■19世紀前半(1801~1850)
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1801 | ||||
1802 | リチャード・トレビシック | イギリス |
蒸気機関車 ※世界初 |
ペナダレン製鉄所で高圧蒸気機関を台車に載せた世界初の蒸気機関車を製作。約15kmのレールの上を時速8kmで走っている。石炭を燃やして発生させた蒸気のエネルギーでピストンを動かし、それをクランクによって車輪の回転運動に変換させている。 |
1803 | ||||
1804 | ||||
1805 |
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1806 | ||||
1807 | ヘンリー・モーズリー | イギリス | 卓上蒸気機関 | |
1807 | ロバート・フルトン | アメリカ |
外輪式蒸気船:クラーモント号 ※河川航行用 ※世界初の定期船を開始 |
フルトンが建造したクラーモント号がニューヨークからオールバニまでハドソン川の航行に成功。これを機にフルトンは蒸気船の就航事業を軌道に乗せた。 |
1808 | ||||
1809 | ||||
1810 |
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1811 | ||||
1812 | ||||
1813 | ||||
1814 | ||||
1815 | ジョン・ラウドン・マクアダム | イギリス | ブリストル有料道路 |
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1816 | ||||
1817 | ||||
1818 | ||||
1819 |
外輪式蒸気船:サヴァンナ号 ※海洋航行用 ※大西洋横断 |
1818年に航海用の蒸気船サヴァンナ号が建造され、翌年(1819年)にはアメリカのジョージア州サヴァンナからイギリスのリヴァプールまで約4週間(うち蒸気機関稼働は85時間)をかけて大西洋を横断した。蒸気機関を備えたサヴァンナ号ではあるが、主推進力は帆で受ける風力であり、蒸気機関は補助的なものであった。 | ||
1820 |
H.クリスチャン・エルステッド | デンマーク |
電流の磁気作用(エルステッドの原理) ※1820年2月末頃に発見 ※1820年7月に論文発行 電気と磁気の関係性 ⇒電気Eから磁気Eへの変換 |
エルステッドは電気と磁気が"力"という概念で統一的に理解できると考え、電流と磁気の関係を突き止めるため実験を行った。ボルタ電池を電源として導線(白金線など)に電流を流すと、導線と傍に置いた方位磁石(コンパス)の磁針が振れることを発見した。 電流には磁石と同様の磁気作用がある(電気エネルギーが磁気エネルギーに変換される)ことが明らかとなった。従来(ウィリアム・ギルバード/1600年)より独立した現象とされてきた電気と磁気の間の関係性が示された初の事例であり、すぐさま世界中に大きな波紋が広がった。 ※電流の3作用(熱作用、磁気作用、化学作用)のうち、磁気作用の発見。 |
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1821 | ||||
1822 | チャールズ・バベッジ | イギリス |
差分機関(階差機関)を試作 |
蒸気機関を動力源として作動する巨大な機械式の自動計算機(コンピュータ)の着想を抱き、その設計と製作に取り組んだ。有限階差分と呼ばれる数学の方法を用いて数値計算を行う差分機関(ディファレンス・エンジン)と名付けた機械式計算機の模型を試作。 ※差分機関は基本的に加算と減算によって数値を計算するもの |
1823 | ||||
1824 | ||||
1825 |
※鉄道の父 |
イギリス |
蒸気機関車(公共鉄道)の実用化 ※世界初の鉄道の営業運転 ※ストックトン~ダーリントン間の開通 |
ストックトンとダーリントンの間に旅客鉄道が開通される。自分の工場で製造した蒸気機関車を運行させた。 |
1825 |
イギリス | 自動ミュール紡績機 |
ミュール紡績機(ハーブリーブス/1764年)は一部手作業が必要だったが、ロバーツは自動化させることで紡績工場の大規模化に貢献した。 |
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1826 |
||||
1827 |
||||
1828 |
イギリス | ロンドン動物園、開園 | ||
1829 |
イギリス |
蒸気機関車(公共鉄道)の実用化 ※リバプール~マンチェスター間の開通 |
||
1830 |
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1831 |
||||
1832 |
アメリカ | 最初のゴム工場 | ||
1833 |
アレクサンドル・フェリエ | フランス | 民間の腕木通信サービスの開始 | フェリエは大衆テレグラフ社を設立し、パリ~ルーアン間に私設の腕木通信線を敷設し、一般向けの通信サービスを初めて始めた。料金は0.25フラン/単語。また株式情報は随時配信しており、定期配信の料金は3.75フラン/月だった。しかし予想に反して利用者が少なく、サービスを中止せざるを得なくなった。 |
1834 |
||||
1835 |
アメリカ | 有線電信機 |
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1836 |
||||
1837 |
イギリス イギリス |
電信機の特許取得 ※世界初、イギリス国内 |
ハイデルベルグ大学での電気学の講義に出席したクックは、シリングの電磁式電信機のデモを見て、大きな衝撃を受けた。そこで自力で電信機を開発を始め、技術的な問題は自然科学教授のホイートストンに助言を求めた。2人は合名会社を作り、1837年にイギリス国内で電信機(電磁式電信機)の特許を取得した。 | |
1837 |
アメリカ |
電信実験に成功 | 絵画を学んでいたモールスは、1832年に渡欧からアメリカに戻る船上で電気を使った通信システムの話を聞き、モールス符号や通信装置のアイデアを思いついた。その後アメリカで美術教授となる一方、授業の合間には電信機の製作に没頭。同大学の化学を教えていたレオナルド・ゲイルの助言を受けて、1837年に16kmの電信実験に成功。 | |
1838 |
大西洋横断定期船が開始 | |||
1838 |
アメリカ アメリカ |
電信機の公開デモンストレーション |
モールスらの公開実験(1837年)を見たヴェイルは、電信の事業家に興味を持ち、発明の特許権を共同保有する見返りとして資金援助を申し出る。ヴェイルによってモールスの装置は飛躍的に改善される。1838年にワシントンの国会議員の前でデモンストレーションを実施。 ヴェイルは電信の符号の改善も行っている。電流による短点と長点の組み合わせを数字・アルファベットに対応させた。また新聞社に赴き、アルファベットの活字の数量を統計調査し、EやTのように使用頻度の多いアルファベットほど単純な符号で表現した。 |
|
1839 |
ルイ・ダゲール | フランス | 銀板写真法(ダゲレオタイプ)を発表 | パリの劇場の背景画家ダゲールは、露光したヨウ化銀板を水銀蒸気で現像し、映像を食塩水により定着する方法を発明。この銀板写真をダゲレオタイプと命名。 |
1839 |
イギリス イギリス |
鉄道会社へ電信機を導入 |
グレート・ウェスタン鉄道は、鉄道の走行管理手法を時間間隔法から距離間隔法へ移行するため、クックとホイートストンの電信機を導入。パディントン~ウェスト・ドレイトン間の21kmに電信線の建設され、1839年に運用された。距離間隔法により先行列車の故障による停車に対して後続の列車の追突事故が防止された。 |
|
1839 |
アメリカ |
加硫ゴム ゴムの加硫法 |
グッドイヤーはゴムの研究を続け、偶然、ゴムと硫黄の混合物をストーブの上に落とした時に堅い塊が作られた。生ゴムに適量の硫黄を添加して混合加熱すると、生ゴムの性質が著しく改善され、弾性が増し、老化しにくくなることを発見。1841年に特許取得。 |
|
1839 |
アメリカ |
ゴムの加硫法と同時に、加硫率30-40%にした堅く光沢感のあるゴム製品であるエボナイトを発明。 | ||
1840 |
ジョン・ローズ | イギリス | 過リン酸肥料の特許出願 |
骨に含まれるリンを酸で溶かせば肥料になる事実(無機栄養説)は、リービッヒと同時期にジョン・ローズ卿もロザムステッド農業試験場での検証実験で確認していた。1840年にジョン・ローズ卿は、リン灰石などの岩石を原料とする過リン酸肥料の特許を出願した。当初は骨も原料とする内容であったが、リービッヒの知的所有権の侵害したと批判されないように岩石に限定する修正を行っている。過リン酸肥料を生産するベンチャービジネスは当たり、1853年までに過リン酸肥料の製造会社はイングランドで14社、オーストリアで1社、アメリカで3社まで増えた。この事業はロザムステッド農業試験場の資金源となった。 北米で過リン酸肥料の原料となったのは、大草原地帯(グレートプレーンズ)に散らばるバッファローの骨だった。開拓者が西部に進出する際にバッファローの群れを大量に殺した残骸である。19世紀後半になっても過リン酸肥料の原料となる骨の需要はまだ高かった。1860年代に入ると世界各地で発見された化石質鉱床に含まれるリン鉱石が主原料へと切り替わる。 |
1840 |
(エルキントン商会) |
イギリス |
電気めっきの産業化 |
バーミンガムの製造業者であったエルキントン商会は、商業的採算がとれるものとして最初の電気めっき技術の特許を取得した。 |
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1841 |
||||
1842 |
イギリス | 差分機関の製作の頓挫 |
バベッジの差分機関の試作(1822年)は王立協会から高く評価され、イギリス政府から本格的製作のために資金援助された。しかし事は模型のようにうまくいかなかった。 問題は差分機関の複雑さにあり、歯車など必要な部品は2.5万個に及び、完成すれば重量は数トンに達したという。1.7万ポンド余りを援助した政府も1842年に資金提供を打ち切り、差分機関は未完のまま終わった。 |
|
1843 |
||||
1844 |
アメリカ アメリカ |
ワシントン~ボルチモア間の電信線を敷設 |
1842年、モールスはボルチモア・アンド・オハイオ鉄道の沿線にワシントン~ボルチモア間64kmの電信線敷設の許可を米国議会より得て、3万ドルの予算を獲得。1844年5月1日の敷設完了間近にはボルチモアでの民主党大統領候補を決める選挙の結果を、途中まで敷設されていた電信線を用いて約1時間早く告げて、電信へ懐疑的であった人々に有効性を実証した。 1844年5月24日、ワシントン~ボルチモア間の電信線が公式に完成し、ワシントンにいるモールスから、ボルチモアにいるヴェイルへと、最初のメッセージ『これは神の御業なり』が送られた。 |
|
1844 |
フランス政府 |
フランス |
パリ~ルーアン間で電信実験 |
フランスでの電信の導入はイギリスやアメリカから遅れをとっていたが、1844年にフランス政府は最初の電信実験をパリ~ルーアン間で実施。 |
1845 | フランス政府 | フランス | 電信サービスの開始 | 電信実験の翌1845年4月に本サービスを開始。なおフランス政府は既にある腕木通信と互換性のある電信機(フォア・ブレゲ電信機)の製造を命じた。通信士は従来の知識を流用でき、政府は教育のための時間や費用を削減できる。また腕木通信ネットワークには戦争で負傷した軍人が多く働いており、雇用維持の狙いもあった。 |
西暦 | 人物・機関 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1846 |
パークス | イギリス | 冷式加硫法 | |
1846 |
欧州 | 腕木通信の総距離ピークに | 1794年7月にパリ~リール間の200kmより始まった腕木通信は、1846年には総距離4081kmに達した。以後、電信の普及が始まると腕木通信は急速に廃れていく。 | |
1846 |
フランス政府 | フランス |
腕木通信から電信へ置き換え ることを決定 |
1864年にフランス政府は腕木通信ネットワークを電信ネットワークに置き換えることを決定した。 |
1847 |
||||
1848 |
||||
1849 |
イギリス | 差分機関の二号機の設計図 |
バベッジは差分機関の精度を高め、部品も三分の一ですむ二号機の設計図を書き上げた。しかしもはやイギリス政府からの援助は受けられず、設計図だけが残った。 ※バベッジ生誕200年目に当たる1991年にバベッジの設計図をもとに当時の技術レベルの範囲内で差分機関2号が製作された。 |
|
1850 |
ブレッド兄弟 |
イギリス | ドーバ海峡に海底ケーブル敷設 | ドーバー海峡(英ドーバー~仏カレー間)に世界初となる国際海底ケーブル(電信線)が敷設完了。実際に運用開始されるのは翌1851年で、ロンドンで第1回万国博覧会の開催と軌を一にした。 |
1850 |
- |
イギリス |
イギリスの電信線の 敷設総距離は約1万km |
1850年にはイギリスの電信線の敷設総距離は1万km超に。電信オフィスは180ヵ所、1年間のメッセージは3万件近くに達した。 |
1850 | - | アメリカ |
アメリカの電信線の 敷設総距離は約2万km |
1850年には早くも20社超の電信会社が設立され、アメリカの電信線の敷設総距離は約2万kmに達した。 |