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年表_国史_明治時代


■明治時代 (1867-1912)

和暦 西暦 日本 海外
慶応2.12 1867.1

孝明天皇、崩御

生涯を通じて平安京内で過ごした最後の天皇。

 
慶応3.1

1867.2

明治天皇践祚

孝明天皇の崩御後、満14歳で明治天皇が践祚(せんそ)した。践とは位に就く、祚とは天子の位を意味する。

 
慶応3.10 1867.11

大政奉還

江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が明治天皇へ政権返上を奏上し、明治天皇が奏上を勅許したこと。

 
慶応3.12 1868.1

明治天皇、王政復古の大号令を発布 ※幕府廃絶と新政府樹立

大政奉還を受けて、明治天皇は朝廷を中心とする新政府を組織する宣言である王政復古の大号令を発布(12月9日)。江戸幕府は廃止された。新政府の指導者は薩長両藩を中心とする武士と公家らが任命され、徳川慶喜は加えられなかった(小御所会議)。

 
慶応4.1 1868.1

鳥羽・伏見の戦い ※戊辰戦争の最初の戦い

小御所会議での処分内容に不満を持った徳川慶喜は、京都から大阪城に引き上げる。慶喜は幕府軍(1.5万人)を率い、京都にて新政府軍(0.5万人)と激突。戊辰戦争の初戦となる。慶喜は天皇に背く意思はなく、新政府軍(官軍)の掲げる錦の御旗(天皇を象徴とする旗)を見ると、戦闘を放棄し江戸に逃れた。新政府軍はその機を逃さず幕府残党の掃討作戦を実施し、朝敵である慶喜を追討する東征軍を放つ。

 
慶応4.3 1868.3

江戸城無血開城 ※戊辰戦争

幕府本拠地である江戸城では、勝海舟(幕府側)と西郷隆盛(朝廷側)の話し合いにより、無血開城が実現し、江戸市中での戦闘は回避される。

 

明治1.3

(慶応4.3)

1868.4

明治天皇、五箇条の御誓文を発布

天皇が天地神明に誓約する形で、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針。全ての政治は人々の話し合いにより決める、知識を世界に求めて国を発展させるべき、など示された。

 

明治1.3

(慶応4.3)

1868.4

高島炭鉱に蒸気機関を導入

佐賀藩高島炭鉱で初めて蒸気機関を導入した石炭生産を開始。

 

明治1.6

(慶応4.6)

1868.6

会津戦争 ※戊辰戦争

江戸城無血開城後、新政府軍の矛先は佐幕派の重鎮である松平容保(陸奥国会津藩9代藩主)に向けられた。会津戦争は壮絶な戦いとなり、会津藩など幕府軍を構成する奥羽越列藩同盟には多くの死者が出た。

 

明治1.7

(慶応4.7)

1868.9

江戸を東京に改称

天皇が江戸で政務を執ることを宣言し、地名も東京に改称。

 

明治1.8

(慶応4.8)

1868.10

明治天皇、即位

第122代明治天皇が即位の礼を挙げる。即位とは、天皇が践祚(せんそ)したことを内外に明らかにする儀式。

 

明治1.9

(慶応4.9)

1868.10

一世一元の詔明治へ改元

慶応4年を改めて明治元年とするとともに、天皇一代に元号一つ一世一元の制を定めた詔(みことのり)

 

明治1.12

(慶応4.12)

1868.12

 

蝦夷島政府(箱館政府)、樹立

幕府の艦隊を引き連れて箱館に逃れた榎本武揚は、蝦夷地を平定し、そこで独立国建国を目指した。選挙により榎本は総裁となり、イギリスなど諸外国にその地位を認めさせた。

明治2.3

1869.3

箱館戦争(五稜郭の戦い) ※戊辰戦争の最後の戦い

幕府海軍の榎本武揚による蝦夷地制圧を受け、新政府軍は箱館奪還へ乗り出す。新政府軍は箱館の五稜郭に立てこもっていた榎本らの幕府軍残党を降伏させる。1年半近くにわたった内戦(戊辰戦争)は収束し、国内は新政府により統一された。

※なお榎本武揚は除名嘆願により許され、その交渉力は新政府の下で大いに活かされる。

 
明治2.7

1869.7

版籍奉還、実施

欧米列強に対抗する強い国家体制構築のため、各藩藩主に土地(版)と人民(籍)を国家(朝廷)に返還させた。藩主と藩士の主従関係は解消。藩主は公家とともに華族、藩士と旧幕臣は士族に。また同時に、農工商の百姓・町人は平民となった。

 
明治2.7-8 1869.7-8

蝦夷地北海道に改称、開拓使の設置

箱館戦争(五稜郭の戦い)後、新政府の本格的な統治(インフラ整備や農地開墾など)のため開拓使を設置(7月)。8月には蝦夷地を北海道に改称。アイヌ同化政策が進み、アイヌ文化は衰退。

 
明治2.12 1870.1

電信網の実用化 ※殖産興業

1869年に東京(築地運上所)~横浜(裁判所)間で電信線が架設(約32kmに電柱536本)、翌年1月より電報サービスが開始。飛脚より安く速いので評判に。5年後、長崎と北海道まで延長され、海底ケーブルを通じて長崎~上海間を通じて欧米へと接続される。

 
明治3.10 1870.10

平民苗字許可令

従来の身分制度の再編に伴い、全国民に苗字(姓)を名乗ることを許可した。なお江戸時代まで公的に苗字を使えたのは原則、公家・武士など支配階級に限定され、一種の特権とされた。

 
和暦 西暦 日本 海外
明治4.3 1871.3

郵便制度、開始 ※殖産興業

前島密の建議により、飛脚にかわる官営の郵便制度が開始。

後に全国金一料金制を採用。

 
明治4.5 1871.6

新貨条例、発布

金本位を建前とする新貨条例を制定。

十進法を採用し、円・銭・厘を単位とする新硬貨を製造。

 
明治4.8 1871.7

廃藩置県、実施

新政府は藩制度全廃を断行。1使(開拓使)・3府(東京府・大阪府・京都府)・302県に再編、政府直轄に。琉球は鹿児島県。同年10月、各県に中央より県令(知事)・府知事を派遣・統治する府県管制を制定。旧藩主(知藩事)は罷免され、東京居住の命令。

※廃藩置県直前(1871年6月)は1使、3府、45県、261藩。

※1871年12月には府県の全国的廃置で1使、3府、72県に。

 
明治4.9 1871.9

日清修好条規、締結

 

 
明治4.10 1871.10

賎民解放令 ※四民平等の推進

"えた・ひにん"と呼ばれる人々を身分・職業の制度上は平民と同等に。但し結婚・就職等の社会的差別は続く。"えた・ひにん"に許された特定職種の営業独占権が失われて、兵役・教育の義務が加わり、彼らの生活は却って苦しくなった。

 
明治4.10 1871.10

琉球漂流民殺害事件

台湾東南海岸に漂流した宮古島島民69名のうち3名が溺死、54名が台湾原住民により殺害された。

 
明治4.12 1871.12

岩倉使節団、欧米諸国を視察

新政府は幕末に江戸幕府が欧米諸国と結んだ不平等条約の改正のため、岩倉具視を全権大使とする総勢百名超の使節団を欧米に派遣。木戸・大久保・伊藤等が参加。西郷が留守政府を預る。しかし憲法等の法整備の不足、明治天皇の委任状を持参し忘れた等、条約改正の交渉は進められず。そこで欧米の技術・社会の視察へと目的変更し、2年以上もの時間を費やした。帰路には列強諸国により植民地化されたアジア諸国の惨状も目撃し、一刻も早い近代化の必要性を痛感。

 
明治5.1 1872.1

戸籍法による全国戸口実施

1871年に戸籍法が成立し、明治維新後最初の人口調査が実施。当時の人口は3481万人。

 
明治5.2 1872.2

田畑永年売買禁止令の廃止

江戸幕府は、農民の土地売買を禁止した田畑永年売買禁止令(1643年)を廃止。地価を定め、地券を発行して農地の所有権を認めた。

 
明治5.3 1872.3

壬申戸籍、作成

新たな族籍(皇族・華族・士族・平民など)に基づく統一的な戸籍が編成される。編成年の干支「壬申」から壬申戸籍と呼ぶ。

 
明治5.8 1872.8

学制、発布 ※維新の3大改革

フランスの学校制度に倣い全国8大学区に分け、各々に小学校・中学校・大学校を設置。満6歳男女全てに対して小学校へ通学させることを義務化(国民皆学教育)。国民学力の底上げを図った。

 

明治5.9

1872.9

琉球藩の設置 ※琉球処分

鹿児島県に属する琉球国は清に朝貢を続けており、日本領土に外国が付け入る隙を封じるべく、鹿児島県から琉球を切り離し新たに琉球藩を設置。琉球国王・尚泰は藩王として華族に。この時、琉球の約20万両もの負債を政府が肩代わりしている。

 
明治5.10 1872.10

鉄道、開業 ※殖産興業

新橋~横浜間(約29km)の線路が敷設。日本初の鉄道が開業。1日9往復、全線所要時間53分で運転。

 
明治5.10 1872.11

官営富岡製糸場、操業開始 ※殖産興業

民間工業の近代化と貿易赤字解消のため主な輸出品である生糸の生産(養蚕業)を推進。官営模範工場・富岡製糸場を設け、フランス先進技術の導入と工女養成を行った。明治初頭の繊維貿易品は大幅赤字であり、日本の繊維工業発展は外貨流出防止の観点で重要だった。

 
明治5 1872

ガス事業、開業 ※ガス灯の点灯

フランス人のアンリ・プレグラン指導の下で高島嘉右衛門が横浜でガス事業を開業。横浜の街(現在の馬車道通り)にガス灯が灯り始めた。

※東京では2年後の1874年に銀座通りにガス灯が設置。

 

明治5.12

明治6.1

1872.12

1873.1

明治改暦、実施 ※天保暦(太陰暦)らグレゴリオ暦(太陽暦)へ

天保暦で1872年12月2日、グレゴリオ暦で1873年1日1日の日に、改暦を実施。明治6年(1873年)以降は、グレゴリオ暦に移行。

 
明治6.1 1873.1

徴兵令、発布 ※維新の3大改革

近代的な軍隊を目指す徴兵告諭(1872年)に基づき、国民皆兵を原則とする徴兵令を発布。氏族・平民の別なく満20歳男性から選別して3年間の兵役を課す統一的な兵制を整備。

 
明治6.7 1873.7

地租改正法・地租改正条例 ※維新の3大改革

財源確保のため地租改正(米納廃止・金納制)を実施。国民の土地所有権を認めて課税(所有者不明の土地は国有地化)。従前の公地公民思想は崩壊。課税基準は収穫高から地価に変更。納税者(地券所有者)は地価の3%を金納(貨幣による納入)。有業者の8割が農業従事者で、政府収入の8割超が地租の農業国であった。

 
明治6.9 1873.9

岩倉使節団の帰国と征韓論政変

留守政府では、武力により李氏朝鮮に開国を迫る征韓論が主張され始めた。欧米視察から帰国した大久保らは、朝鮮派兵よりも国力増強に注力すべきとして、征韓論を抑え、留守政府との間で見解の相違が決定的となった。留守政府を任された西郷や板垣らは政府を去った。

 
明治7.1 1874.1

民選議員設立の建白書、提出

征韓論をきっかけに政府を離れた板垣や江藤は、民選議員設立の建白書を提出するなどし、国会の早期開設を求めた。政府の実権を握る欧米視察組は近代化の目途が立った後に国会を開設するべきだとし、タイミングに関して早期開設派と対立していた。

 
明治7.5 1874.5  

台湾出兵(征台の役)

1871年の琉球漂流民殺害事件に対して、清国は「台湾人は化外の民で清国の責任範囲でない」としたため、軍人・士族の強硬論に押された明治政府は台湾に出兵した。イギリスの調整もあり清国は日本の出兵を正当な行為と認め、事実上の賠償金を支払った。

明治8.2 1875.2

平民苗字必称義務令

1870年の平民苗字許可令では、国民(平民)の中にはあえて苗字を使用しない者も多かったため、本令にて全国民に苗字(姓)を名乗ることを義務付けた。

 
明治8.5 1875.5

樺太・千島交換条約 ※領土国境の確定

日露和親条約(1855年)で保留であった樺太の国境線を確定させるロシアとの交渉。日本は英国の助言を受け、広大な土地を擁する樺太ではなく、ロシアの太平洋進出を阻むよう千島列島を重視。日本側は榎本武揚が交渉を担い、粘り強い交渉で我が国の主張を認めさせた。ロシアが樺太全土を領有、日本が千島列島全域(得撫島(ウルップトウ)以北)を領有する内容で領土交渉は決着。

 
明治8.9 1875.9  

江華島事件

日本の艦艇が李氏朝鮮の砲台から砲撃を受けた事件。これを受けて日本は強い態度で李氏朝鮮の開国と謝罪を求めた。

和暦 西暦 日本 海外
明治9.2 1876.2

日朝修好条規、締結 ※朝鮮の開国

江華島事件を契機に、日本と李氏朝鮮は日朝修好条規を締結。日本は法整備が不十分な李氏朝鮮に対して、欧米列強がかつて日本にしたように不平等条約を締結させた。

 
明治9.3 1876.3

小笠原諸島、領有宣言 ※領土国境の画定

小笠原諸島の日本統治を各国に通達。内務省出張所を設置。

曖昧だった国境線を明確化。

 
明治9.3

1876.3

帯刀廃止令 (廃刀令)

氏族(江戸時代の武士)の特権である帯刀が禁止に。

 
明治9.8 1876.8

秩禄処分

依然、新政府は華族・士族に秩禄(家禄と賞典禄)を与え、総支出の30%の負担であった。本年8月に全受給者に年間支給額の5~14年分の学の金禄公債証書を与えて秩禄制度を全廃に。

 
明治9.11 1876.11

各地で農民一揆が発生

地租改正による農民の課税負担は従来の貢租と変わらず、一方で徴兵・学制が負担となり、各地で農民一揆が起きた。

 
明治10.2 1877.2

西南戦争、勃発 ※武士の時代の終焉

明治維新に不満を抱く士族の反乱。西郷を担いで蜂起したが、失敗して西郷は自害。以後、武力に訴えるのではなく国会開設を望む、自由民権運動が盛んに。

 
明治12.3 1879.3

沖縄県の設置 ※琉球処分

琉球藩を廃止し、沖縄県を設置。琉球国は消滅。清は琉球は清の属国であると主張し、日本と対立。

 
明治12.10 1879.10  

独墺同盟、成立

 

明治13.11 1880.11

工場払下概則、制定

明治政府は日本を近代化する殖産興業のため鉱山や富岡製糸場など官営模範工場を次々と設立した。工場払下概則により徐々に民間に払い下げを行った。

 
和暦 西暦 日本 海外
明治14.10 1881.10

国会開設の勅諭

国会早期開設の議論が過熱し、伊藤らは国会の10年後の開設を決定。明治天皇より国会開設の勅諭が発せられた。国会開設時期の確約を勝ち取った民権派は政党を結成。板垣の自由党、大隈の立憲改進党など。

 
明治15.10 1882.10

日本銀行、設立

 

 
  1884

主要鉱山の民間への払い下げ、開始

小坂鉱山を皮切りに順次民間に払い下げられた。

 
明治18.5 1885.5  

独・墺・伊の三国同盟、成立

 

明治18 1885

尖閣諸島の現地調査

日本政府は尖閣諸島の現地調査を実施し、諸外国の支配が及んでいないことを確認した。

 
明治18 1885

足尾鉱毒事件、表面化

足尾銅山から出た鉱毒が渡良瀬川流域の田畑に流れ、被害をもたらした。栃木県出身で元国会議員の田中正造が、明治天皇に直訴しようとして取り押さえられる事態に発展。

 
和暦 西暦 日本 海外
  1886    
  1887

営業用火力発電所、稼働

東京電燈株式会社(1886年設立)は茅場町に日本初の営業用火力発電所である「第二電燈局」を建造。石炭を燃やして約25kWの発電量(100Wの電球250個分)であった。

 
明治22.2 1889.2

大日本帝国憲法(帝国憲法,明治憲法)及び皇室典範、発布

国際的に先進国と認められるには自主憲法(他国の干渉なしに、自国で作られた憲法)制定が必須。伊藤博文(初代内閣総理大臣)は井上毅伊藤巳代治金子堅太郎らと共に憲法草案を作成。枢密院での審議を経て、明治天皇が定める欽定憲法(君主が制定する憲法)として2月11日に発布。

「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」で始まる帝国憲法は、天皇を国家元首、統治権の総攬者とする立憲君主制を採用。

統治は三権分立が定められ、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と天皇の政治利用を禁じ、政治責任が及ばないとする。

同時に発布された皇室典範は、憲法と同格(両者を合わせて典憲と呼ぶ)であり、皇位継承など皇室の制度構成を規定した家憲。

 
明治22.2 1889.2

衆議院議員選挙法、発布

帝国憲法と皇室典範の発布と同時に衆議院議員選挙法が発布。有権者の資格は、直接国税15円以上納入した25歳以上の男子に限定された限定選挙。有権者は45万人で日本人口全体の1.1%

※当時は欧米列強諸国でも制限選挙が行われていた。

 
明治23.7 1890.7

第1回衆議院議員総選挙、実施

1870年7月1日、前年に発布された衆議院議員選挙法に基づき、最初の帝国議会(衆議院)議員の総選挙が実施。

選挙により代議士が選ばれる衆議院、皇族・華族等で構成される(選挙で選ばれない非公選の)貴族院の二院制の議会制度が確立し、アジア諸国の中では初めての近代国家となった。

※1945年の終戦後、日本国憲法下では貴族院は廃止され、代わりに参議院が設置されて現在に至る。

 
明治23.10 1890.10

教育勅語、発布

明治維新による西洋文化の導入により日本の教育(国体)の荒廃を案じて、教育勅語を発布。天皇が語り掛ける形式で、先人が大切にしてきた人としての生き方が記され、国民にとって修道道徳の根本規範となる。

 
       
和暦 西暦 日本 海外
  1891    
  1892

営業用水力発電所、稼働

 

 
  1894.2  

東学党の乱(甲午農民戦争)

李氏朝鮮で大規模な農民反乱が発生。東学党は困窮する農民を主体とする一派。朝鮮政府に対する経済改革要求から政治運動に発展し、全土へ波及。

清は朝鮮政府からの要請で朝鮮へ軍隊を送ったため、天津条約(1885年)に基づき日本も朝鮮へ派兵した。反乱鎮圧後、朝鮮政府は清と日本に撤退を求めるが、両軍は受け入れず、一触即発の緊迫した状況へ(→日清戦争へ発展)。

明治27.7 1894.7

日英通商航海条約、調印

7月17日、日英通商航海条約を調印。幕末に江戸幕府が締結した不平等条約(日英修好通商条約(1858年8月調印))の改定条約。領事裁判権の撤廃、関税自主権の部分的回復などに成功。

この条約をきっかけに他の欧米列強との領事裁判権の撤廃に応じる方向に進む。なお関税自主権の撤廃は日露戦争後である。

 
明治27.7 1894.7

日清戦争、勃発

李氏朝鮮で起きた東学党の乱(1984年2月)により清と日本が朝鮮半島に派兵。反乱鎮圧後、両者の軍隊が一触即発の状態へ。

7月25日、ついに両国軍隊が衝突(豊島沖海戦)。

7月29日、成歓の戦い

8月1日、両国が同時に宣戦布告。

近代装備に優る日本軍は各地の戦闘で清軍を圧倒。

 
明治28.1 1895.1

尖閣諸島、沖縄県に編入

日本政府は閣議決定で、尖閣諸島を沖縄県に編入した。

 
明治28.4 1895.4

日清講和条約(下関条約)、調印

日清戦争の講和(終戦)条約。下関条約の第1条は「朝鮮の独立」を清に認めさせるもの。李氏朝鮮は260年間続けた清への朝貢を止め、清の属国から独立。李氏朝鮮国内では親日派が台頭。

日本は清から2億テールの賠償金(当時の日本の国家予算の4倍)と、遼東半島を取得。

 
明治28.4 1895.4  

三国干渉

下関条約調印から6日後、ロシア・フランス・ドイツは日本に対して下関条約により日本が清より割譲した遼東半島を清へ返還すること勧告(要求)した。これを三国干渉と呼ぶ。

明治28.11 1895.11

遼東還付条約、調印

三国干渉(1895年4月)の結果、下関条約で一旦は日本への割譲が決定した遼東半島を清に返還することとした、日本と清の間の条約(遼東還付条約)。北京にて調印。

 
和暦 西暦 日本 海外
明治32 1896    
明治30.10 1897.10  

李氏朝鮮、大韓民国へ改称

李氏朝鮮は国号を大韓帝国と改称。君主は「王」ではなく、朝鮮史で初めて「皇帝」と名乗った。清国からの独立を示す記念碑として漢城(ソウル)に独立門が建立(1897年11月)。

大韓帝国では日本軍占領下で親日派が政権を握り、1894年~1986年にかけて近代化政策(両班(ヤンバン)の廃止、奴隷制廃止など)を進めた(甲午改革)。

 明治33 1900

北京に軍隊派遣

清国の首都北京で起きた義和団事件に対し、日本を含む8ヵ国は軍隊を派遣。北京及び紫禁城(王宮)を制圧し、反乱を鎮圧。

清が降伏すると各国軍隊は撤退したが、南下政策を進めるロシアは満州に軍を留め、撤退せず。

義和団事件(北清事変)、発生

清国内で外国人を排斥を叫ぶ群衆が首都北京の各国公使館を包囲した事件。清の西太后(セイタイコウ)がこの反乱を支持して欧米列強に宣戦布告し、国家間の戦争に発展。

和暦 西暦 日本 海外
明治34.4

1901.4

官営八幡製鉄所、開業

繊維工業を中心に軽工業が外貨獲得の主体であったが、1901年に官営八幡製鉄所が操業開始。産業の中心を重化学工業へシフトし始めた。

 
明治35.1 1902.1

日英同盟、調印・発効

小村寿太郎(外相)はイギリスとの交渉に成功。1月30日、軍事同盟である日英同盟を調印。満洲に軍を留め、南下政策を進めるロシアに対抗する環境が一つ整った。

 
明治35.3 1902.3

戦艦三笠、竣工

英国ヴィッカース社に発注(1898年9月26日)された戦艦三笠は、1902年3月1日に竣工。日露戦争の日本海海戦では連合艦隊旗艦を務め、バルチック艦隊との砲撃戦を主導。現在、横須賀市の三笠公園に保存されている。

 
明治37.2 1904.2

日露戦争、勃発

2月4日に御前会議にて日露国交断絶を決定、6日にロシアに通知。

日本政府は金子堅太郎をアメリカに派遣し、セオドア・ルーズベルト大統領と面談して、アメリカの理解と協力を取り付けていた。

 
明治37.5

1904.5

高橋是清、英・米にて資金調達

日露戦争開戦後、清の参戦は日英同盟により牽制されたものの、物資調達のため資金が1億円も不足していた。日銀副総裁の高橋是清はロンドンに赴き、イギリスとアメリカによるポンド建て日本国債の購入を取り付けた。

 
明治38.1 1905.1

日露戦争、旅順陥落

旅順攻囲戦において、乃木希典率いる部隊が203高地を占領し、ロシア帝国の旅順要塞を陥落させ、旅順港に停泊するロシア太平洋艦隊を壊滅させた。1905年1月1日、旅順要塞司令官ステッセリは抗戦を断念し、日本軍へ降伏を申し入れた。

 
明治38.1 1905.1

竹島、島根県に編入

竹島(当時の俗称は"りゃんこ島")ではアシカ猟の本格化と過当競争で、アシカの個体数が減少。1月28日、事業安定化を図るため政府は「竹島」と命名し、島根県の所属とすること閣議決定。正式に日本が領有する意思を再確認した。

 
明治38.5 1905.5

日露戦争、バルチック艦隊を潰滅

日本海海戦において、東郷平八郎率いる連合艦隊が、当時最強とされたロシアのバルチック艦隊(バルト海に展開する艦隊)を全滅させ、勝利した。

 
明治38.9

1905.9

ポーツマス(日露講和)条約、締結

日露戦争の講和をアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領が仲介する形で、ポーツマス条約が締結。朝鮮における日本の優越権、旅順と大連の租借権、北緯50度以南の樺太の割譲、沿海州・カムチャツカ半島周辺での日本の漁業権、をロシアに認めさせた。但し、賠償金を得ることはできなかった。

 
明治38.9 1905.9

日比谷焼討事件

賠償金が得られないポーツマス条約に対して、一部の国民は不満を爆発させ、日比谷公園周辺で暴動を起こした。内務大臣官邸や交番などが襲撃され、戒厳令が敷かれる騒ぎとなった。

 
明治38.11 1905.11

第2次日韓協約(乙巳保護条約)、締結

日露戦争の終結後、日本は大韓民国と保護条約を締結。朝鮮の外交権を取得し、統監府を設置。伊藤博文が初代統監に就任。

 
和暦 西暦 日本 海外
  1906    
明治42.10 1909.10

伊藤博文、暗殺

日本により保護国化された大韓民国の統監である伊藤博文は、韓国併合には反対であった。朝鮮独立運動家である安重根は、伊藤のハルビン訪問を知り、10月26日にハルビン駅頭で伊藤を射殺。この事件により日本でも朝鮮でも朝鮮併合の機運が高まった。

 
  1909

生糸輸出で世界一

外貨獲得の輸出品となる生糸の生産拡大により、1909年の生糸輸出で清国を抜き世界一となった。

 
明治43.8 1910.8

日韓併合条約、締結

朝鮮独立運動家の安重根による伊藤博文暗殺後、日本と朝鮮の両国で朝鮮併合の機運が高まり、日韓併合条約が締結。日本は朝鮮を統治下に置くことになった。

なおこの時、朝鮮王族は日本の皇族に準ずる王公族として待遇を受けた。

 
和暦 西暦 日本 海外
  1911.3

工場法、公布 ※労働者保護など

初の労働者保護の立法が制定。施行は5年後の1916年9月。

外貨獲得の中心は生糸であり(1909年の生糸生産量が世界一)、安価な女子労働力の過酷な長時間労働が生糸・紡績業を支えたが、本制度での労働条件はあまり改善されなかったようだ。

 
明治44.10 1911.10  

辛亥革命

欧米列強の進出により支那大陸での清の影響力は弱まっていた。その中で満洲族(女真族)の清を打倒し、漢民族の復興を目指す運動が起きる。孫文の影響を受けた革命軍が武昌・漢陽(現在の武漢)を武力制圧。翌年には中華民国の建国が宣言される。

明治45.1 1912.1  

中華民国臨時政府、設立

1日1日、南京で孫文を臨時大総統とする中華民国臨時政府が成立。

明治45.2 1912.2  

大清帝国、滅亡

2月12日、清朝皇帝である愛新覚羅溥儀(宣統帝)が正式に退位。満洲民族が統治した清は276年の歴史に幕を閉じ、滅亡した。

明治45.7 1912.7

明治天皇、崩御

1912年7月30日未明に崩御、享年61歳(満59歳)。