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年表_物理学/化学_20-Q2


■20世紀第2四半世紀(1926~1950)

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1926 アルバート・A.マイケルソン アメリカ

真空中の光速度の精密測定

(秒速299796±4km)

マイケルソンは、レオン・フーコーの回転鏡による光速度測定法(1850年)を洗練し、真空中の光速度の精密測定を実施。歴代最高の記録を樹立した。マイケルソンは35km先の反射鏡(カリフォルニアのサンアントニオ山に設置)へ光を送り、その反射光を回転する多面鏡(カリフォルニアのウィルソン山に設置)に通した。多面鏡は8面,12面,16面などが使用され、回転速度は電気モーターで自由に調整された。結果の精度は実験系の測定距離に依存するため、アメリカ合衆国の地形測量部は、この実験のために特別にその距離を測定している。

1926 エルヴィン・シュレディンガー オーストリア

シュレディンガー方程式(波動力学)

3つの量子数

※スピンの概念はないため、微細構造まで記述できない

物質波(ド・ブロイ/1923年)の形と伝わる様子を記述するシュレディンガー方程式を発表。式中に粒子の質量を含み、物質の二面性(粒子かつ波動)を表す。水素原子中の電子のエネルギー状態が不連続となるボーアの量子条件(2πr×mv=nh)となることを示した。この論文は、プランクやアインシュタインから直ちに絶賛された。

水素原子中の電子のエネルギーに対しては、シュレディンガー方程式で完全に解ける。

シュレディンガー方程式の記号ψ(プサイ)は物質波(電子1個)を表す波動関数であり、古典物理(音波や電磁波)の波動方程式が実数で表されるのに対して、複素数(a+bi)の波である。電子の性質をうまく説明できる一方で、式中の波動関数ψ(複素数の波)が一体何を意味するのかについては曖昧であった。

【非相対論的波動方程式から相対論的波動方程式へ】

シュレディンガー方程式には特殊相対性理論の効果を考慮しておらず、光速に近い状態を取り扱う場合、特殊相対性理論の要請を満たす形式に書き直す必要がある。シュレディンガー、ド・ブロイ、クライン、ゴルドンなど多くの理論家がこの難問に取り組んだが、最初にその導出に成功したのは、ポール・ディラックであった(相対論的波動方程式/1928年)。

1926 マックス・ボルン ドイツ

波動関数の確率解釈

→❘ψ❘^2は電子の発見確率

※本質的な非決定論の導入

波動関数ψ(電子1個の波動を表す)の絶対値を二乗した❘ψ❘^2は、電子がその位置で(波ではなく)粒子として検出される確率に比例する説(波動関数の確率解釈)をボルンは唱えた。波動関数ψ自体の物理的な描像には言及せず、❘ψ❘^2を求めると実験結果通り、電子の統計的な位置が特定できる実用性を重視した考え方だった。

シュレディンガーの波動力学がプランクやアインシュタインから絶賛された一方、ボルンの確率解釈に対してはプランク、アインシュタイン、ド・ブロイ、シュレディンガーなど錚々たるメンバーが、決定論ではなく確率論(非決定論)を物理学に持ち込むことに異議を唱えた。アインシュタインは「神はサイコロ遊びを好まない」という有名な言葉で確率解釈を批判している。ここでの神とはスピノザの神であり、あらゆる自然現象を貫き決定する究極的な原理・真理という意味。

※波動関数ψは複素数(a+bi)で表される波であり、その絶対値は(a^2+b^2)^(1/2)。

1926 エンリコ・フェルミ イタリア

フェルミ=ディラック統計(フェルミ分布関数)

フェルミ粒子(フェルミオン)

 
1926 ウィレム・ケーソン オランダ

ヘリウムの固体化

オネスは液体Heの製造(1908年)後、固体Heの製造を試みたが0.82Kまで冷やしても固体化しなかった。これはHe(He3とHe4の両方含む)は常温では三重点を持たないためである。オネスの教え子であるケーソンは、15K以下/100MPaの条件下でHeの固体化に初めて成功した。
1927 第5回ソルベー会議 議題は「電子と光子」。
1927 W.K.ハイゼンベルグ ドイツ

不確定性原理

Δx・Δp≌h

※相補的変数:積がkg・m^2・s-1

→位置と運動量

→時間とエネルギー

→質量とm^2/s

→姿勢と角運動量

ミクロ世界の運動を表す波動力学(シュレディンガー方程式など)によれば、相補的変数とされる一対の物理量(位置と運動量、時間とエネルギー)を同時に知る測定精度には、Δx・Δp≌hで示される限界があることを示唆した(不確定性原理と呼ぶ)。※≌はほぼ同じという意味。h(プランク定数)は6.6×10^-34J・s

相補的変数のペアの積は、プランク定数hと同じかそれ以上になること、逆に言えば、hより小さくしたり、ましてはゼロにはできないことを意味する。

相補的変数となるのは、物理量の積がkg・m^2・s-1(角運動量の単位だが…)となるもので、位置(m)と運動量(kg・m・s-1)や、時間(s)とエネルギー(kg・m^2・s-2)が挙げられる。

【位置と運動量の不確定性】

大きさがない点と見なされる電子の位置xを厳密に特定するには、相応の波長を持つガンマ線を照射しなければならない。光は波長に対応した分解能を持つからだ。しかし波長を短くすれば光の運動量は大きくなり、波動性よりも粒子性が顕著に表れ出す。ガンマ線を照射された電子はその位置情報は正確に測れる(Δx→0)が、照射されるガンマ線の運動量が大きいため、もともと電子が持っていた運動量の情報がボケてしまう(Δp→∞)。逆に運動量の低いX線を使うと電子の運動量はより厳密に測定できる(Δp→0)が、波長が長く分解能が低いため、電子の位置情報がボヤけてしまう(Δx→∞)。位置と運動量の両者の積の統計的な誤差は、プランク定数hほどにはどうしても生じてしまう。但し、相補的変数に該当しない物理量ペアに関しては、不確定性原理の適用外なので同時に正確に求められる。

測定に際して、相補的変数である位置と運動量は同時にある値として得られる。しかし測定を何度も繰り返してデータを蓄積すると、統計的なブレとして不確定性原理が現われる。いずれか一方の測定誤差を犠牲にすれば、他方はいくらでも正確に再現性ある値として得ることが可能。

【時間とエネルギーの不確定性】

位置と運動量のペアが相補的変数であったように、エネルギーと時間もそうである。電子に照射する光の振動数ν(1/s)を測定すると、時間tをかけるほど振動回数が増えるので正確な振動数の値が求められる。反対に短時間Δtの観測では、1回の振動すら終わらないかもしれず、振動数が曖昧となる。振動数と時間の間にはΔν・Δt≌1という不確定性原理が成り立つ。ここで光子のエネルギーは、E=hνなので式変換すると、ΔE・Δt≌hが導かれる。こうした不確定性を持つ光子を使い、電子のエネルギーと測定時間を厳密に同時に求めようとしても同じくΔE・Δt≌hが課せられる。測定時間を短くするほど(Δt→0)、得られるエネルギーの値は再現性がなくなり、統計的な振れ幅は大きくなる(ΔE→∞)。

【質量m^2/s不確定性】

位置、時間と来たら残るは質量に関する不確定性であるが、その場合、相補的変数の単位はm^2/sとなる。

【不確定性原理と二重性】

当初、不確定性原理は観測テクニックの話から導入されたように感じるが、それが観測テクニックを磨けば解決できるという次元ではなく、ミクロ世界の本質的な性質と考え始められるのは、粒子性と波動性を同時に持つという二重性であろう。光については光電効果の理論的説明(アインシュタイン/1905年)に既に二重性は考えられたが、電子においては電子線回折の発見(デイヴィソンとガーマー/1927年)によりその波動性が実証された。

波動力学(シュレディンガー方程式)からの不確定性原理の説明は以下の通り。電子の波動関数を正弦波に分解(フーリエ変換)すると、粒子として検出される(波動関数がピーク形状)とは無数の(波長の異なる)正弦波の合成となる。正弦波の波長が電子の取りうる速度(→運動量)に対応し、粒子としてある位置に存在することが確認できる場合、その速度(→運動量)にはバラツキを持つことを要請する。一方で、波動関数がたった一つの正弦波で表される場合、空間上に存在確率が広がった状態で粒子としてどこか一ヵ所に特定できないが、電子の速度(→運動量)は決定できる。

1927

ボーア研究所

(ボーアの弟子達)

デンマーク

コペンハーゲン解釈

※量子論の主流の考え方

重ね合わせ(スーパーポジション)

「波の収縮」と「確率解釈」を2本柱として、ボーア研究所の若い物理学者達(ハイゼンベルグ、パウリ、ディラックなど)が提唱した、我々が観測する前の電子と観測後の電子の様子を理解するための次のように解釈した。観測される前の電子は様々な位置にいる状態が「重ね合わせ(スーパーポジション)」になっているが、我々が電子を観測した途端に「波の収縮」が起きて電子は一ヵ所で発見される(コペンハーゲン解釈)。

「波の収縮」とは、我々が電子の存在を観測する際には、常に(波ではなく)粒子である事実に基づき、観測前に空間的に広がった発見確率の波紋が、観測時にその一点に全確率(100%)が収縮することを意味する。観測以前の電子の存在確率が空間に広がった状態は、電子が「重ね合わせ(スーパーポジション)」の状態にあると表現する。実際に電子がどの位置に観測されやすいかは、波動関数の「確率解釈」(ボルン/1926年)を用いる。

【決定論を重視するアインシュタインによる批判】

量子論の曖昧さを自然界の本質的な原理だとして、確率解釈(ボルン/1926年)や不確定性原理(ハイゼンベルグ/1927年)を認めるコペンハーゲン解釈に対して、従来通りの決定論を重んじるアインシュタインは『神はサイコロ遊びを好まない』と言って批判し、曖昧さを取り除く隠れた変数の存在を主張し、量子論はまだ不完全な理論であるとした。その反論の一つとしてEPRパラドックス(1935年)がある。

1927

クリントン・J.デイヴィソン

レスター・H.ガーマー

G.P.トムソン

アメリカ

アメリカ

イギリス

デイヴィソン=ガーマーの実験

電子線の回折

※電子の波動性を実証

デイヴィソンとガーマーは、X線の回折現象と同様に電子線をNi単結晶に照射すると特有の回折模様(電子線回折)が得られた(デイヴィソン=ガーマーの実験)。同時期にJ.J.トムソンの息子であるG.P.トムソンは独立で、電子線を金属箔に通すことで電子線の回折模様(デバイ・シェラー環)を得て、同じく電子の波動性を実証した。

ド・ブロイの物質波の発表(1923年)以降、電子を"粒子"でなく"波"と考えて原子内電子の在り様を量子力学として構築してきたわけであるが、電子の波動性が理論構築上・計算上の単なるテクニックのために必要とされるわけではなく、実際に電子が波であることを裏付ける実験的証拠が得られたと言える。

余談であるが、陰極線の正体を質量を持つ電子だと解明したJ.J.トムソン(1897年)は、電子の粒子性の側面からノーベル賞(1906年)を受賞した一方、その息子のG.P.トムソンは電子線回折により電子の波動性を証明してノーベル賞(1937年)を受賞した。

※電子の波動性と粒子性を確かめる二重スリット実験は、しばらく思考実験であったが、複数電子では1961年(クラウス・イェンソン)に、単電子では1974年(ピエール・ジョルジョ・メルリ)により行われる。また1999年にはより大きな分子量を持つフラーレンを用いた二重スリット実験がアントン・ツァイリンガーにより実施されている。

1927

フリードリッヒ・フント

ドイツ

トンネル効果

 
1927

ヴァルター・ハイトラー

フリッツ・ロンドン

ドイツ

ドイツ

水素共有結合の量子論

(ハイトラー=ロンドンの理論)

両者は、水素分子の共有結合について量子力学的解釈に成功した。
1927

シジウィック

 

配位結合理論

 
1927

ウィレム・ケーソン

オランダ

液体ヘリウムII

 
1927

ニールス・ボーア

デンマーク

相補性原理

 
1927

ジョルジュ・ルメートル

ベルギー

原始的原子説

ビッグバン理論の雛形

ハッブル=ルメートルの法則

ハッブル定数

観測データによる宇宙膨張の発見

天文学者ルメートルは赤方偏移(1912年)を発見したヴェスト・スライファーと、距離測定の専門家でありアンドロメダが系外銀河であること確認(1924年)したエドウィン・ハッブルの観測データに基づいて宇宙膨張論を独自に提唱した。理論的にはフリードマンが一般相対性理論の解として既に宇宙膨張モデル(フリードマン宇宙)を提唱(1922年)しており、理論を観測

により裏付けたことになる。

ルメートルが使用した41個の遠方銀河の後退速度データはスライファーの1922年のものを使用し、距離の測定データは1926年にハッブルが出版した値を使用した。ルメートルが観測に基づき始めて世界で初めて計算したハッブル定数は、625km/s/Mpcと575km/sMpcの2通りの前提で提示された。これは現在の最良値である約70km/s/Mpcと比べると8~9倍大きいが、当時の限られたデータと距離の決定方法による。

ルメートルは、ハッブル=ルメートルの法則(宇宙膨張モデル)をもとに宇宙は原始的原子(Primeval Atom)(または宇宙の卵)と呼ぶ一点から爆発して膨張したというモデルを提唱した。余談であるが、ルメートルはキリスト教の司祭でもあったので、聖書の通り宇宙に始まりがあるとすることは、宗教上の考えとも一致していると考えたのかもしれない。

ただ原子核物理学が発展するのは1930年代に入ってからであり、ルメートルの考えが受け入れられるには尚早であった。後にこの仮説は、批判する人々によってビッグバン理論と呼ばれるようになる。

1927

ハーマン・マラー

アメリカ

X線照射による人為突然変異

マラーはX線をショウジョウバエに照射する実験を行い、人為的に突然変異を起こすことを発見した。ショウジョウバエを用いたのはマラーがモーガンの研究室にいたため。自然突然変異は確率が低いため、マラーの発見は遺伝学の研究に大きな貢献となった。

1928

ポール・ディラック

イギリス

ディラック方程式

(相対論的波動(電子)方程式)

①高速電子にも対応

②スピンの導入

⇒微細構造の記述

③負のエネルギー準位

⇒反粒子の予言へ

量子電磁力学のはしり

ディラックは、原子内の静止電子だけでなく高速で運動する電子における相対論効果を導入するべく、特殊相対性理論(1905年)をシュレディンガー方程式(1926年)に組み入れてディラック方程式(相対論的波動方程式)を発表した。

①高速運動の記述 ※特殊相対論効果の反映

②スピンの導入

光のスペクトル分析より存在が知られていたスピンは、シュレディンガー方程式にはなかった電子固有の物理量であるスピンの性質も自動的に内包された。これによりスピン-軌道相互作用に由来する分光スペクトルのエネルギー差(微細構造と呼ぶ)をも正しく記述できるようになる。

※後にディラック方程式でも表せないラムシフトという微細構造が指摘される(1947年)。

③負の電子エネルギー準位の存在 ※ 反粒子の存在

ディラック方程式から電子のエネルギーを求めると、その範囲は正の方向に無限大のみならず、負の方向にも無限大となった。

・正に無限大とは、正の静止電子Eを下限として運動Eに応じてEは正に無限大

・負に無限大とは、負の静止電子Eを上限として運動Eに応じてEは負に無限大

素直に解釈すれば、電子はより安定なマイナス無限大のエネルギー状態へ落ち込み、その過程で光を放出し続けると考えられる。しかしそれは実測結果とは相反する。この部分の解釈については、ディラックは空孔理論(1930年)として別途発表される。

【なぜ実測可能な電子は静止E(+m0c^2)が下限なのか】

ディラック方程式登場以前は、そもそも電子が取りうるそれより低いエネルギー準位が存在しないからだった。ディラック方程式により電子の負のエネルギー順位が示され、そこに実測可能な電子が落ち込まない理由は、既に負のエネルギー領域に電子が満たされ、排他原理(同じエネルギー状態をとれないフェルミ粒子の統計)に従うためだと解釈される。水面に浮かんだ木の葉のような存在が実測可能な正のエネルギーの世界で飛び交う電子のようだ。

超伝導で見られる電子クーパー対のようなボース粒子と化した環境では、負のエネルギー領域の電子と状態を重ねることはできるのだろうか。

1928

ポール・ディラック

イギリス

光の量子論

 
1928 ジョージ・ガモフ ロシア

アルファ崩壊の理論

トンネル効果

原子核がアルファ粒子を放出する理論を構築。原子核内のアルファ粒子(陽子2個+中性子2個)が、トンネル効果によりクーロン力の障壁(噴火山型のポテンシャル・エネルギー)から浸み出すため、原子核から放出されることを示した。これとは逆の反応として、トンネル効果により原子核がアルファ粒子を捕獲する(アルファ捕獲?)ことも示し、原子核同士が融合(核融合)する可能性を示した。

1928 W.ハイゼンベルグ ドイツ

強磁性体の理論

 
1928 フェリックス・ブロッホ スイス

金属電子の量子論

エネルギーバンド

 
1928 ゾンマーフェルト ドイツ

金属の自由電子論

 
1928

アーヴィング・ラングミュア

アメリカ

プラズマの命名

探針(プローブ)

放電管のガラス容器内に電圧をかけると美しい色を放ちながら不思議な運動をする気体の様子を見てプラズマと命名した。プラズマを計測する手段として探針(プローブ)を開発し、ラングミュア・プローブと呼ばれる。

1928

チャンドラセカール・ラマン

インド

ラマン効果

※可視光における光の粒子性

X線における粒子性を示すコンプトン効果と同様に、可視光での粒子性の観測を行った。単色光を物質に当て、反射光を調べると入射光とは異なる振動数が混じることを観測。可視光では分子状態の変化に応じた量子エネルギー授受が起きている。

1928

レオ・シラード

オーストリア=

ハンガリー

エントロピーの情報理論

 
1929 世界恐慌  

1929

W.ハイゼンベルグ

ヴォルフガング・パウリ

ドイツ

オーストリア=

ハンガリー

相対論的場の量子論

(量子電磁力学)

 

1929

アルベルト・アインシュタイン

ドイツ

統一場の理論

 

1929

オスカル・クライン

仁科芳雄

スウェーデン

日本

クライン=仁科の式

※コンプトン散乱の理論

 
1929

レオ・シラード

オーストリア=

ハンガリー

マクスウェルの悪魔の否定

分子の状態を知るためには仕事が必要だから、仕事することなしに分子を峻別できず、エントロピーを下げられない…と説明。情報価値とエントロピーと結び付けた。

1929

エドウィン・P.ハッブル

アメリカ

論文『系外銀河の速度と距離の関係』

ハッブルの法則

※2018年にハッブル=ルメートルの法則

に名称変更

ハッブル定数

宇宙膨張の確認

最大距離2Mpc(約752万光年)の範囲にある数十個の銀河の距離と、その赤方偏移をもとに計算される後退速度から、ルメートルに続き、距離と後退速度の比例関係(ハッブルの法則)があることを発表した。

※1Mpc(メガパーセクは概ね銀河間の距離に相当し、参考として天の川銀河とアンドロメダ銀河までの距離は約220万光年(=0.67Mpc)である。

ハッブルの法則の発見(もしくは確認)により、宇宙はあらゆる方向に一様に膨張していることが示された。論文で提示されたハッブル定数は530km/s/Mpcであり、2年前(1927年)にルメートルが提示したハッブル定数と大差はなかった。

※なお1931年にはハッブルとヒューメイソンが共同で観測する最大距離を30Mpcまで遠方に延ばして計算し、ハッブル=ルメートルの法則をより確実なものとした。

【静的宇宙像から動的宇宙像へ】

天動説が常識の古代から一般相対性理論を完成させたアインシュタイン(1910年代)に至るまで、世間の宇宙観は静的なものであった。アインシュタインでさえも宇宙は静的であると信じており、宇宙は重力によっていずれ一点に潰れてしまうのではないか、という問題意識があった。アインシュタインは信念に基づいて宇宙が静的に存在するよう、自身の重力場方程式に斥力を働かせる宇宙項を導入している。しかしハッブル=ルメートルの発見により宇宙は動的なものであることが観測的に実証され、アインシュタインは導入した宇宙項を放棄することにした。

※さらに1998年には宇宙の膨張が、加速膨張であることが発見される。

【恒星の距離を測る方法】

星の光の強さは、星自体の輝き(絶対光度)と、星との距離に依存する。見かけ上の星の明るさだけでは距離は測れない。星の距離を測るために、ハッブルはセファイド型変光星を目印にした。変光星(ファブリツィウス/1596年に発見)とは明るさが周期的に変化する星であり、特にセファイド型変光星では絶対光度と変光周期の間に相関がある。つまり変光周期が長いほど絶対光度が大きい。ハッブルは変光星の見かけの光度と推定される絶対光度から、その変光星を含む銀河の距離を算定した。そして各銀河の後退速度はスペクトルの赤方偏移として得られ、両者(距離と赤方偏移の程度)を比較した。

1929

スコベルチン

ソ連

宇宙線シャワー(空気シャワー)

 
1930

ポール・ディラック

イギリス

空孔理論 (ディラックの海)

⇒真空の描像
反粒子(陽電子)の予言

⇒電子対生成

ディラック方程式(1928年発表)では、電子のエネルギーは正領域のみらず、負領域も取りえた。実測データと相反するこの理論的結果の解釈のため、空孔理論を提唱。

ディラックはパウリの排他原理(1925年/パウリ)に従い、真空中には負のエネルギー状態の電子で埋め尽くされていると考えた。

【真空から電子を叩き出す】

真空に充満するとされる負の電子を我々は感じられない(観測できない)。真空中に正のエネルギーを注入することで、我々が観測できる正のエネルギー準位の世界に負の電子を引っ張り上げることは可能。具体的にはガンマ線など強いエネルギーを真空中に放つと(観測不能な)"負エネルギーの電子"が、観測可能な"正エネルギーの電子"として現れ、同時に抜けた穴(空孔)は"正のエネルギーの反電子"として振る舞うと予言した(電子対生成と呼ぶ)。必要なガンマ線のエネルギー下限は、正と負の静止エネルギー・ギャップに相当する2m0c^2で約1000keV。負エネルギー領域から引っ張り上げて普通の電子として観測されると同時に、負エネルギー領域には抜けた空席が生じる。電荷保存則のため、生じる電子の空孔はプラスの電荷を持つ電子(⇒陽電子もしくは反電子)となる。

※反電子はカール・アンダーソンにより1932年に宇宙線観測の中で発見される。

※反陽子はセグレとチェンバレンにより1955年に加速器ヘバトロンの中で発見される。

1930

クライド・トンボー

アメリカ 冥王星

パーシヴァル・ローエルが摂動論により予言した冥王星をクライド・トンボーが発見した。冥王星の記号♇ は、予言者パーシヴァル・ローエルの頭文字の組み合わせものである。

※冥王星は2006年に準惑星に降格。

1930

S.チャンドラセカール

パキスタン

チャンドラセカール限界質量

※白色矮星の質量上限値

星は終末期に入った時、一定の条件が揃うと白色矮星(青白い光を放つ地球程度の小さい星)になるが、その質量には上限値(チャンドラセカール限界質量)があることを発見。

※S.チャンドラセカールの叔父は、ラマン効果(1928年)を発見したチャンドラセカール・ラマンである。

1930

ヴァルター・ボーテ

ハーバート・ベッカー

ドイツ

ドイツ

ベリリウム線

※極めて透過力の大きい放射線

※後に中性子線だと判明

※中性子線源(α線源+Be)

α線をBe(ベリリウム)に当てると、極めて透過力の高い放射線が叩き出されることを発見し、ベリリウム線と名付けた。両者はその透過力の大きさからγ線(ガンマ線)ではないか…と推測した。

※後にベリリウム線は中性子線であることが明らかとなるが、しばらく中性子線を得る線源として、ラジウムとベリリウムの混ぜ物が利用される。つまり、α線源のラジウムから発生するα線がベリリウムに衝突して中性子(ここではベリリウム線)を放出する。

【ジョリオ・キュリー夫妻による確認実験:中性子の発見を逃す】

ベリリウム線の発見に注目したジョリオ・キュリー夫妻(夫のフレデリック・ジョリオ・キュリーと妻のイレーヌ・ジョリオ・キュリー)は、ベリリウム線をパラフィンなどの水素を含む物質に照射し、そこから沢山の陽子が勢いよく飛び出すことを確認した。ボーテとベッカーの推測に基づく先入観に引きずられてか、夫妻もガンマ線によって陽子が弾き出されているのだろう…と解釈した。

1930

アーネスト・ローレンス

リビングストン

アメリカ

サイクロトロン

静磁場と交流電場による加速器

※加速器の大型化の始まり

ローレンスはドイツのウィドレーの論文をヒントにし、静磁場と交流電場(高周波電場)を用いて荷電粒子を螺旋状に加速させる加速器(サイクロトロン)を開発。電磁石による静磁場はフレミングの左手の法則に従い、荷電粒子の軌道を曲げて円運動にし、その進行方向に合わせて常に加速できるように高周波電場を掛ける。サイクロトロンでは、加速される荷電粒子の円軌道は(静磁場が一定のため)次第に大きくなり螺旋を描くため、限られた空間で繰り返し加速でき、(同程度の大きさの)直線加速器に比べて大きなエネルギーを付加できる。

1931

ヴォルフガング・パウリ

オーストリア

=ハンガリー

ニュートリノ仮説

※ベータ崩壊の説明

ベータ崩壊の前後で保存則が成立していないのでは…という問題があった。パウリはベータ崩壊におけるエネルギー保存則と角運動量保存則が成立するように中性の粒子(ニュートリノ,中性微子)の存在を仮定した。

1931

エドウィン・P.ハッブル

ミルトン・ラセル・ヒューメイソン

アメリカ

アメリカ

ハッブル=ルメートルの法則の検証

※最大距離を30Mpcまで延長

ハッブルとヒューメイソンは、観測対象とする銀河の距離を2Mpcから30Mpcまで拡大し、1929年のハッブルの論文発表時よりもサンプル(銀河数)を41個増やした。

その結果、ハッブル=ルメートルの法則が確実に成立することを確認できた。

1931

マックス・クノール

エルンスト・ルスカ

ドイツ

ドイツ

透過型電子顕微鏡 (TEM)

ベルリン工科大学のクノールとルスカは最初の電子顕微鏡(透過型電子顕微鏡)を開発した。光学顕微鏡ではウイルスの観察はできなかったが、電子顕微鏡では電子線の持つ運動エネルギーに対応する波長が可視光線より短くでき、光学顕微鏡の1000倍以上の微細な対象を観察できるようになった。

※基本的に、顕微鏡の分解能は用いる光源(電子顕微鏡の場合は電子線)の波長と同程度となる。池に石を投げたら石と同程度の大きさの波長の波紋が広がり、その波紋に干渉する(新たに波紋が発生する)のは同程度の大きさの構造物に対してである。波長が大きく異なる場合には、単にその構造物を透過するだけで干渉しない。

1931

ハロルド・A.ウィルソン

イギリス

半導体理論

半導体の始まり

 
1931

カール・ジャンスキー

アメリカ

宇宙電波 電波雑音を調べていたベル研究所のジャンスキーは宇宙から正確な周期でやってくる電波を検出。その発生源は銀河系の中心部にある射手座であった。
1931

ラルス・オンサーガー

アメリカ

不可逆過程における相反定理  
1932

ジェームズ・チャドウィック

イギリス

中性子

※ベリリウム線の正体を解明

ラザフォードとチャドウィックは、ジョリオ・キュリー夫妻によるベリリウム線のパラフィンへの照射実験の報告(1932年)を聞き、ベリリウム線をガンマ線だとする解釈に違和感を抱いた。確かに光電効果のように光が電子のような軽い物質を弾き飛ばす現象は知られているものの、陽子のような質量の大きい物体(電子の2000倍)を光が弾き飛ばせるのだろうか…と。1920年には既に中性の粒子の存在を予想していたラザフォードには、高い透過力と陽子を弾き飛ばす質量を兼ね備えたベリリウム線にピンとくるものがあったと思われる。

チャドウィックは、ベリリウム線(α線をベリリウムに照射して得る)を様々な物質に照射し、そこから叩き出されてくる陽子以外の原子核の反跳も測定した結果、それは陽子とほぼ等しい質量を持つ電気的に中性な粒子(中性子)であることを突き止めた。

※以上より、原子核の構成要素である陽子と中性子が明らかになり、原子核の中身について語れる材料が出揃った。

1932

カール・アンダーソン

アメリカ

陽電子(反電子)

電子対生成

磁場をかけた霧箱(1911年)で宇宙線を観測する中、正負一対で出現する荷電粒子の存在に気が付いた。当初は正電荷と言えば陽子であったが、この正電荷は電子と同じ質量を持つため陽電子(ポジトロン)と名付けた。これはディラックがディラック方程式の解として予言した反電子(反粒子)の発見である。

なお真空中に突如として出現する電子と陽電子の電子対(電子対生成と呼ぶ)は、宇宙線(γ線)を元手に、そのエネルギー(E=mc^2で計算される電子質量2個分の約1024keV)と運動量を保存する形式で起きている。

1932

ハロルド・ユーリー

アメリカ

重水素

水素のスペクトル線の位置が僅かにズレることから、水素の同位体(重水素)を発見。

1932

ドミトリー・イワネンコ

ソ連

原子核の構造理論

チャドウィックによる中性子の発見を受けて、原子核の中には陽子と中性子のみが含まれ、そこに電子は存在しないとする説を提唱。

1932

ヴェルナー・ハイゼンベルグ

ドイツ

書物『原子核構造論』

原子核の構造理論

ドミトリー・イワネンコの説を支持する形で、ハイゼンベルグは原子核が陽子と中性子から構成されると考えると矛盾なく説明できると発表した。原子核内の陽子と中性子を安定的に結び付けている力は何か?といった課題も浮き彫りとなる。

※この課題意識は、後に湯川秀樹による中間子論の発表につながる。

1932

C.チャンドラセカール

パキスタン

ブラックホールの発生プロセス

星は終末期において、チャンドラセカール限界質量を超えると重力崩壊を起こし、白色矮星ではなくブラックホールとなる可能性を示唆。

※光さえ脱出できないブラックホールの概念は一般相対性理論が公開された1915年と同年にカール・シュバルツシルトによって理論的に導出されたが、チャンドラセカールは具体的な発生プロセスの説明を与えたと言える。

1932

ジョン・コッククロフト

アーネスト・ウォルトン

イギリス

アイルランド

コッククロフト・ウォルトン型加速器

高電圧加速装置で人工的な原子核変換

人工的な原子核反応を引き起こせるほどの高エネルギーの荷電粒子を得る加速器を初めて製作。この加速器では、交流を直流高圧に変換する電圧増幅回路(コッククロフト・ウォルトン回路)により0.5MeV程度の高電圧を作り、陽子加速試験でLi(原子番号3)からHe(原子番号2)の製造に成功した。Raなどの天然の放射線源に頼らない世界初の人工原子核反応である。なお加速させる陽子は、水素ガスを高圧放電で電離させて得る。

※静電場を利用した直線加速器(コッククロフト・ウォルトン型加速器、バンデグラーフ型加速器)で高エネルギー荷電粒子を得るには絶縁耐性の観点で限界があった。

1932

フォン・ノイマン

オーストリア=

ハンガリー

書物『量子力学の数学的基礎』

シュレーディンガー方程式は波の収縮を説明できない

物質波が時間の経過に伴いどのように広がるかを記述するシュレーディンガー方程式を検討した。その結果、この方程式からは波が収縮する現象を数学的には導けないことを証明した。しかし、我々は波の収縮により粒子としての電子を発見するため、ノイマンは「波の収縮は人間の意識の中で起こる」と結論付けた。この結論は現在ではほぼ否定されている。
1932

ライナス・ポーリング

アメリカ ポーリングの電気陰性度  
1932

ライナス・ポーリング

アメリカ

炭素原子の電子構造

混成軌道の概念

 
1933

ヴァルター・マイスナー

ローベルト・オクセンフェルト

ドイツ

ドイツ

超伝導体の完全反磁性  
1933

エンリコ・フェルミ

イタリア

ベータ崩壊の理論

 
1933

レオ・シラード

オーストリア=

ハンガリー

中性子による核連鎖反応の構想

 
1933

フリッツ・ツビッキー

ウィルター・バーデ

スイス

ドイツ

中性子星モデル

 
1933

ゾンマーフェルト

ベーテ

 

書物『固体電理論』

 
1933 1933年1月、ヒトラー政権の成立

ヒトラー政権の誕生。

【アインシュタインのアメリカ亡命】

アインシュタインは当年にアメリカに亡命し、1955年に亡くなるまで再びドイツの地を踏むことはなかった。

1934

J.F.ジョリオ・キュリー

イレーヌ・ジョリオ・キュリー

※ジョリオ・キュリー夫妻

フランス

フランス

α線による軽元素の核変換

※人工的な放射性元素の生成

ジョリオ・キュリー夫妻はPo(ポロニウム)由来のα線を放射能のない軽元素(BやAl)に照射させて、人工的に放射性元素(自然界には存在しないリン(P)の放射性同位元素)が得られることを発見した。

放射能のないアルミニウム(Al)にα線を当てると、α粒子が取り込まれリン(P)と中性子と陽電子(1932年にカール・アンダーソンにより宇宙線の中で発見)が生まれる。ここで新たに発生したPが自然界にない放射性同位体元素(安定同位体より中性子が1個少ない)であり、放射能を帯びる。

1934 エンリコ・フェルミ イタリア

中性子線による重元素の核変換

※超ウラン元素生成の可能性

低速中性子(熱中性子)の生成

ジョリオ・キュリー夫妻のα線による人工放射能の実験を知り、中性子線を使ってみようと考えた。α線の場合、正電荷のために原子核から電気的反発が大きく、核変換を誘発できるのは比較的軽い元素に限定されていた。一方、中性子線を使えば、重元素の原子核に対しても電気的反発なく核変換を誘発できると考えた。

フェルミは中性子線源(ラジウムとベリリウムの混ぜ物)から放射される中性子線(ベリリウム線)を60種余りの元素に照射して、約40種の放射性元素を生成した。期待通り、中性子線の方が核反応効率が高まることが確認できた。ジョリオ・キュリー夫妻の実験報告から2ヵ月後のこと。

さらに半年後の1934年10月、中性子線源と標的元素との間にパラフィンや水を挟む方が、核反応の効率が上がり、得られる放射性元素の放射能が強まることを発見する。また水素を含まない物質を挟んでも、核反応の効率は上がらなかった。フェルミは次のように解釈した。水やパラフィンなど水素を多く含む物質を通過した中性子は、水素との繰り返す衝突によって徐々にその運動エネルギーを失い、低速の中性子線となる。この低速中性子の方が核反応を誘発しやすいと考えた。低速中性子の運動エネルギーは物質の熱振動と同程度となるため、熱中性子とも呼ばれる。

1934 エンリコ・フェルミ イタリア ベータ崩壊の理論  
1934 パーヴェル・チェレンコフ ロシア

チェレンコフ光

光は真空中で最速であるが、水中など媒質中では屈折率に応じて減速する。水中では光速度は約25%減速するため、光速度を上回るスピードの荷電粒子も現れ、そうした荷電粒子からはチェレンコフ光が放射される。

1934

フリッツ・ゼルニケ オランダ 位相差顕微鏡  

1934

フリッツ・ハーバー ドイツ ハーバー、没す

ハーバーは晩年、アメリカへの移住を希望したものの、科学者の移住枠は既に埋まったという理由で許諾されなかった。ハーバーはスイスのバーゼルで失意のうちに65歳でこの世を去った。

ハーバーの生涯は毀誉褒貶の激しいものだった。空中窒素固定法(ハーバー=ボッシュ法)により大量の爆薬が作られ人を殺した一方で、土地がやせ作物の収穫が減少するという何千年来の難題を解決し、無数の人々の食糧を確保した。またハーバーはマスタードガスなどの化学兵器の開発を行い、ドイツの軍事戦力に多大な貢献をしている。戦争の早期終結のためと主張したが、多くの人々から戦争犯罪人と見なされた。

1935 湯川秀樹 日本

中間子論

※第三の力、核力の理論

中間子を予言

※仮想粒子の概念

1932年に発見された中性子(チャドウィック)は、陽子に加えて原子核の構成要素と見なされ始めた。当時知られていた自然界の基本的な力は、重力と電磁気力の2種である。原子核という狭い領域(10^-15mほど)に押し込めている陽子や中性子にも上記2種の力が働いている。しかし、電気力による斥力に対して重力の引力はあまりにも弱く、既存の力以外の原子核として安定に束ねる新たな力を必要とした。

湯川は原子核内の核子間で働く第三の力として核力を提唱(中間子論)。中間子という核子(陽子と中性子)同士の結合を生み出す仲立ち粒子を想定した。湯川は、その力が及ぶ範囲(2×10^-13m程度)と媒介粒子と想定した中間子の質量(不確定性原理などの条件から電子の200倍程度)の関係は、反比例することに気づいた。

湯川が予言した中間子(メソン)は、セシル・フランク・パウエルにより1948年に発見される。

※結合(引力)というのは、粒子間の粒子の授受によって引き起こされると考える。

【遠距離力と近距離力】

【不確定性原理が測定技術上の問題から、自然現象の本質的な性質に】

不確定性原理が提唱された時(1927年)、それは我々の観測技術の拙さから生じうる性質というきらいがあった。しかし湯川の中間子論では不確定性原理が自然界の本質的な性質として導入されたようだ。核子間を飛び交う中間子は結合力を生み出すが、その結合エネルギーに相当する中間子の質量(m=E/c^2)は比較的大きく、

1935 ヴァイツゼッカー ドイツ

ベーテ=ヴァイツゼッカーの公式

原子核の油滴模型をベースに核の結合エネルギーを算出する式。

1935

アルベルト・アインシュタイン

ボリス・ポドルスキー

ネイサン・ローゼン

ドイツ

ロシア

アメリカ

EPRパラドックス

(アインシュタイン=ポドルスキー=ロ-ゼンのパラドックス)

量子論ではスピン保存則を維持するために、光速度以上に情報が遠方に瞬時に伝わることが起こりうることを思考実験から予測し、それは相対性理論における宇宙の制限速度である光速度以上のものはないという前提と矛盾することを指摘。

アインシュタインの研究室のポドルスキーとローゼンの3名で発表したことで、EPRパラドックスと呼ばれる。

※EPRパラドックスはアスペにより1982年に実験的に検証し、ベルの不等式(ベル/1965年)が成立しないことを示し、光速度を越えて情報が伝わる現象があることを意味し、量子論に軍配が上がった。

1935

アルベルト・アインシュタイン

ネイサン・ローゼン

ドイツ

ドイツ

ワームホール(アインシュタイン=ローゼンの橋)

重力場方程式からワームホールを表す時空解をアインシュタインとローゼンが発見。

【ワームホールの名前について】

ワームホールという名前は1957年にバラードが命名した。

1935

ウォーレス・カロザース

アメリカ

世界初の合成繊維ナイロン

 
1936 ジョン・メイナード・ケインズ イギリス 錬金術師ニュートン

イギリス貴族のポーツマス伯爵リミントン卿が、ロンドンで開かれたサザビーズの競売に家宝として代々受け継がれてきた秘蔵の品、ニュートンの手稿を出した。リミントン卿は相続や離婚に伴う費用の捻出に苦労していたようである。経済学者ケインズはニュートンの貴重な資料が散逸するのを心配し、その約半分を落札した。落札した手稿は、65万字にも及ぶ錬金術ノートであった。ニュートンは、トリテニティ・カレッジの礼拝堂近くの庭の端にある木造二階建ての建物を錬金術の実験室として使用していたという。ケインズはこうした有様を「片足を中世に置き、片足は近代科学への途を踏んでいる」と表現した。

1936

カール・アンダーソン

セス・ネッダーマイヤー

イギリス

イギリス

宇宙線ミュー粒子(ミューオン) 宇宙線の霧箱による観測でミュー粒子を発見。その軌跡から、電子と同じ電荷であるが、電子より重たい新粒子と推定された。その質量から当初、湯川の中間子と思われたが核力を媒介せず、中間子とは異なる粒子(レプトン)の一種として分類されることになる。
1937

ハンス・ベーテ

ヴァイツゼッカー

ドイツ

ドイツ

恒星(太陽)のエネルギー源

核反応サイクル

p-p chain反応

ベーテは様々な核融合反応が起きる確率(反応断面積と呼ぶ)を検討し、太陽が水素の原子核同士の核融合反応によって莫大なエネルギーを放出することを示した。ヴァイツェッカーも独立して発表。

星の内部の超高温、高密度の環境では炭素を触媒にして、陽子(水素イオン)同士が融合して重水素(ユーリー/1932年)が形成され、重水素同士の融合によってヘリウムが生じる。軽い原子核が融合し質量の大きいより安定した原子核が作られることで、その反応前後の質量差がE=mc^2として開放され、星は輝いている。

1937

スリッツ・ツビッキー

スイス

銀河の見えない質量(重力源)

※暗黒物質の存在の示唆

ツビッキーは、かみのけ座銀河団からくる光の強度を観測し、その質量を推定した。ところが、その値が銀河団内での銀河の動き(存在する質量の重力で決まる)から計算される質量に比べてはるかに小さかった。そこから光を出さない観測されない物質が分布する可能性が示唆された。
1937

エミリオ・セグレ

C.ペリエ

イタリア

イタリア

最初の人工元素(テクネチウム(Tc))

原子番号43のテクネチウム(Tc)には安定した核種が存在せず、天然鉱物から見つけることは困難であった(但し、ウラン鉱石中のウラン核分裂由来のモリブデン(Mo)の壊変で生じるTcは1968年に発見される)。

セグレとペリエは、カリフォルニア大学のサイクロトロンでMoに重陽子(陽子1個と中性子1個からなる重水素の原子核)を照射し、周期表上のMnとReに似た新しい元素を得た。1947年にこの元素は人工的に作られた最初の元素として、ギリシャ語の"人工の"を意味するテクネチウムと命名された。

1937

マンフレート・アルデンヌ

ドイツ

走査型電子顕微鏡 (SEM)

 

1937

ピョートル・カピッツァ

ロシア

液体ヘリウムIIの超流動

Heの同位体のうち主要なHe4は、絶対零度でも常圧下では固体化せず、液体として存在する。カピッツアは、He4を約2.2Kまで下げると粘性が完全に失われる超流動現象を発見し、容器の壁を自然によじ登って外に流れ出したり、原子1個分の小さな穴さえも通るようになる。なおヘリウムの主成分であるHe4は、同位体のHe3の100万倍多く含まれる。

※極低温では物質の量子効果が巨視スケールで現れるため、量子的挙動が大きく異なるHeの同位体(He4とHe3)を区別して考える必要がある。He3の超流動現象の発見は1972年である。

1937

ホイットル

イギリス

ジェットエンジン

ホイットルが主任技師を務めるパワージェット社が世界初のジェットエンジンの開発に成功。

1937

アーネスト・ラザフォード

ニュージーランド

書物『新しい錬金術』

※前年の講演内容の書籍化

1936年、ラザフォードはケンブリッジのニューハム・カレッジで「ヘンリー・シジウィック記念講演」を行った。翌年、その講演録が書物『新しい錬金術』としてケンブリッジ大学出版から刊行された。その中でラザフォードは次のように語っている。

「現代の科学に目を向けると、極めて微量ではあるが、金を作り出すことは夢ではなくなっている。但し、金よりも高価な元素、白金を変換するわけであるから、採算は全く合わないが」

ここでラザフォードが述べている錬金術は、白金(原子番号:78)を金(原子番号:79)にする方法であって、白金に陽子を一つ打ち込むことを意味する。1930年代に入ると、水素ガスを高圧放電によって電離させ、陽子を作り出し加速させる装置が開発されていたため、既存のラジウム由来のα線よりも正電荷が低く、運動エネルギーも調整できるという技術面での進歩が錬金術を可能にさせたと言える。但し、全く採算が合わないのはラザフォードが述べる通りである。

※長岡半太郎がかつて失敗した水銀還金実験(1924年)は、ラザフォードの錬金術とは逆に原子核を壊す(原子番号を減らす)方法での錬金術であった。

1937

アーネスト・ラザフォード

ニュージーランド

ラザフォード、逝去

 

1938

ナチスドイツ、オーストリアを併合

 
1938

オットー・ハーン

フリッツ・シュトラスマン

ドイツ

ドイツ

ウランの核分裂の発見

※原子番号の大幅な変化を伴う核変換

二次中性子と連鎖反応の示唆

1934年のフェルミの中性子照射による核反応実験以降、中性子を用いた様々な実験が行われてきたが、標的元素の原子番号の変化が2を超えるような反応は一例も見られなかった。

ところが1938年冬、ハーンとシュトラスマンはウラン(Z=92)に中性子を照射する実験で、一部のウランが中性子を吸収して莫大なエネルギーと2つの放射性同位体元素(バリウム(Z=56)とクリプトン(Z=36))に分かれることを発見した。ウランの核は中性子によってほぼ半分に割れてしまったことになる。なお本実験の発表は、年明けの1939年1月6日である。

ハーンとシュトラスマンの実験結果に理論的な解釈を与えるのは、共同研究者であったマイトナーとフリッシュである。但し、ユダヤ系のオーストリア人であったマイトナーはこの頃、ナチスドイツによるオーストリア併合に伴いナチスの直接的な影響下となったことを受けて、スウェーデンへ亡命する。

1938

リーゼ・マイトナー

オットー・ロベルト・フリッシュ

オーストリア

オーストリア

ウランの核分裂の理論的解釈

ハーンとシュトラスマンの実験結果に、マイトナーとフリッシュは原子核の油滴モデルを用いてその理論的な説明を与えた。ウランの原子核では、その狭い領域に92個の陽子を封じ込こめるために強い電気的反発力が生じている不安定な状態である。中性子の衝突を受けると、液滴の揺れが増大し、その表面張力を振り切って二つの小滴に分裂すると説明した。

※原子核の液滴モデルとは、陽子と中性子の集団である核を分子の集団である液体の滴に見立て、核の構造や性質を記述するモデルである。

【核力について】

陽子同士の電気的反発力を封じ込め、陽子と中性子といったハドロンを結び付ける力は核力であり、1935年に湯川秀樹の中間子論によって提唱されていた。なお中間子論で予言された中間子は、1947年にセシル・F.パウエルによって発見される。

【マイトナーのスウェーデン亡命】

 

1938 ビゼット フランス 反強磁性  
1938

ハインケル社

ドイツ

ジェットエンジン搭載飛行機の実用化

ハインケル社が独自に開発したジェットエンジンを搭載したHe178の試験飛行に成功。

1938

デュポン社

ウォーレス・カロザース

アメリカ

アメリカ

合成繊維ナイロン 1938年6月にデュポン社からポリアミド系繊維ナイロンが発表。石炭(フェノールの原料)と空気(窒素の原料)と水(水素の原料)とから、全く人工的に得られた、クモの糸より細く、鋼鉄よりも強く、絹よりも弾性に富む新しい繊維とされた。日本の米国への生糸輸出量は、ナイロン発明を契機に減少した。
1939

第二次世界大戦、勃発(~1945年)

1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻により第二次世界大戦が始まる。この時、アインシュタインは滞米生活6年目を迎えていた。

【フェルミのアメリカ亡命】

ムッソリーニが支配するイタリアでもユダヤ人弾圧が強まっていた。エンリコ・フェルミは妻がユダヤ人であったため、1938年のノーベル物理学賞(中性子照射による放射性元素の生成)の受賞式出席に乗じてアメリカ亡命を決行。ストックホルムを経由して1939年1月2日にアメリカに渡った。

1939

アルベルト・アインシュタイン

レオ・シラード

ユージン・ポール・ウィグナー

ドイツ

ハンガリー

ハンガリー

ルーズベルト大統領への書簡

⇒原爆開発の危険性の訴え

滞米生活6年目を迎えていたアインシュタインは、一般相対性理論を拡張し、重力と電磁気力を統一した理論の構築を目指していた。

そんな中、1939年7月、来訪してきたシラードとウィグナー(両者はハンガリーよりアメリカに亡命)からドイツが原子爆弾の開発に乗り出す危険性があることの強い訴えを聞いた。この背景として1938年末のウランの核分裂反応の発見がある。

シラードと話すまで、ウランの二次中性子放出による核分裂連鎖反応の可能性を考えていなかったアインシュタインであったが、すぐに事の重大さを理解した。1939年8月2日、彼らの訴えに端を発し、影響力のあるアインシュタインを差出人として、ルーズベルト大統領にアメリカも早急に然るべき行動に移るべきである亡命科学者の訴えを書簡として送った。※実際に大統領に届くには、大戦勃発後の1939年10月11日。

【良質のウラン鉱石の産出地について】

書簡の中では、ウラン資源の所在についても記載されている。

「アメリカには質の悪いウラン鉱石が僅かに産出されるだけなので、良質のウラン鉱石はカナダと旧チェコスロバキアにいくらかあり、もっとも重要なその供給源はベルギー領コンゴになると書かれている。そして、ドイツは接収したチェコスロバキアから採掘されるウランの輸出を停止したようなので注意が必要である。」

【アインシュタインの後悔】

大戦後、当時のドイツには原子爆弾を開発できる可能性がなかったことを知ると、この書簡に署名したことをいたく悔やんだとされる。ルーズベルト大統領が核兵器開発のゴーサインを出すのは1941年10月である。アインシュタイン自身は、マンハッタン計画というコードネームで進められる核兵器開発には関与していない。

1939 イシドール・イザーク・ラビ アメリカ

磁気共鳴法

NMR信号の検出

 
1939

ロバート・オッペンハイマー

ハートランド・シュナイダー

アメリカ

アメリカ

ブラックホールの理論的発生プロセス

※ブラックホールの概念の確立

両氏は、星が死んで重力崩壊していく時の様子を一般相対性理論を用いて調べた。そして星は、自身の重力によって無限小に縮小すると指摘した。ここに至って初めて今日のブラックホールの概念が誕生した。なおこの時はブラックホールではなく、重力崩壊星(collapsing star)と呼ばれていた。

※ブラックホールと呼ばれるのは、1967年12月にジョン・ホイーラーが講義で使ったのが最初とされる。

1940

リチャード・P.ファインマン

アメリカ

経路積分

 
1940

エドウィン・マクミラン

フィリップ・アベルソン

アメリカ

アメリカ

原子番号93ネプツニウム(Np)の生成

超ウラン元素の生成

天然に存在する元素の中で最も重いのは原子番号92のウラン(U)であるが、カリフォルニア大学バークレー校のマクミランとアベルソンは、核反応の生成物の中に原子番号93の新元素(ネプツニウム)を発見した。初の超ウラン元素となった。

核分裂を起こさないウラン238の核は、照射された中性子を吸収すると、質量数239のウラン同位体となる。これがベータ線を放射するとネプツニウムに変換される。

1940

ジョージ・ガモフ

アメリカ

書物『不思議の国のトムキンス

※相対論の啓蒙書

核物理学者ガモフによる相対論に関する啓蒙書である。相対論効果を想像しにくくさせる理由は光速度に近づかなないと効果がはっきりしないからだ。ガモフは光速度が自転車の移動速度ほどに遅くなった(物理定数をいじった)仮想世界を用意し、主人公トムキンスの体験を通じて、日常生活の何気ない行動の中で相対論効果がどのように現れるかを説明している。

但し、エネルギーの側面から考えると光速度(m/s)の物理定数が1億分の1程度まで低下した世界では、E=mc^2で得られるエネルギーが極めて小さいため、太陽も輝かないし、生命誕生も難しい。

1941 大東亜戦争(太平洋戦争)、勃発(~1945年)  
1941

ルーズベルト大統領

アメリカ

マンハッタン計画、始動

※原子爆弾の開発計画

1941年10月、ルーズベルト大統領の指示でマンハッタン計画と呼ばれる核兵器開発の計画が進められる。

1941

エンリコ・フェルミ

イタリア

原子炉の構想

1938年に発見されたウランの核分裂連鎖反応を利用して、核エネルギーを取り出す原子炉の基礎理論を構築。連鎖反応の実現のためには核分裂の確率を高める必要があるが、ウラン235の含有比率を高めた濃縮ウランを作る方法(同位体分離方式)と、速度を落とした熱中性子との衝突を効率的に進行させる減速材を用いた方法とが考えられる。

1941

ドナルド・カースト

アメリカ

ベータトロン

 
1941

レフ・ランダウ

ソ連

液体ヘリウムの超流動の理論

※量子流体の理論

ボース粒子である液体ヘリウム4の超流動現象の理論を構築。
1941

エドレン

スウェーデン

太陽コロナの温度測定

コロナ特有の緑色のスペクトル線が鉄原子を数十回電離した鉄イオン由来であることを発見。鉄原子がこれだけの電子を剥ぎ取られた状態となるには100万K以上の温度が必要。

1942

エンリコ・フェルミ

シカゴ大学

イタリア

アメリカ

原子炉(シカゴ・パイル1号)稼働

※人類最初の原子の火

核分裂連鎖反応の持続(臨界)

1942年10月にマンハッタン計画(原子爆弾開発)が始まり、シカゴ大学では最初の原子炉(シカゴ・パイル1号,CP-1)が組み立てられた。12月2日の午後2時20分、原子炉は臨界に達した。臨界が報告された時、アーサー・コンプトンはハーバード大学学長のコナントに暗号電話をかけ、「大ニュースだ。イタリアの航海者がたった今、新大陸に上陸したよ」と伝えた。

核分裂で発生した高速中性子を熱中性子にする減速材には、水が適していた。しかし一方で、熱中性子が陽子(水素イオン)と結合して重水素が作られる反応も同時に進行することが分かり、これが臨界(核分裂連鎖反応の持続)のため必要な中性子の数を無駄に食いつぶす原因となる。そこでフェルミは別の軽い元素を探し、黒鉛(グラファイト)を用いた。減速材(黒鉛)とウラン原料を一様に混ぜることはせず、減速材のブロックの上にウランの塊を積み上げた構造(パイルと呼ばれる)にした。また核分裂連鎖反応の制御には、中性子をよく吸収する性質を持つカドミウム(Cd)の制御棒の抜き差しで行われた。

※CP-1は原子爆弾燃料のプルトニウム239生成用原子炉を設計するための実験炉として作られた。

【臨界のための濃縮ウランと減速材】

エンリコ・フェルミはイタリア時代(アメリカ亡命前)から中性子線照射による人工放射性元素の生成実験や熱中性子の利用など(1934年)、中性子の取り扱いに習熟していた。原子炉の臨界を目指す上で、フェルミは減速材により得られる熱中性子を天然ウラン(含有比率99.275%の核分裂しないウラン238を含む)に照射する方法を選んだ。別の有力な手法として同位体分離による濃縮ウラン製造もあるが、こちらは相当の手間とコストが掛かるため、この時点では減速材の工夫によって臨界を達成した。

1942   ドイツ

ロケットエンジン搭載の弾道ミサイル

液体燃料ロケットエンジンを搭載した世界初の弾道ミサイルV2号が完成し、初飛行も成功。

1942        
1943

朝永振一郎

日本

超多時間理論

不確定性原理により、真空において極めて短い時間で粒子と反粒子の生成・消滅は至る場所で起きている。特殊相対性理論によれば異なる地点では座標系の取り方によって時間(同時性)が異なる。そこで各地点ごとに固有の時間を設定し、特殊相対論の要請を満たす電磁場の量子論を構築した。
1944

ファン・デ・フルスト

オランダ

水素原子の21㎝電波を予言

陽子と電子の磁気作用により、水素原子から21cmの波長の電波が放射されることを理論的に示した。

1945

マンハッタン計画

アメリカ

トリニティ実験(人類最初の核実験)

原子爆弾

核分裂を起こすU235の濃縮とPuの製造に成功したアメリカは、7月16日にニューメキシコ州アラマゴルドで原子爆弾の実験(トリニティ実験)を実施した。

1945

原子爆弾、投下

 
1945

エドウィン・マクミラン

ウラジミール・ベクスラー

アメリカ

ロシア

シンクロトロン

 
1945

ザボイスキー

ロシア

電子スピン共鳴法

 
1945

グレン・シーボーグ

アメリカ

拡張型元素周期表

ヴェルナーの長周期型周期表(1905年)を発展させ、新たに発見されたランタノイドアクチノイドを別枠に設けて配置した拡張型元素周期表を作成した。現在、我々が日常的に目にする元素周期表はシーボーグの周期表である。

1946

フェリックス・ブロッホ

エドワード・パーセル

スイス

アメリカ

核磁気共鳴法(NMR)

 
1946

ジョージ・ガモフ

ロシア

ビッグバン理論(火の玉宇宙論)

 
1946

アメリカ陸軍

ペンシルベニア大学

アメリカ

電子計算機ENIAC(エニアック)の開発

※世界初の汎用コンピュータ

アメリカ陸軍の委託によりペンシルベニア大学で開発された初の実用的な汎用電子コンピュータ。開発目的は大砲の弾道計算。約1.8万本の真空管を用いた総重量約30tの巨大設備であり、約160㎡の部屋に収められた。

1947

ウィリス・ユージーン・ラム

ロバート・レザフォード

アメリカ

アメリカ

ラム=ラザフォードの実験

ラムシフトの発見

水素原子のマイクロ波スペクトル分析(ラム=ラザフォードの実験)により、スピンを考慮したディラック方程式でも説明できない僅かなスペクトルのズレ(微細構造)を観測した(ラムシフトと呼ぶ)。

1947

ウィリス・ユージーン・ラム

ポリカプ・クッシュ

アメリカ

アメリカ

ラムシフトの精密測定

ラムとクッシュは、超短波による核磁気共鳴実験よりラムシフトの精密測定を実施。

 

ラムシフトの原因を核と電子の相互作用ではなく、電子が自分自身(原子内の別の電子ではない)が周囲に作り出す電磁場からも影響を受け、スペクトルの微細構造を生み出していることを示した。

1947 朝永振一郎 日本

くりこみ理論

ラムシフトの理論的導出

※量子電磁気学の確立

仮想粒子のために計算上、無限大に発散してしまう電子の質量と電荷に対して、暫定的に有限の観測値に置き換え(これを"くりこみ"と呼ぶ)、超多時間理論(1943年)を適用すると、全ての物理量が有限に収まることが示された。

くりこみ理論と超多時間理論によって、ディラック方程式からのズレが指摘されていた電子自身の電磁場の影響による微細構造であったラムシフトの測定結果と、高い精度で合致した。

※同時期に、朝永と同様の成果をシュウィンガーとファインマンが独立に提示している。

以上をもって、荷電粒子と電磁場から成る系を扱う量子電磁力学という学問が確立された。

1947

ウィラード・フランク・リビー

アメリカ

放射性炭素年代測定法

(14C年代測定法)

炭素の質量数は12であるが、放射性同位体の質量数14の炭素を用いて年代測定を行う方法を提唱。炭素は質量数12が98.9%を占めるが、大気中の窒素に宇宙線が衝突したときの核反応によって生成される炭素14が1.1%の割合で存在する。生物を構成する炭素のうち14Cの比率も常に1.1%であるが、死んでしまうと体内に炭素が取り込まれなくなるため、14Cは少しずつ崩壊し、14Cの含有量が減少する。この14Cは、5730年の半減期で崩壊するため、その含有量からその生物が生きていた時代を推定できる。

1947

セシル・フランク・パウエル

アメリカ

パイ中間子

※湯川粒子

パウエルは高速の荷電粒子の飛跡を鮮明に撮影する方法を開発した。写真乳剤での宇宙線の観測で、湯川が予言した中間子(メソン)の性質を持つ新たな粒子を発見した(現在、これはパイ中間子と呼ばれる)。

※人工的には1948年にカリフォルニア大学の加速器で生成に成功。

中間子は、原子核内の核子(陽子や中性子)の間で働く"強い力"を媒介し、強い結合力を生みだすことで、陽子同士に働くクーロン力(電気的反発)を抑え込んでいる。

原子核内では不確定性原理に従い、観測できないほどの極めて短時間Δtに中間子が核子間を交換されていると考えられるが(仮想粒子と呼ぶ)、実際に中間子の質量に相当するエネルギーを外部から注入してやれば、観測可能なほど十分な時間、中間子が具現化しうる。

【エネルギー保存則の破綻の証左?】

エネルギーの元手がない場合でも、不確定性原理の制約を満たす短時間であれば真空から必要なエネルギーを調達しうる。これはごく短時間であれば、エネルギー保存則が破綻しているとも言える。

1948

国際度量衡局

 

電流の単位(アンペア)の再定義

力から電流を定義

電流の単位アンペアを「真空中に1mの間隔で平行に配置された無限に小さい円形断面積を有する無限に長い2本の直線状導体が想定し、各々に一定の電流を流した時に導体の長さ1mにつき2×10^-7ニュートン(N)の力を及ぼし合う電流を1アンペア」と定義した。これは1820年にアンペールが公開実験した内容で、アンペールの力を利用した定義である。

電気は溜ることが難しいため、電気量(クーロン)よりも電流(アンペア)を先立って定義される。単位の観点では、電流(アンペア)が最上位であり、電気量(クーロン)は導かれる対象として「1クーロンとは1秒間に1アンペアの電流によって運ばれる電荷」と定義される。

1948

ジョージ・ガモフ

ラルフ・アルファー

アメリカ

アメリカ

αβγ理論(アルファ・ベータ・ガンマ理論)

※宇宙初期の原子核合成理論

1930年代以降、中性子(1932年/アンダーソン)の発見、中間子論(湯川秀樹/1935年)、各種の原子核モデルなど原子核物理学の知見をもとにビッグバンモデルの議論ができるようになってきた。

αβγ理論は、ビッグバンによる宇宙初期の原子核合成の理論である。まず宇宙初期の高温高圧の中性子ガス(過熱した中性の原子核の液体)から陽子と電子が作られる。そして宇宙膨張に伴う温度低下により、残っている中性子と陽子が融合し重水素が作られ、次々と重い原子核が作られていくと考えた。

αβγ理論では重元素まで一気に合成されるとしたが、後に林忠四郎により、宇宙初期にはヘリウムより重い元素は形成されないとし、この指摘を踏まえたものをαβγ林理論(1950年)と呼ぶことがある。

1948 

ジョージ・ガモフ アメリカ

ビッグバン理論

 

1948 

ヘルマン・ボンディ

トマス・ゴールド

フレッド・ホイル

オーストリア

オーストリア

イギリス

定常宇宙論

ルメートルによるハッブル=ルメートルの法則(1927年)の発見以降、宇宙の膨張は観測事実として認める必要があるが、その膨張によって宇宙の密度が薄まれば物理法則が時間とともに徐々に変化することになる。

定常宇宙論は、完全宇宙原理(場所・時間に関係なく物理法則は常に同じ)に基づく理論であり、宇宙膨張による宇宙の密度減少を避ける理屈として、宇宙は毎年1km^3当たりおよそ水素原子1個が新たに生まれるとした。当初、定常宇宙論がビッグバン理論よりも優勢と見られた理由として、ビッグバン宇宙論によればハッブル=ルメートル定数が当時の最新の値で250-300km/s/Mpcであり、逆算される宇宙年齢は40億年程度となり、これは地球の年齢よりも若いという矛盾があった。

※新たなビッグバンの証拠として宇宙背景放射(3K輻射)が発見(1965年)された1960年代になると、ハッブル=ルメートル定数は100km/s/Mpc弱となり、宇宙年齢は100億年強いまで延びた。

1948

ヘンドリック・カシミール

ダーク・ポルダー

オランダ

オランダ

カシミール効果

真空内に平行に置かれた2枚の金属板の間に、外部から何らエネルギーを与えずとも引力が働くことを予想(カシミール効果と呼ぶ)。

1948

ジョン・バーディーン

ウォルター・ブラッテン

アメリカ

アメリカ

アメリカ

トランジスタ

※点接触型トランジスタ

米国ベル研究所にてトランジスタ(点接触型トランジスタ)が発明される。ゲルマニウム単結晶に僅かに不純物を混ぜると、真空管と同様に電流の整流・増幅・発振が可能になる。トランジスタは小型で耐久性に優れ、省電力なため真空管(気体エレクトロニクス)のいきずまりを破り、コンピュータの実用性を高めた。

1949

中華人民共和国、成立

 
1949

ゲッパート・メイヤー

ヨハネス・ハンス・エンセン

ドイツ

ドイツ

原子核の殻模型(シェルモデル)

魔法数

 
1949

レオ・J.レインウォーター

アメリカ

核子の非対称性

核子は必ずしも球ではない。
1949

フレッド・ホイル

アメリカ

ビッグバンの命名

定常宇宙論(1948年)の提案者の一人であるフレッド・ホイルは、BBCのラジオ番組の中で初めてビッグバンという言葉を使用した。科学史家ヘルゲ・クラーウによれば、これは当時、対立していたビッグバン理論に対して悪い意味合いで使われたわけではないとする研究結果を発表している。

1940年代後半から宇宙背景放射が発見(1965年)されるまでの約20年間は、ビッグバン宇宙論と定常宇宙論は両方存続していたが、宇宙背景放射の発見以降は、定常宇宙論は静かに衰退し、ビッグバンという言葉が多く使われるようになった。

1949

ウィリアム・ショックレー アメリカ 接合型トランジスタ ベル研究所で発明された点接触型トランジスタ(1948年)の弱点を改善し、生産性と事業拡大可能性の高いサンドイッチ構造のトランジスタ(接合型トランジスタ)を開発。

1949

アメリカ国立標準局

イギリス国立物理学研究所

アメリカ

イギリス

原子時計(アンモニア型)

原子時計(セシウム型)

 
1950 林 忠四郎 日本

元素合成理論

※αβγ林理論

初期宇宙における元素合成理論を発表。創成期の宇宙には中性子と陽子の両方が存在し、Heが作り出せることを示した。また質量数5と質量数8の安定元素がないため、宇宙初期にはそれを超える元素は合成できないと指摘した。
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1926 アルバート・A.マイケルソン アメリカ

真空中の光速度の精密測定

(秒速299796±4km)

マイケルソンは、レオン・フーコーが1850年に用いた回転鏡による光速度測定の方法を完全なものにし、真空中の光速度の精密測定を行った。この種の測定方法では歴代最高の記録となり、最も有名で偉大な実験とれる。

マイケルソンは光を35km離れた先に置いた反射鏡(カリフォルニアのサンアントニオ山に設置)へ送り、戻ってくる光を回転する多面鏡(カリフォルニアのウィルソン山に設置)に通した。多面鏡は8面、12面、16面などで使用され、回転スピードは電気モーターで自由に調整された。結果の正確性は実験系の測定距離に依存するため、アメリカ合衆国の地形測量部は、この実験のために特別にその距離を測定している。

1926 エルヴィン・シュレディンガー オーストリア

シュレディンガー方程式(波動力学)

3つの量子数

※スピンの概念はないため、微細構造まで記述できない

物質波(ド・ブロイ/1923年)の形と伝わる様子を記述するシュレディンガー方程式を発表。式中に粒子の質量を含み、物質の二面性(粒子かつ波動)を表す。水素原子中の電子のエネルギー状態が不連続となるボーアの量子条件(2πr×mv=nh)となることを示した。この論文は、プランクやアインシュタインから直ちに絶賛された。

水素原子中の電子のエネルギーに対しては、シュレディンガー方程式で完全に解ける。

シュレディンガー方程式の記号ψ(プサイ)は物質波(電子1個)を表す波動関数であり、古典物理(音波や電磁波)の波動方程式が実数で表されるのに対して、複素数(a+bi)の波である。電子の性質をうまく説明できる一方で、式中の波動関数ψ(複素数の波)が一体何を意味するのかについては曖昧であった。

【非相対論的波動方程式から相対論的波動方程式へ】

シュレディンガー方程式には特殊相対性理論の効果を考慮しておらず、光速に近い状態を取り扱う場合、特殊相対性理論の要請を満たす形式に書き直す必要がある。シュレディンガー、ド・ブロイ、クライン、ゴルドンなど多くの理論家がこの難問に取り組んだが、最初にその導出に成功したのは、ポール・ディラックであった(相対論的波動方程式/1928年)。

1926 マックス・ボルン ドイツ

波動関数の確率解釈

→❘ψ❘^2は電子の発見確率

※本質的な非決定論の導入

波動関数ψ(電子1個の波動を表す)の絶対値を二乗した❘ψ❘^2は、電子がその位置で(波ではなく)粒子として検出される確率に比例する説(波動関数の確率解釈)をボルンは唱えた。波動関数ψ自体の物理的な描像には言及せず、❘ψ❘^2を求めると実験結果通り、電子の統計的な位置が特定できる実用性を重視した考え方だった。

シュレディンガーの波動力学がプランクやアインシュタインから絶賛された一方、ボルンの確率解釈に対してはプランク、アインシュタイン、ド・ブロイ、シュレディンガーなど錚々たるメンバーが、決定論ではなく確率論(非決定論)を物理学に持ち込むことに異議を唱えた。アインシュタインは「神はサイコロ遊びを好まない」という有名な言葉で確率解釈を批判している。ここでの神とはスピノザの神であり、あらゆる自然現象を貫き決定する究極的な原理・真理という意味。

※波動関数ψは複素数(a+bi)で表される波であり、その絶対値は(a^2+b^2)^(1/2)。

1926 エンリコ・フェルミ イタリア

フェルミ=ディラック統計(フェルミ分布関数)

フェルミ粒子(フェルミオン)

 
1926 ウィレム・ケーソン オランダ

ヘリウムの固体化

オネスは液体Heの製造(1908年)後、固体Heの製造を試みたが0.82Kまで冷やしても固体化しなかった。これはHe(He3とHe4の両方含む)は常温では三重点を持たないためである。オネスの教え子であるケーソンは、15K以下/100MPaの条件下でHeの固体化に初めて成功した。
1927 第5回ソルベー会議 議題は「電子と光子」。
1927 W.K.ハイゼンベルグ ドイツ

不確定性原理

Δx・Δp≌h

※相補的変数:積がkg・m^2・s-1

→位置と運動量

→時間とエネルギー

→質量とm^2/s

→姿勢と角運動量

ミクロ世界の運動を表す波動力学(シュレディンガー方程式など)によれば、相補的変数とされる一対の物理量(位置と運動量、時間とエネルギー)を同時に知る測定精度には、Δx・Δp≌hで示される限界があることを示唆した(不確定性原理と呼ぶ)。※≌はほぼ同じという意味。h(プランク定数)は6.6×10^-34J・s

相補的変数のペアの積は、プランク定数hと同じかそれ以上になること、逆に言えば、hより小さくしたり、ましてはゼロにはできないことを意味する。

相補的変数となるのは、物理量の積がkg・m^2・s-1(角運動量の単位だが…)となるもので、位置(m)と運動量(kg・m・s-1)や、時間(s)とエネルギー(kg・m^2・s-2)が挙げられる。

【位置と運動量の不確定性】

大きさがない点と見なされる電子の位置xを厳密に特定するには、相応の波長を持つガンマ線を照射しなければならない。光は波長に対応した分解能を持つからだ。しかし波長を短くすれば光の運動量は大きくなり、波動性よりも粒子性が顕著に表れ出す。ガンマ線を照射された電子はその位置情報は正確に測れる(Δx→0)が、照射されるガンマ線の運動量が大きいため、もともと電子が持っていた運動量の情報がボケてしまう(Δp→∞)。逆に運動量の低いX線を使うと電子の運動量はより厳密に測定できる(Δp→0)が、波長が長く分解能が低いため、電子の位置情報がボヤけてしまう(Δx→∞)。位置と運動量の両者の積の統計的な誤差は、プランク定数hほどにはどうしても生じてしまう。但し、相補的変数に該当しない物理量ペアに関しては、不確定性原理の適用外なので同時に正確に求められる。

測定に際して、相補的変数である位置と運動量は同時にある値として得られる。しかし測定を何度も繰り返してデータを蓄積すると、統計的なブレとして不確定性原理が現われる。いずれか一方の測定誤差を犠牲にすれば、他方はいくらでも正確に再現性ある値として得ることが可能。

【時間とエネルギーの不確定性】

位置と運動量のペアが相補的変数であったように、エネルギーと時間もそうである。電子に照射する光の振動数ν(1/s)を測定すると、時間tをかけるほど振動回数が増えるので正確な振動数の値が求められる。反対に短時間Δtの観測では、1回の振動すら終わらないかもしれず、振動数が曖昧となる。振動数と時間の間にはΔν・Δt≌1という不確定性原理が成り立つ。ここで光子のエネルギーは、E=hνなので式変換すると、ΔE・Δt≌hが導かれる。こうした不確定性を持つ光子を使い、電子のエネルギーと測定時間を厳密に同時に求めようとしても同じくΔE・Δt≌hが課せられる。測定時間を短くするほど(Δt→0)、得られるエネルギーの値は再現性がなくなり、統計的な振れ幅は大きくなる(ΔE→∞)。

【質量m^2/s不確定性】

位置、時間と来たら残るは質量に関する不確定性であるが、その場合、相補的変数の単位はm^2/sとなる。

【不確定性原理と二重性】

当初、不確定性原理は観測テクニックの話から導入されたように感じるが、それが観測テクニックを磨けば解決できるという次元ではなく、ミクロ世界の本質的な性質と考え始められるのは、粒子性と波動性を同時に持つという二重性であろう。光については光電効果の理論的説明(アインシュタイン/1905年)に既に二重性は考えられたが、電子においては電子線回折の発見(デイヴィソンとガーマー/1927年)によりその波動性が実証された。

波動力学(シュレディンガー方程式)からの不確定性原理の説明は以下の通り。電子の波動関数を正弦波に分解(フーリエ変換)すると、粒子として検出される(波動関数がピーク形状)とは無数の(波長の異なる)正弦波の合成となる。正弦波の波長が電子の取りうる速度(→運動量)に対応し、粒子としてある位置に存在することが確認できる場合、その速度(→運動量)にはバラツキを持つことを要請する。一方で、波動関数がたった一つの正弦波で表される場合、空間上に存在確率が広がった状態で粒子としてどこか一ヵ所に特定できないが、電子の速度(→運動量)は決定できる。

1927

ボーア研究所

(ボーアの弟子達)

デンマーク

コペンハーゲン解釈

※量子論の主流の考え方

重ね合わせ(スーパーポジション)

「波の収縮」と「確率解釈」を2本柱として、ボーア研究所の若い物理学者達(ハイゼンベルグ、パウリ、ディラックなど)が提唱した、我々が観測する前の電子と観測後の電子の様子を理解するための次のように解釈した。観測される前の電子は様々な位置にいる状態が「重ね合わせ(スーパーポジション)」になっているが、我々が電子を観測した途端に「波の収縮」が起きて電子は一ヵ所で発見される(コペンハーゲン解釈)。

「波の収縮」とは、我々が電子の存在を観測する際には、常に(波ではなく)粒子である事実に基づき、観測前に空間的に広がった発見確率の波紋が、観測時にその一点に全確率(100%)が収縮することを意味する。観測以前の電子の存在確率が空間に広がった状態は、電子が「重ね合わせ(スーパーポジション)」の状態にあると表現する。実際に電子がどの位置に観測されやすいかは、波動関数の「確率解釈」(ボルン/1926年)を用いる。

【決定論を重視するアインシュタインによる批判】

量子論の曖昧さを自然界の本質的な原理だとして、確率解釈(ボルン/1926年)や不確定性原理(ハイゼンベルグ/1927年)を認めるコペンハーゲン解釈に対して、従来通りの決定論を重んじるアインシュタインは『神はサイコロ遊びを好まない』と言って批判し、曖昧さを取り除く隠れた変数の存在を主張し、量子論はまだ不完全な理論であるとした。その反論の一つとしてEPRパラドックス(1935年)がある。

1927

クリントン・J.デイヴィソン

レスター・H.ガーマー

G.P.トムソン

アメリカ

アメリカ

イギリス

デイヴィソン=ガーマーの実験

電子線の回折

※電子の波動性を実証

デイヴィソンとガーマーは、X線の回折現象と同様に電子線をNi単結晶に照射すると特有の回折模様(電子線回折)が得られた(デイヴィソン=ガーマーの実験)。同時期にJ.J.トムソンの息子であるG.P.トムソンは独立で、電子線を金属箔に通すことで電子線の回折模様(デバイ・シェラー環)を得て、同じく電子の波動性を実証した。

ド・ブロイの物質波の発表(1923年)以降、電子を"粒子"でなく"波"と考えて原子内電子の在り様を量子力学として構築してきたわけであるが、電子の波動性が理論構築上・計算上の単なるテクニックのために必要とされるわけではなく、実際に電子が波であることを裏付ける実験的証拠が得られたと言える。

余談であるが、陰極線の正体を質量を持つ電子だと解明したJ.J.トムソン(1897年)は、電子の粒子性の側面からノーベル賞(1906年)を受賞した一方、その息子のG.P.トムソンは電子線回折により電子の波動性を証明してノーベル賞(1937年)を受賞した。

※電子の波動性と粒子性を確かめる二重スリット実験は、しばらく思考実験であったが、複数電子では1961年(クラウス・イェンソン)に、単電子では1974年(ピエール・ジョルジョ・メルリ)により行われる。また1999年にはより大きな分子量を持つフラーレンを用いた二重スリット実験がアントン・ツァイリンガーにより実施されている。

1927

フリードリッヒ・フント

ドイツ

トンネル効果

 
1927

ヴァルター・ハイトラー

フリッツ・ロンドン

ドイツ

ドイツ

水素共有結合の量子論

(ハイトラー=ロンドンの理論)

両者は、水素分子の共有結合について量子力学的解釈に成功した。
1927

シジウィック

 

配位結合理論

 
1927

ウィレム・ケーソン

オランダ

液体ヘリウムII

 
1927

ニールス・ボーア

デンマーク

相補性原理

 
1927

ジョルジュ・ルメートル

ベルギー

原始的原子説

ビッグバン理論の雛形

ハッブル=ルメートルの法則

ハッブル定数

観測データによる宇宙膨張の発見

天文学者ルメートルは赤方偏移(1912年)を発見したヴェスト・スライファーと、距離測定の専門家でありアンドロメダが系外銀河であること確認(1924年)したエドウィン・ハッブルの観測データに基づいて宇宙膨張論を独自に提唱した。理論的にはフリードマンが一般相対性理論の解として既に宇宙膨張モデル(フリードマン宇宙)を提唱(1922年)しており、理論を観測

により裏付けたことになる。

ルメートルが使用した41個の遠方銀河の後退速度データはスライファーの1922年のものを使用し、距離の測定データは1926年にハッブルが出版した値を使用した。ルメートルが観測に基づき始めて世界で初めて計算したハッブル定数は、625km/s/Mpcと575km/sMpcの2通りの前提で提示された。これは現在の最良値である約70km/s/Mpcと比べると8~9倍大きいが、当時の限られたデータと距離の決定方法による。

ルメートルは、ハッブル=ルメートルの法則(宇宙膨張モデル)をもとに宇宙は原始的原子(Primeval Atom)(または宇宙の卵)と呼ぶ一点から爆発して膨張したというモデルを提唱した。余談であるが、ルメートルはキリスト教の司祭でもあったので、聖書の通り宇宙に始まりがあるとすることは、宗教上の考えとも一致していると考えたのかもしれない。

ただ原子核物理学が発展するのは1930年代に入ってからであり、ルメートルの考えが受け入れられるには尚早であった。後にこの仮説は、批判する人々によってビッグバン理論と呼ばれるようになる。

1927

ハーマン・マラー

アメリカ

X線照射による人為突然変異

マラーはX線をショウジョウバエに照射する実験を行い、人為的に突然変異を起こすことを発見した。ショウジョウバエを用いたのはマラーがモーガンの研究室にいたため。自然突然変異は確率が低いため、マラーの発見は遺伝学の研究に大きな貢献となった。

1928

ポール・ディラック

イギリス

ディラック方程式

(相対論的波動(電子)方程式)

①高速電子にも対応

②スピンの導入

⇒微細構造の記述

③負のエネルギー準位

⇒反粒子の予言へ

量子電磁力学のはしり

ディラックは、原子内の静止電子だけでなく高速で運動する電子における相対論効果を導入するべく、特殊相対性理論(1905年)をシュレディンガー方程式(1926年)に組み入れてディラック方程式(相対論的波動方程式)を発表した。

①高速運動の記述 ※特殊相対論効果の反映

②スピンの導入

光のスペクトル分析より存在が知られていたスピンは、シュレディンガー方程式にはなかった電子固有の物理量であるスピンの性質も自動的に内包された。これによりスピン-軌道相互作用に由来する分光スペクトルのエネルギー差(微細構造と呼ぶ)をも正しく記述できるようになる。

※後にディラック方程式でも表せないラムシフトという微細構造が指摘される(1947年)。

③負の電子エネルギー準位の存在 ※ 反粒子の存在

ディラック方程式から電子のエネルギーを求めると、その範囲は正の方向に無限大のみならず、負の方向にも無限大となった。

・正に無限大とは、正の静止電子Eを下限として運動Eに応じてEは正に無限大

・負に無限大とは、負の静止電子Eを上限として運動Eに応じてEは負に無限大

素直に解釈すれば、電子はより安定なマイナス無限大のエネルギー状態へ落ち込み、その過程で光を放出し続けると考えられる。しかしそれは実測結果とは相反する。この部分の解釈については、ディラックは空孔理論(1930年)として別途発表される。

【なぜ実測可能な電子は静止E(+m0c^2)が下限なのか】

ディラック方程式登場以前は、そもそも電子が取りうるそれより低いエネルギー準位が存在しないからだった。ディラック方程式により電子の負のエネルギー順位が示され、そこに実測可能な電子が落ち込まない理由は、既に負のエネルギー領域に電子が満たされ、排他原理(同じエネルギー状態をとれないフェルミ粒子の統計)に従うためだと解釈される。水面に浮かんだ木の葉のような存在が実測可能な正のエネルギーの世界で飛び交う電子のようだ。

超伝導で見られる電子クーパー対のようなボース粒子と化した環境では、負のエネルギー領域の電子と状態を重ねることはできるのだろうか。

1928

ポール・ディラック

イギリス

光の量子論

 
1928 ジョージ・ガモフ ロシア

アルファ崩壊の理論

トンネル効果

原子核がアルファ粒子を放出する理論を構築。原子核内のアルファ粒子(陽子2個+中性子2個)が、トンネル効果によりクーロン力の障壁(噴火山型のポテンシャル・エネルギー)から浸み出すため、原子核から放出されることを示した。これとは逆の反応として、トンネル効果により原子核がアルファ粒子を捕獲する(アルファ捕獲?)ことも示し、原子核同士が融合(核融合)する可能性を示した。

1928 W.ハイゼンベルグ ドイツ

強磁性体の理論

 
1928 フェリックス・ブロッホ スイス

金属電子の量子論

エネルギーバンド

 
1928 ゾンマーフェルト ドイツ

金属の自由電子論

 
1928

アーヴィング・ラングミュア

アメリカ

プラズマの命名

探針(プローブ)

放電管のガラス容器内に電圧をかけると美しい色を放ちながら不思議な運動をする気体の様子を見てプラズマと命名した。プラズマを計測する手段として探針(プローブ)を開発し、ラングミュア・プローブと呼ばれる。

1928

チャンドラセカール・ラマン

インド

ラマン効果

※可視光における光の粒子性

X線における粒子性を示すコンプトン効果と同様に、可視光での粒子性の観測を行った。単色光を物質に当て、反射光を調べると入射光とは異なる振動数が混じることを観測。可視光では分子状態の変化に応じた量子エネルギー授受が起きている。

1928

レオ・シラード

オーストリア=

ハンガリー

エントロピーの情報理論

 
1929 世界恐慌  

1929

W.ハイゼンベルグ

ヴォルフガング・パウリ

ドイツ

オーストリア=

ハンガリー

相対論的場の量子論

(量子電磁力学)

 

1929

アルベルト・アインシュタイン

ドイツ

統一場の理論

 

1929

オスカル・クライン

仁科芳雄

スウェーデン

日本

クライン=仁科の式

※コンプトン散乱の理論

 
1929

レオ・シラード

オーストリア=

ハンガリー

マクスウェルの悪魔の否定

分子の状態を知るためには仕事が必要だから、仕事することなしに分子を峻別できず、エントロピーを下げられない…と説明。情報価値とエントロピーと結び付けた。

1929

エドウィン・P.ハッブル

アメリカ

論文『系外銀河の速度と距離の関係』

ハッブルの法則

※2018年にハッブル=ルメートルの法則

に名称変更

ハッブル定数

宇宙膨張の確認

最大距離2Mpc(約752万光年)の範囲にある数十個の銀河の距離と、その赤方偏移をもとに計算される後退速度から、ルメートルに続き、距離と後退速度の比例関係(ハッブルの法則)があることを発表した。

※1Mpc(メガパーセクは概ね銀河間の距離に相当し、参考として天の川銀河とアンドロメダ銀河までの距離は約220万光年(=0.67Mpc)である。

ハッブルの法則の発見(もしくは確認)により、宇宙はあらゆる方向に一様に膨張していることが示された。論文で提示されたハッブル定数は530km/s/Mpcであり、2年前(1927年)にルメートルが提示したハッブル定数と大差はなかった。

※なお1931年にはハッブルとヒューメイソンが共同で観測する最大距離を30Mpcまで遠方に延ばして計算し、ハッブル=ルメートルの法則をより確実なものとした。

【静的宇宙像から動的宇宙像へ】

天動説が常識の古代から一般相対性理論を完成させたアインシュタイン(1910年代)に至るまで、世間の宇宙観は静的なものであった。アインシュタインでさえも宇宙は静的であると信じており、宇宙は重力によっていずれ一点に潰れてしまうのではないか、という問題意識があった。アインシュタインは信念に基づいて宇宙が静的に存在するよう、自身の重力場方程式に斥力を働かせる宇宙項を導入している。しかしハッブル=ルメートルの発見により宇宙は動的なものであることが観測的に実証され、アインシュタインは導入した宇宙項を放棄することにした。

※さらに1998年には宇宙の膨張が、加速膨張であることが発見される。

【恒星の距離を測る方法】

星の光の強さは、星自体の輝き(絶対光度)と、星との距離に依存する。見かけ上の星の明るさだけでは距離は測れない。星の距離を測るために、ハッブルはセファイド型変光星を目印にした。変光星(ファブリツィウス/1596年に発見)とは明るさが周期的に変化する星であり、特にセファイド型変光星では絶対光度と変光周期の間に相関がある。つまり変光周期が長いほど絶対光度が大きい。ハッブルは変光星の見かけの光度と推定される絶対光度から、その変光星を含む銀河の距離を算定した。そして各銀河の後退速度はスペクトルの赤方偏移として得られ、両者(距離と赤方偏移の程度)を比較した。

1929

スコベルチン

ソ連

宇宙線シャワー(空気シャワー)

 
1930

ポール・ディラック

イギリス

空孔理論 (ディラックの海)

⇒真空の描像
反粒子(陽電子)の予言

⇒電子対生成

ディラック方程式(1928年発表)では、電子のエネルギーは正領域のみらず、負領域も取りえた。実測データと相反するこの理論的結果の解釈のため、空孔理論を提唱。

ディラックはパウリの排他原理(1925年/パウリ)に従い、真空中には負のエネルギー状態の電子で埋め尽くされていると考えた。

【真空から電子を叩き出す】

真空に充満するとされる負の電子を我々は感じられない(観測できない)。真空中に正のエネルギーを注入することで、我々が観測できる正のエネルギー準位の世界に負の電子を引っ張り上げることは可能。具体的にはガンマ線など強いエネルギーを真空中に放つと(観測不能な)"負エネルギーの電子"が、観測可能な"正エネルギーの電子"として現れ、同時に抜けた穴(空孔)は"正のエネルギーの反電子"として振る舞うと予言した(電子対生成と呼ぶ)。必要なガンマ線のエネルギー下限は、正と負の静止エネルギー・ギャップに相当する2m0c^2で約1000keV。負エネルギー領域から引っ張り上げて普通の電子として観測されると同時に、負エネルギー領域には抜けた空席が生じる。電荷保存則のため、生じる電子の空孔はプラスの電荷を持つ電子(⇒陽電子もしくは反電子)となる。

※反電子はカール・アンダーソンにより1932年に宇宙線観測の中で発見される。

※反陽子はセグレとチェンバレンにより1955年に加速器ヘバトロンの中で発見される。

1930

クライド・トンボー

アメリカ 冥王星

パーシヴァル・ローエルが摂動論により予言した冥王星をクライド・トンボーが発見した。冥王星の記号♇ は、予言者パーシヴァル・ローエルの頭文字の組み合わせものである。

※冥王星は2006年に準惑星に降格。

1930

S.チャンドラセカール

パキスタン

チャンドラセカール限界質量

※白色矮星の質量上限値

星は終末期に入った時、一定の条件が揃うと白色矮星(青白い光を放つ地球程度の小さい星)になるが、その質量には上限値(チャンドラセカール限界質量)があることを発見。

※S.チャンドラセカールの叔父は、ラマン効果(1928年)を発見したチャンドラセカール・ラマンである。

1930

ヴァルター・ボーテ

ハーバート・ベッカー

ドイツ

ドイツ

ベリリウム線

※極めて透過力の大きい放射線

※後に中性子線だと判明

※中性子線源(α線源+Be)

α線をBe(ベリリウム)に当てると、極めて透過力の高い放射線が叩き出されることを発見し、ベリリウム線と名付けた。両者はその透過力の大きさからγ線(ガンマ線)ではないか…と推測した。

※後にベリリウム線は中性子線であることが明らかとなるが、しばらく中性子線を得る線源として、ラジウムとベリリウムの混ぜ物が利用される。つまり、α線源のラジウムから発生するα線がベリリウムに衝突して中性子(ここではベリリウム線)を放出する。

【ジョリオ・キュリー夫妻による確認実験:中性子の発見を逃す】

ベリリウム線の発見に注目したジョリオ・キュリー夫妻(夫のフレデリック・ジョリオ・キュリーと妻のイレーヌ・ジョリオ・キュリー)は、ベリリウム線をパラフィンなどの水素を含む物質に照射し、そこから沢山の陽子が勢いよく飛び出すことを確認した。ボーテとベッカーの推測に基づく先入観に引きずられてか、夫妻もガンマ線によって陽子が弾き出されているのだろう…と解釈した。

1930

アーネスト・ローレンス

リビングストン

アメリカ

サイクロトロン

静磁場と交流電場による加速器

※加速器の大型化の始まり

ローレンスはドイツのウィドレーの論文をヒントにし、静磁場と交流電場(高周波電場)を用いて荷電粒子を螺旋状に加速させる加速器(サイクロトロン)を開発。電磁石による静磁場はフレミングの左手の法則に従い、荷電粒子の軌道を曲げて円運動にし、その進行方向に合わせて常に加速できるように高周波電場を掛ける。サイクロトロンでは、加速される荷電粒子の円軌道は(静磁場が一定のため)次第に大きくなり螺旋を描くため、限られた空間で繰り返し加速でき、(同程度の大きさの)直線加速器に比べて大きなエネルギーを付加できる。

1931

ヴォルフガング・パウリ

オーストリア

=ハンガリー

ニュートリノ仮説

※ベータ崩壊の説明

ベータ崩壊の前後で保存則が成立していないのでは…という問題があった。パウリはベータ崩壊におけるエネルギー保存則と角運動量保存則が成立するように中性の粒子(ニュートリノ,中性微子)の存在を仮定した。

1931

エドウィン・P.ハッブル

ミルトン・ラセル・ヒューメイソン

アメリカ

アメリカ

ハッブル=ルメートルの法則の検証

※最大距離を30Mpcまで延長

ハッブルとヒューメイソンは、観測対象とする銀河の距離を2Mpcから30Mpcまで拡大し、1929年のハッブルの論文発表時よりもサンプル(銀河数)を41個増やした。

その結果、ハッブル=ルメートルの法則が確実に成立することを確認できた。

1931

マックス・クノール

エルンスト・ルスカ

ドイツ

ドイツ

透過型電子顕微鏡 (TEM)

ベルリン工科大学のクノールとルスカは最初の電子顕微鏡(透過型電子顕微鏡)を開発した。光学顕微鏡ではウイルスの観察はできなかったが、電子顕微鏡では電子線の持つ運動エネルギーに対応する波長が可視光線より短くでき、光学顕微鏡の1000倍以上の微細な対象を観察できるようになった。

※基本的に、顕微鏡の分解能は用いる光源(電子顕微鏡の場合は電子線)の波長と同程度となる。池に石を投げたら石と同程度の大きさの波長の波紋が広がり、その波紋に干渉する(新たに波紋が発生する)のは同程度の大きさの構造物に対してである。波長が大きく異なる場合には、単にその構造物を透過するだけで干渉しない。

1931

ハロルド・A.ウィルソン

イギリス

半導体理論

半導体の始まり

 
1931

カール・ジャンスキー

アメリカ

宇宙電波 電波雑音を調べていたベル研究所のジャンスキーは宇宙から正確な周期でやってくる電波を検出。その発生源は銀河系の中心部にある射手座であった。
1931

ラルス・オンサーガー

アメリカ

不可逆過程における相反定理  
1932

ジェームズ・チャドウィック

イギリス

中性子

※ベリリウム線の正体を解明

ラザフォードとチャドウィックは、ジョリオ・キュリー夫妻によるベリリウム線のパラフィンへの照射実験の報告(1932年)を聞き、ベリリウム線をガンマ線だとする解釈に違和感を抱いた。確かに光電効果のように光が電子のような軽い物質を弾き飛ばす現象は知られているものの、陽子のような質量の大きい物体(電子の2000倍)を光が弾き飛ばせるのだろうか…と。1920年には既に中性の粒子の存在を予想していたラザフォードには、高い透過力と陽子を弾き飛ばす質量を兼ね備えたベリリウム線にピンとくるものがあったと思われる。

チャドウィックは、ベリリウム線(α線をベリリウムに照射して得る)を様々な物質に照射し、そこから叩き出されてくる陽子以外の原子核の反跳も測定した結果、それは陽子とほぼ等しい質量を持つ電気的に中性な粒子(中性子)であることを突き止めた。

※以上より、原子核の構成要素である陽子と中性子が明らかになり、原子核の中身について語れる材料が出揃った。

1932

カール・アンダーソン

アメリカ

陽電子(反電子)

電子対生成

磁場をかけた霧箱(1911年)で宇宙線を観測する中、正負一対で出現する荷電粒子の存在に気が付いた。当初は正電荷と言えば陽子であったが、この正電荷は電子と同じ質量を持つため陽電子(ポジトロン)と名付けた。これはディラックがディラック方程式の解として予言した反電子(反粒子)の発見である。

なお真空中に突如として出現する電子と陽電子の電子対(電子対生成と呼ぶ)は、宇宙線(γ線)を元手に、そのエネルギー(E=mc^2で計算される電子質量2個分の約1024keV)と運動量を保存する形式で起きている。

1932

ハロルド・ユーリー

アメリカ

重水素

水素のスペクトル線の位置が僅かにズレることから、水素の同位体(重水素)を発見。

1932

ドミトリー・イワネンコ

ソ連

原子核の構造理論

チャドウィックによる中性子の発見を受けて、原子核の中には陽子と中性子のみが含まれ、そこに電子は存在しないとする説を提唱。

1932

ヴェルナー・ハイゼンベルグ

ドイツ

書物『原子核構造論』

原子核の構造理論

ドミトリー・イワネンコの説を支持する形で、ハイゼンベルグは原子核が陽子と中性子から構成されると考えると矛盾なく説明できると発表した。原子核内の陽子と中性子を安定的に結び付けている力は何か?といった課題も浮き彫りとなる。

※この課題意識は、後に湯川秀樹による中間子論の発表につながる。

1932

C.チャンドラセカール

パキスタン

ブラックホールの発生プロセス

星は終末期において、チャンドラセカール限界質量を超えると重力崩壊を起こし、白色矮星ではなくブラックホールとなる可能性を示唆。

※光さえ脱出できないブラックホールの概念は一般相対性理論が公開された1915年と同年にカール・シュバルツシルトによって理論的に導出されたが、チャンドラセカールは具体的な発生プロセスの説明を与えたと言える。

1932

ジョン・コッククロフト

アーネスト・ウォルトン

イギリス

アイルランド

コッククロフト・ウォルトン型加速器

高電圧加速装置で人工的な原子核変換

人工的な原子核反応を引き起こせるほどの高エネルギーの荷電粒子を得る加速器を初めて製作。この加速器では、交流を直流高圧に変換する電圧増幅回路(コッククロフト・ウォルトン回路)により0.5MeV程度の高電圧を作り、陽子加速試験でLi(原子番号3)からHe(原子番号2)の製造に成功した。Raなどの天然の放射線源に頼らない世界初の人工原子核反応である。なお加速させる陽子は、水素ガスを高圧放電で電離させて得る。

※静電場を利用した直線加速器(コッククロフト・ウォルトン型加速器、バンデグラーフ型加速器)で高エネルギー荷電粒子を得るには絶縁耐性の観点で限界があった。

1932

フォン・ノイマン

オーストリア=

ハンガリー

書物『量子力学の数学的基礎』

シュレーディンガー方程式は波の収縮を説明できない

物質波が時間の経過に伴いどのように広がるかを記述するシュレーディンガー方程式を検討した。その結果、この方程式からは波が収縮する現象を数学的には導けないことを証明した。しかし、我々は波の収縮により粒子としての電子を発見するため、ノイマンは「波の収縮は人間の意識の中で起こる」と結論付けた。この結論は現在ではほぼ否定されている。
1932

ライナス・ポーリング

アメリカ ポーリングの電気陰性度  
1932

ライナス・ポーリング

アメリカ

炭素原子の電子構造

混成軌道の概念

 
1933

ヴァルター・マイスナー

ローベルト・オクセンフェルト

ドイツ

ドイツ

超伝導体の完全反磁性  
1933

エンリコ・フェルミ

イタリア

ベータ崩壊の理論

 
1933

レオ・シラード

オーストリア=

ハンガリー

中性子による核連鎖反応の構想

 
1933

フリッツ・ツビッキー

ウィルター・バーデ

スイス

ドイツ

中性子星モデル

 
1933

ゾンマーフェルト

ベーテ

 

書物『固体電理論』

 
1933 1933年1月、ヒトラー政権の成立

ヒトラー政権の誕生。

【アインシュタインのアメリカ亡命】

アインシュタインは当年にアメリカに亡命し、1955年に亡くなるまで再びドイツの地を踏むことはなかった。

1934

J.F.ジョリオ・キュリー

イレーヌ・ジョリオ・キュリー

※ジョリオ・キュリー夫妻

フランス

フランス

α線による軽元素の核変換

※人工的な放射性元素の生成

ジョリオ・キュリー夫妻はPo(ポロニウム)由来のα線を放射能のない軽元素(BやAl)に照射させて、人工的に放射性元素(自然界には存在しないリン(P)の放射性同位元素)が得られることを発見した。

放射能のないアルミニウム(Al)にα線を当てると、α粒子が取り込まれリン(P)と中性子と陽電子(1932年にカール・アンダーソンにより宇宙線の中で発見)が生まれる。ここで新たに発生したPが自然界にない放射性同位体元素(安定同位体より中性子が1個少ない)であり、放射能を帯びる。

1934 エンリコ・フェルミ イタリア

中性子線による重元素の核変換

※超ウラン元素生成の可能性

低速中性子(熱中性子)の生成

ジョリオ・キュリー夫妻のα線による人工放射能の実験を知り、中性子線を使ってみようと考えた。α線の場合、正電荷のために原子核から電気的反発が大きく、核変換を誘発できるのは比較的軽い元素に限定されていた。一方、中性子線を使えば、重元素の原子核に対しても電気的反発なく核変換を誘発できると考えた。

フェルミは中性子線源(ラジウムとベリリウムの混ぜ物)から放射される中性子線(ベリリウム線)を60種余りの元素に照射して、約40種の放射性元素を生成した。期待通り、中性子線の方が核反応効率が高まることが確認できた。ジョリオ・キュリー夫妻の実験報告から2ヵ月後のこと。

さらに半年後の1934年10月、中性子線源と標的元素との間にパラフィンや水を挟む方が、核反応の効率が上がり、得られる放射性元素の放射能が強まることを発見する。また水素を含まない物質を挟んでも、核反応の効率は上がらなかった。フェルミは次のように解釈した。水やパラフィンなど水素を多く含む物質を通過した中性子は、水素との繰り返す衝突によって徐々にその運動エネルギーを失い、低速の中性子線となる。この低速中性子の方が核反応を誘発しやすいと考えた。低速中性子の運動エネルギーは物質の熱振動と同程度となるため、熱中性子とも呼ばれる。

1934 エンリコ・フェルミ イタリア ベータ崩壊の理論  
1934 パーヴェル・チェレンコフ ロシア

チェレンコフ光

光は真空中で最速であるが、水中など媒質中では屈折率に応じて減速する。水中では光速度は約25%減速するため、光速度を上回るスピードの荷電粒子も現れ、そうした荷電粒子からはチェレンコフ光が放射される。

1934

フリッツ・ゼルニケ オランダ 位相差顕微鏡  

1934

フリッツ・ハーバー ドイツ ハーバー、没す

ハーバーは晩年、アメリカへの移住を希望したものの、科学者の移住枠は既に埋まったという理由で許諾されなかった。ハーバーはスイスのバーゼルで失意のうちに65歳でこの世を去った。

ハーバーの生涯は毀誉褒貶の激しいものだった。空中窒素固定法(ハーバー=ボッシュ法)により大量の爆薬が作られ人を殺した一方で、土地がやせ作物の収穫が減少するという何千年来の難題を解決し、無数の人々の食糧を確保した。またハーバーはマスタードガスなどの化学兵器の開発を行い、ドイツの軍事戦力に多大な貢献をしている。戦争の早期終結のためと主張したが、多くの人々から戦争犯罪人と見なされた。

1935 湯川秀樹 日本

中間子論

※第三の力、核力の理論

中間子を予言

※仮想粒子の概念

1932年に発見された中性子(チャドウィック)は、陽子に加えて原子核の構成要素と見なされ始めた。当時知られていた自然界の基本的な力は、重力と電磁気力の2種である。原子核という狭い領域(10^-15mほど)に押し込めている陽子や中性子にも上記2種の力が働いている。しかし、電気力による斥力に対して重力の引力はあまりにも弱く、既存の力以外の原子核として安定に束ねる新たな力を必要とした。

湯川は原子核内の核子間で働く第三の力として核力を提唱(中間子論)。中間子という核子(陽子と中性子)同士の結合を生み出す仲立ち粒子を想定した。湯川は、その力が及ぶ範囲(2×10^-13m程度)と媒介粒子と想定した中間子の質量(不確定性原理などの条件から電子の200倍程度)の関係は、反比例することに気づいた。

湯川が予言した中間子(メソン)は、セシル・フランク・パウエルにより1948年に発見される。

※結合(引力)というのは、粒子間の粒子の授受によって引き起こされると考える。

【遠距離力と近距離力】

【不確定性原理が測定技術上の問題から、自然現象の本質的な性質に】

不確定性原理が提唱された時(1927年)、それは我々の観測技術の拙さから生じうる性質というきらいがあった。しかし湯川の中間子論では不確定性原理が自然界の本質的な性質として導入されたようだ。核子間を飛び交う中間子は結合力を生み出すが、その結合エネルギーに相当する中間子の質量(m=E/c^2)は比較的大きく、

1935 ヴァイツゼッカー ドイツ

ベーテ=ヴァイツゼッカーの公式

原子核の油滴模型をベースに核の結合エネルギーを算出する式。

1935

アルベルト・アインシュタイン

ボリス・ポドルスキー

ネイサン・ローゼン

ドイツ

ロシア

アメリカ

EPRパラドックス

(アインシュタイン=ポドルスキー=ロ-ゼンのパラドックス)

量子論ではスピン保存則を維持するために、光速度以上に情報が遠方に瞬時に伝わることが起こりうることを思考実験から予測し、それは相対性理論における宇宙の制限速度である光速度以上のものはないという前提と矛盾することを指摘。

アインシュタインの研究室のポドルスキーとローゼンの3名で発表したことで、EPRパラドックスと呼ばれる。

※EPRパラドックスはアスペにより1982年に実験的に検証し、ベルの不等式(ベル/1965年)が成立しないことを示し、光速度を越えて情報が伝わる現象があることを意味し、量子論に軍配が上がった。

1935

アルベルト・アインシュタイン

ネイサン・ローゼン

ドイツ

ドイツ

ワームホール(アインシュタイン=ローゼンの橋)

重力場方程式からワームホールを表す時空解をアインシュタインとローゼンが発見。

【ワームホールの名前について】

ワームホールという名前は1957年にバラードが命名した。

1935

ウォーレス・カロザース

アメリカ

世界初の合成繊維ナイロン

 
1936 ジョン・メイナード・ケインズ イギリス 錬金術師ニュートン

イギリス貴族のポーツマス伯爵リミントン卿が、ロンドンで開かれたサザビーズの競売に家宝として代々受け継がれてきた秘蔵の品、ニュートンの手稿を出した。リミントン卿は相続や離婚に伴う費用の捻出に苦労していたようである。経済学者ケインズはニュートンの貴重な資料が散逸するのを心配し、その約半分を落札した。落札した手稿は、65万字にも及ぶ錬金術ノートであった。ニュートンは、トリテニティ・カレッジの礼拝堂近くの庭の端にある木造二階建ての建物を錬金術の実験室として使用していたという。ケインズはこうした有様を「片足を中世に置き、片足は近代科学への途を踏んでいる」と表現した。

1936

カール・アンダーソン

セス・ネッダーマイヤー

イギリス

イギリス

宇宙線ミュー粒子(ミューオン) 宇宙線の霧箱による観測でミュー粒子を発見。その軌跡から、電子と同じ電荷であるが、電子より重たい新粒子と推定された。その質量から当初、湯川の中間子と思われたが核力を媒介せず、中間子とは異なる粒子(レプトン)の一種として分類されることになる。
1937

ハンス・ベーテ

ヴァイツゼッカー

ドイツ

ドイツ

恒星(太陽)のエネルギー源

核反応サイクル

p-p chain反応

ベーテは様々な核融合反応が起きる確率(反応断面積と呼ぶ)を検討し、太陽が水素の原子核同士の核融合反応によって莫大なエネルギーを放出することを示した。ヴァイツェッカーも独立して発表。

星の内部の超高温、高密度の環境では炭素を触媒にして、陽子(水素イオン)同士が融合して重水素(ユーリー/1932年)が形成され、重水素同士の融合によってヘリウムが生じる。軽い原子核が融合し質量の大きいより安定した原子核が作られることで、その反応前後の質量差がE=mc^2として開放され、星は輝いている。

1937

スリッツ・ツビッキー

スイス

銀河の見えない質量(重力源)

※暗黒物質の存在の示唆

ツビッキーは、かみのけ座銀河団からくる光の強度を観測し、その質量を推定した。ところが、その値が銀河団内での銀河の動き(存在する質量の重力で決まる)から計算される質量に比べてはるかに小さかった。そこから光を出さない観測されない物質が分布する可能性が示唆された。
1937

エミリオ・セグレ

C.ペリエ

イタリア

イタリア

最初の人工元素(テクネチウム(Tc))

原子番号43のテクネチウム(Tc)には安定した核種が存在せず、天然鉱物から見つけることは困難であった(但し、ウラン鉱石中のウラン核分裂由来のモリブデン(Mo)の壊変で生じるTcは1968年に発見される)。

セグレとペリエは、カリフォルニア大学のサイクロトロンでMoに重陽子(陽子1個と中性子1個からなる重水素の原子核)を照射し、周期表上のMnとReに似た新しい元素を得た。1947年にこの元素は人工的に作られた最初の元素として、ギリシャ語の"人工の"を意味するテクネチウムと命名された。

1937

マンフレート・アルデンヌ

ドイツ

走査型電子顕微鏡 (SEM)

 

1937

ピョートル・カピッツァ

ロシア

液体ヘリウムIIの超流動

Heの同位体のうち主要なHe4は、絶対零度でも常圧下では固体化せず、液体として存在する。カピッツアは、He4を約2.2Kまで下げると粘性が完全に失われる超流動現象を発見し、容器の壁を自然によじ登って外に流れ出したり、原子1個分の小さな穴さえも通るようになる。なおヘリウムの主成分であるHe4は、同位体のHe3の100万倍多く含まれる。

※極低温では物質の量子効果が巨視スケールで現れるため、量子的挙動が大きく異なるHeの同位体(He4とHe3)を区別して考える必要がある。He3の超流動現象の発見は1972年である。

1937

ホイットル

イギリス

ジェットエンジン

ホイットルが主任技師を務めるパワージェット社が世界初のジェットエンジンの開発に成功。

1937

アーネスト・ラザフォード

ニュージーランド

書物『新しい錬金術』

※前年の講演内容の書籍化

1936年、ラザフォードはケンブリッジのニューハム・カレッジで「ヘンリー・シジウィック記念講演」を行った。翌年、その講演録が書物『新しい錬金術』としてケンブリッジ大学出版から刊行された。その中でラザフォードは次のように語っている。

「現代の科学に目を向けると、極めて微量ではあるが、金を作り出すことは夢ではなくなっている。但し、金よりも高価な元素、白金を変換するわけであるから、採算は全く合わないが」

ここでラザフォードが述べている錬金術は、白金(原子番号:78)を金(原子番号:79)にする方法であって、白金に陽子を一つ打ち込むことを意味する。1930年代に入ると、水素ガスを高圧放電によって電離させ、陽子を作り出し加速させる装置が開発されていたため、既存のラジウム由来のα線よりも正電荷が低く、運動エネルギーも調整できるという技術面での進歩が錬金術を可能にさせたと言える。但し、全く採算が合わないのはラザフォードが述べる通りである。

※長岡半太郎がかつて失敗した水銀還金実験(1924年)は、ラザフォードの錬金術とは逆に原子核を壊す(原子番号を減らす)方法での錬金術であった。

1937

アーネスト・ラザフォード

ニュージーランド

ラザフォード、逝去

 

1938

ナチスドイツ、オーストリアを併合

 
1938

オットー・ハーン

フリッツ・シュトラスマン

ドイツ

ドイツ

ウランの核分裂の発見

※原子番号の大幅な変化を伴う核変換

二次中性子と連鎖反応の示唆

1934年のフェルミの中性子照射による核反応実験以降、中性子を用いた様々な実験が行われてきたが、標的元素の原子番号の変化が2を超えるような反応は一例も見られなかった。

ところが1938年冬、ハーンとシュトラスマンはウラン(Z=92)に中性子を照射する実験で、一部のウランが中性子を吸収して莫大なエネルギーと2つの放射性同位体元素(バリウム(Z=56)とクリプトン(Z=36))に分かれることを発見した。ウランの核は中性子によってほぼ半分に割れてしまったことになる。なお本実験の発表は、年明けの1939年1月6日である。

ハーンとシュトラスマンの実験結果に理論的な解釈を与えるのは、共同研究者であったマイトナーとフリッシュである。但し、ユダヤ系のオーストリア人であったマイトナーはこの頃、ナチスドイツによるオーストリア併合に伴いナチスの直接的な影響下となったことを受けて、スウェーデンへ亡命する。

1938

リーゼ・マイトナー

オットー・ロベルト・フリッシュ

オーストリア

オーストリア

ウランの核分裂の理論的解釈

ハーンとシュトラスマンの実験結果に、マイトナーとフリッシュは原子核の油滴モデルを用いてその理論的な説明を与えた。ウランの原子核では、その狭い領域に92個の陽子を封じ込こめるために強い電気的反発力が生じている不安定な状態である。中性子の衝突を受けると、液滴の揺れが増大し、その表面張力を振り切って二つの小滴に分裂すると説明した。

※原子核の液滴モデルとは、陽子と中性子の集団である核を分子の集団である液体の滴に見立て、核の構造や性質を記述するモデルである。

【核力について】

陽子同士の電気的反発力を封じ込め、陽子と中性子といったハドロンを結び付ける力は核力であり、1935年に湯川秀樹の中間子論によって提唱されていた。なお中間子論で予言された中間子は、1947年にセシル・F.パウエルによって発見される。

【マイトナーのスウェーデン亡命】

 

1938 ビゼット フランス 反強磁性  
1938

ハインケル社

ドイツ

ジェットエンジン搭載飛行機の実用化

ハインケル社が独自に開発したジェットエンジンを搭載したHe178の試験飛行に成功。

1939

第二次世界大戦、勃発(~1945年)

1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻により第二次世界大戦が始まる。この時、アインシュタインは滞米生活6年目を迎えていた。

【フェルミのアメリカ亡命】

ムッソリーニが支配するイタリアでもユダヤ人弾圧が強まっていた。エンリコ・フェルミは妻がユダヤ人であったため、1938年のノーベル物理学賞(中性子照射による放射性元素の生成)の受賞式出席に乗じてアメリカ亡命を決行。ストックホルムを経由して1939年1月2日にアメリカに渡った。

1939

アルベルト・アインシュタイン

レオ・シラード

ユージン・ポール・ウィグナー

ドイツ

ハンガリー

ハンガリー

ルーズベルト大統領への書簡

⇒原爆開発の危険性の訴え

滞米生活6年目を迎えていたアインシュタインは、一般相対性理論を拡張し、重力と電磁気力を統一した理論の構築を目指していた。

そんな中、1939年7月、来訪してきたシラードとウィグナー(両者はハンガリーよりアメリカに亡命)からドイツが原子爆弾の開発に乗り出す危険性があることの強い訴えを聞いた。この背景として1938年末のウランの核分裂反応の発見がある。

シラードと話すまで、ウランの二次中性子放出による核分裂連鎖反応の可能性を考えていなかったアインシュタインであったが、すぐに事の重大さを理解した。1939年8月2日、彼らの訴えに端を発し、影響力のあるアインシュタインを差出人として、ルーズベルト大統領にアメリカも早急に然るべき行動に移るべきである亡命科学者の訴えを書簡として送った。※実際に大統領に届くには、大戦勃発後の1939年10月11日。

【良質のウラン鉱石の産出地について】

書簡の中では、ウラン資源の所在についても記載されている。

「アメリカには質の悪いウラン鉱石が僅かに産出されるだけなので、良質のウラン鉱石はカナダと旧チェコスロバキアにいくらかあり、もっとも重要なその供給源はベルギー領コンゴになると書かれている。そして、ドイツは接収したチェコスロバキアから採掘されるウランの輸出を停止したようなので注意が必要である。」

【アインシュタインの後悔】

大戦後、当時のドイツには原子爆弾を開発できる可能性がなかったことを知ると、この書簡に署名したことをいたく悔やんだとされる。ルーズベルト大統領が核兵器開発のゴーサインを出すのは1941年10月である。アインシュタイン自身は、マンハッタン計画というコードネームで進められる核兵器開発には関与していない。

1939 イシドール・イザーク・ラビ アメリカ

磁気共鳴法

NMR信号の検出

 
1939

ロバート・オッペンハイマー

ハートランド・シュナイダー

アメリカ

アメリカ

ブラックホールの理論的発生プロセス

※ブラックホールの概念の確立

両氏は、星が死んで重力崩壊していく時の様子を一般相対性理論を用いて調べた。そして星は、自身の重力によって無限小に縮小すると指摘した。ここに至って初めて今日のブラックホールの概念が誕生した。なおこの時はブラックホールではなく、重力崩壊星(collapsing star)と呼ばれていた。

※ブラックホールと呼ばれるのは、1967年12月にジョン・ホイーラーが講義で使ったのが最初とされる。

1940

リチャード・P.ファインマン

アメリカ

経路積分

 
1940

エドウィン・マクミラン

フィリップ・アベルソン

アメリカ

アメリカ

原子番号93ネプツニウム(Np)の生成

超ウラン元素の生成

天然に存在する元素の中で最も重いのは原子番号92のウラン(U)であるが、カリフォルニア大学バークレー校のマクミランとアベルソンは、核反応の生成物の中に原子番号93の新元素(ネプツニウム)を発見した。初の超ウラン元素となった。

核分裂を起こさないウラン238の核は、照射された中性子を吸収すると、質量数239のウラン同位体となる。これがベータ線を放射するとネプツニウムに変換される。

1940

ジョージ・ガモフ

アメリカ

書物『不思議の国のトムキンス

※相対論の啓蒙書

核物理学者ガモフによる相対論に関する啓蒙書である。相対論効果を想像しにくくさせる理由は光速度に近づかなないと効果がはっきりしないからだ。ガモフは光速度が自転車の移動速度ほどに遅くなった(物理定数をいじった)仮想世界を用意し、主人公トムキンスの体験を通じて、日常生活の何気ない行動の中で相対論効果がどのように現れるかを説明している。

但し、エネルギーの側面から考えると光速度(m/s)の物理定数が1億分の1程度まで低下した世界では、E=mc^2で得られるエネルギーが極めて小さいため、太陽も輝かないし、生命誕生も難しい。

1941 大東亜戦争(太平洋戦争)、勃発(~1945年)  
1941

ルーズベルト大統領

アメリカ

マンハッタン計画、始動

※原子爆弾の開発計画

1941年10月、ルーズベルト大統領の指示でマンハッタン計画と呼ばれる核兵器開発の計画が進められる。

1941

エンリコ・フェルミ

イタリア

原子炉の構想

1938年に発見されたウランの核分裂連鎖反応を利用して、核エネルギーを取り出す原子炉の基礎理論を構築。連鎖反応の実現のためには核分裂の確率を高める必要があるが、ウラン235の含有比率を高めた濃縮ウランを作る方法(同位体分離方式)と、速度を落とした熱中性子との衝突を効率的に進行させる減速材を用いた方法とが考えられる。

1941

ドナルド・カースト

アメリカ

ベータトロン

 
1941

レフ・ランダウ

ソ連

液体ヘリウムの超流動の理論

※量子流体の理論

ボース粒子である液体ヘリウム4の超流動現象の理論を構築。
1941

エドレン

スウェーデン

太陽コロナの温度測定

コロナ特有の緑色のスペクトル線が鉄原子を数十回電離した鉄イオン由来であることを発見。鉄原子がこれだけの電子を剥ぎ取られた状態となるには100万K以上の温度が必要。

1942

エンリコ・フェルミ

シカゴ大学

イタリア

アメリカ

原子炉(シカゴ・パイル1号)稼働

※人類最初の原子の火

核分裂連鎖反応の持続(臨界)

1942年10月にマンハッタン計画(原子爆弾開発)が始まり、シカゴ大学では最初の原子炉(シカゴ・パイル1号,CP-1)が組み立てられた。12月2日の午後2時20分、原子炉は臨界に達した。臨界が報告された時、アーサー・コンプトンはハーバード大学学長のコナントに暗号電話をかけ、「大ニュースだ。イタリアの航海者がたった今、新大陸に上陸したよ」と伝えた。

核分裂で発生した高速中性子を熱中性子にする減速材には、水が適していた。しかし一方で、熱中性子が陽子(水素イオン)と結合して重水素が作られる反応も同時に進行することが分かり、これが臨界(核分裂連鎖反応の持続)のため必要な中性子の数を無駄に食いつぶす原因となる。そこでフェルミは別の軽い元素を探し、黒鉛(グラファイト)を用いた。減速材(黒鉛)とウラン原料を一様に混ぜることはせず、減速材のブロックの上にウランの塊を積み上げた構造(パイルと呼ばれる)にした。また核分裂連鎖反応の制御には、中性子をよく吸収する性質を持つカドミウム(Cd)の制御棒の抜き差しで行われた。

※CP-1は原子爆弾燃料のプルトニウム239生成用原子炉を設計するための実験炉として作られた。

【臨界のための濃縮ウランと減速材】

エンリコ・フェルミはイタリア時代(アメリカ亡命前)から中性子線照射による人工放射性元素の生成実験や熱中性子の利用など(1934年)、中性子の取り扱いに習熟していた。原子炉の臨界を目指す上で、フェルミは減速材により得られる熱中性子を天然ウラン(含有比率99.275%の核分裂しないウラン238を含む)に照射する方法を選んだ。別の有力な手法として同位体分離による濃縮ウラン製造もあるが、こちらは相当の手間とコストが掛かるため、この時点では減速材の工夫によって臨界を達成した。

1942   ドイツ

ロケットエンジン搭載の弾道ミサイル

液体燃料ロケットエンジンを搭載した世界初の弾道ミサイルV2号が完成し、初飛行も成功。

1942        
1943

朝永振一郎

日本

超多時間理論

不確定性原理により、真空において極めて短い時間で粒子と反粒子の生成・消滅は至る場所で起きている。特殊相対性理論によれば異なる地点では座標系の取り方によって時間(同時性)が異なる。そこで各地点ごとに固有の時間を設定し、特殊相対論の要請を満たす電磁場の量子論を構築した。
1944

ファン・デ・フルスト

オランダ

水素原子の21㎝電波を予言

陽子と電子の磁気作用により、水素原子から21cmの波長の電波が放射されることを理論的に示した。

1945

マンハッタン計画

アメリカ

トリニティ実験(人類最初の核実験)

原子爆弾

核分裂を起こすU235の濃縮とPuの製造に成功したアメリカは、7月16日にニューメキシコ州アラマゴルドで原子爆弾の実験(トリニティ実験)を実施した。

1945

原子爆弾、投下

 
1945

エドウィン・マクミラン

ウラジミール・ベクスラー

アメリカ

ロシア

シンクロトロン

 
1945

ザボイスキー

ロシア

電子スピン共鳴法

 
1945

グレン・シーボーグ

アメリカ

拡張型元素周期表

ヴェルナーの長周期型周期表(1905年)を発展させ、新たに発見されたランタノイドアクチノイドを別枠に設けて配置した拡張型元素周期表を作成した。現在、我々が日常的に目にする元素周期表はシーボーグの周期表である。

1946

フェリックス・ブロッホ

エドワード・パーセル

スイス

アメリカ

核磁気共鳴法(NMR)

 
1946

ジョージ・ガモフ

ロシア

ビッグバン理論(火の玉宇宙論)

 
1946

アメリカ陸軍

ペンシルベニア大学

アメリカ

電子計算機ENIAC(エニアック)の開発

※世界初の汎用コンピュータ

アメリカ陸軍の委託によりペンシルベニア大学で開発された初の実用的な汎用電子コンピュータ。開発目的は大砲の弾道計算。約1.8万本の真空管を用いた総重量約30tの巨大設備であり、約160㎡の部屋に収められた。

1947

ウィリス・ユージーン・ラム

ロバート・レザフォード

アメリカ

アメリカ

ラム=ラザフォードの実験

ラムシフトの発見

水素原子のマイクロ波スペクトル分析(ラム=ラザフォードの実験)により、スピンを考慮したディラック方程式でも説明できない僅かなスペクトルのズレ(微細構造)を観測した(ラムシフトと呼ぶ)。

1947

ウィリス・ユージーン・ラム

ポリカプ・クッシュ

アメリカ

アメリカ

ラムシフトの精密測定

ラムとクッシュは、超短波による核磁気共鳴実験よりラムシフトの精密測定を実施。

 

ラムシフトの原因を核と電子の相互作用ではなく、電子が自分自身(原子内の別の電子ではない)が周囲に作り出す電磁場からも影響を受け、スペクトルの微細構造を生み出していることを示した。

1947 朝永振一郎 日本

くりこみ理論

ラムシフトの理論的導出

※量子電磁気学の確立

仮想粒子のために計算上、無限大に発散してしまう電子の質量と電荷に対して、暫定的に有限の観測値に置き換え(これを"くりこみ"と呼ぶ)、超多時間理論(1943年)を適用すると、全ての物理量が有限に収まることが示された。

くりこみ理論と超多時間理論によって、ディラック方程式からのズレが指摘されていた電子自身の電磁場の影響による微細構造であったラムシフトの測定結果と、高い精度で合致した。

※同時期に、朝永と同様の成果をシュウィンガーとファインマンが独立に提示している。

以上をもって、荷電粒子と電磁場から成る系を扱う量子電磁力学という学問が確立された。

1947

ウィラード・フランク・リビー

アメリカ

放射性炭素年代測定法

(14C年代測定法)

炭素の質量数は12であるが、放射性同位体の質量数14の炭素を用いて年代測定を行う方法を提唱。炭素は質量数12が98.9%を占めるが、大気中の窒素に宇宙線が衝突したときの核反応によって生成される炭素14が1.1%の割合で存在する。生物を構成する炭素のうち14Cの比率も常に1.1%であるが、死んでしまうと体内に炭素が取り込まれなくなるため、14Cは少しずつ崩壊し、14Cの含有量が減少する。この14Cは、5730年の半減期で崩壊するため、その含有量からその生物が生きていた時代を推定できる。

1947

セシル・フランク・パウエル

アメリカ

パイ中間子

※湯川粒子

パウエルは高速の荷電粒子の飛跡を鮮明に撮影する方法を開発した。写真乳剤での宇宙線の観測で、湯川が予言した中間子(メソン)の性質を持つ新たな粒子を発見した(現在、これはパイ中間子と呼ばれる)。

※人工的には1948年にカリフォルニア大学の加速器で生成に成功。

中間子は、原子核内の核子(陽子や中性子)の間で働く"強い力"を媒介し、強い結合力を生みだすことで、陽子同士に働くクーロン力(電気的反発)を抑え込んでいる。

原子核内では不確定性原理に従い、観測できないほどの極めて短時間Δtに中間子が核子間を交換されていると考えられるが(仮想粒子と呼ぶ)、実際に中間子の質量に相当するエネルギーを外部から注入してやれば、観測可能なほど十分な時間、中間子が具現化しうる。

【エネルギー保存則の破綻の証左?】

エネルギーの元手がない場合でも、不確定性原理の制約を満たす短時間であれば真空から必要なエネルギーを調達しうる。これはごく短時間であれば、エネルギー保存則が破綻しているとも言える。

1948

国際度量衡局

 

電流の単位(アンペア)の再定義

力から電流を定義

電流の単位アンペアを「真空中に1mの間隔で平行に配置された無限に小さい円形断面積を有する無限に長い2本の直線状導体が想定し、各々に一定の電流を流した時に導体の長さ1mにつき2×10^-7ニュートン(N)の力を及ぼし合う電流を1アンペア」と定義した。これは1820年にアンペールが公開実験した内容で、アンペールの力を利用した定義である。

電気は溜ることが難しいため、電気量(クーロン)よりも電流(アンペア)を先立って定義される。単位の観点では、電流(アンペア)が最上位であり、電気量(クーロン)は導かれる対象として「1クーロンとは1秒間に1アンペアの電流によって運ばれる電荷」と定義される。

1948

ジョージ・ガモフ

ラルフ・アルファー

アメリカ

アメリカ

αβγ理論(アルファ・ベータ・ガンマ理論)

※宇宙初期の原子核合成理論

1930年代以降、中性子(1932年/アンダーソン)の発見、中間子論(湯川秀樹/1935年)、各種の原子核モデルなど原子核物理学の知見をもとにビッグバンモデルの議論ができるようになってきた。

αβγ理論は、ビッグバンによる宇宙初期の原子核合成の理論である。まず宇宙初期の高温高圧の中性子ガス(過熱した中性の原子核の液体)から陽子と電子が作られる。そして宇宙膨張に伴う温度低下により、残っている中性子と陽子が融合し重水素が作られ、次々と重い原子核が作られていくと考えた。

αβγ理論では重元素まで一気に合成されるとしたが、後に林忠四郎により、宇宙初期にはヘリウムより重い元素は形成されないとし、この指摘を踏まえたものをαβγ林理論(1950年)と呼ぶことがある。

1948 

ジョージ・ガモフ アメリカ

ビッグバン理論

 

1948 

ヘルマン・ボンディ

トマス・ゴールド

フレッド・ホイル

オーストリア

オーストリア

イギリス

定常宇宙論

ルメートルによるハッブル=ルメートルの法則(1927年)の発見以降、宇宙の膨張は観測事実として認める必要があるが、その膨張によって宇宙の密度が薄まれば物理法則が時間とともに徐々に変化することになる。

定常宇宙論は、完全宇宙原理(場所・時間に関係なく物理法則は常に同じ)に基づく理論であり、宇宙膨張による宇宙の密度減少を避ける理屈として、宇宙は毎年1km^3当たりおよそ水素原子1個が新たに生まれるとした。当初、定常宇宙論がビッグバン理論よりも優勢と見られた理由として、ビッグバン宇宙論によればハッブル=ルメートル定数が当時の最新の値で250-300km/s/Mpcであり、逆算される宇宙年齢は40億年程度となり、これは地球の年齢よりも若いという矛盾があった。

※新たなビッグバンの証拠として宇宙背景放射(3K輻射)が発見(1965年)された1960年代になると、ハッブル=ルメートル定数は100km/s/Mpc弱となり、宇宙年齢は100億年強いまで延びた。

1948

ヘンドリック・カシミール

ダーク・ポルダー

オランダ

オランダ

カシミール効果

真空内に平行に置かれた2枚の金属板の間に、外部から何らエネルギーを与えずとも引力が働くことを予想(カシミール効果と呼ぶ)。

1948

ジョン・バーディーン

ウォルター・ブラッテン

アメリカ

アメリカ

アメリカ

トランジスタ

※点接触型トランジスタ

米国ベル研究所にてトランジスタ(点接触型トランジスタ)が発明される。ゲルマニウム単結晶に僅かに不純物を混ぜると、真空管と同様に電流の整流・増幅・発振が可能になる。トランジスタは小型で耐久性に優れ、省電力なため真空管(気体エレクトロニクス)のいきずまりを破り、コンピュータの実用性を高めた。

1949

中華人民共和国、成立

 
1949

ゲッパート・メイヤー

ヨハネス・ハンス・エンセン

ドイツ

ドイツ

原子核の殻模型(シェルモデル)

魔法数

 
1949

レオ・J.レインウォーター

アメリカ

核子の非対称性

核子は必ずしも球ではない。
1949

フレッド・ホイル

アメリカ

ビッグバンの命名

定常宇宙論(1948年)の提案者の一人であるフレッド・ホイルは、BBCのラジオ番組の中で初めてビッグバンという言葉を使用した。科学史家ヘルゲ・クラーウによれば、これは当時、対立していたビッグバン理論に対して悪い意味合いで使われたわけではないとする研究結果を発表している。

1940年代後半から宇宙背景放射が発見(1965年)されるまでの約20年間は、ビッグバン宇宙論と定常宇宙論は両方存続していたが、宇宙背景放射の発見以降は、定常宇宙論は静かに衰退し、ビッグバンという言葉が多く使われるようになった。

1949

ウィリアム・ショックレー アメリカ 接合型トランジスタ ベル研究所で発明された点接触型トランジスタ(1948年)の弱点を改善し、生産性と事業拡大可能性の高いサンドイッチ構造のトランジスタ(接合型トランジスタ)を開発。

1949

アメリカ国立標準局

イギリス国立物理学研究所

アメリカ

イギリス

原子時計(アンモニア型)

原子時計(セシウム型)

 
1950 林 忠四郎 日本

元素合成理論

※αβγ林理論

初期宇宙における元素合成理論を発表。創成期の宇宙には中性子と陽子の両方が存在し、Heが作り出せることを示した。また質量数5と質量数8の安定元素がないため、宇宙初期にはそれを超える元素は合成できないと指摘した。