのではなく、契約顧客の帆船に訓練された通信士を派遣して派遣料を取り、装置(無線機と地上無線局)の使用料を取るというもの。1902年末には70隻の商船と契約し、25の陸上無線局を保有した。