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年表_物理学/化学_19-SH


■19世紀後半(1851~1900)

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ

1851

レオン・フーコー フランス

フーコーの振子実験

地球の自転の実証

コリオリ力が働き巨大な振り子の振動面が徐々に回転する様子を示した(フーコーの振り子)。物理学的に地球の自転を実証。
1851

ウィリアム・トムソン

(ロード・ケルビン)

イギリス

書物『力学エネルギーの散逸傾向』

熱力学第二法則の定式化

(トムソンの法則)

熱力学第一法則とはエネルギー保存則を意味し、反応前後でエネルギーの総量は一定で増えたり、減ったりはしないという法則である。一方、熱力学第二法則とはエネルギーの変換における特殊性、傾向に関する法則である。

ケルビン卿は、高温熱源から取り出したエネルギーを仕事(力学エネルギー)に完全に変換できるかどうか調べた。その結果、熱から仕事への変換は完全にはできないことを示した(※なお逆方向の変換として、仕事から熱への変換は完全に可能である)。

ケルビン卿は書物『自然における力学エネルギーの普遍的な散逸傾向について』で次のように説明した。

「エネルギーの相互変換によりその総量は保存されるが、変換はエネルギーとしての有用性が減少する方向へ一方的に進行する。様々な過程を経て発生した熱は一般に周囲に散逸する傾向にあり、一度、散逸してしまった熱が自然に有用性の高いエネルギー形態に戻る可能性はない」

保存則及び、変換における不可逆現象(散逸傾向)は、エネルギーの根源的性質である。

※トムソンは爵位に由来するケルビン卿(Lord Kelvin)の名でも知られる。

1852 レオン・フーコー フランス ジャイロスコープ

パリのパンテオンにてフーコー振り子の実験を行った翌年、フーコーは別の方法でも地球の自転を確認する装置を作り、これをジャイロ・スコープと名付けた。しかしこのジャイロスコープはドリフトが大きく、地球の自転の確認はできなかった。

1853

ジェームズ・ジュール

ウィリアム・トムソン

(ロード・ケルビン)

イギリス

イギリス

ジュール=トムソン効果

気体の膨張に伴う温度降下を発見。

※トムソンは爵位に由来するケルビン卿(Lord Kelvin)の名でも知られる。

1853 マシュー・ペリー 日本 黒船の来航

嘉永6年、神奈川県の浦賀沖にペリーの黒船が来航。黒船である蒸気船(汽船)は、帆船と汽船のハイブリットで、外洋は基本的に帆走し、港湾内のみ蒸気機関を稼働。

1853 マイケル・ファラデー イギリス 心霊現象を否定  

1854

ルドルフ・クラウジウス ドイツ

熱力学第二法則の定式化

クラウジウスは、トムソンとは別の表式で熱力学第二法則を定式化した。クラウジウスは可逆過程であるカルノーサイクルの1周分のΔQ/Tを足し合わせる(閉積分)とゼロとなることを示した。断熱過程ではΔQ=0なので、問題は熱の流出入のある等温過程であるが、

ΔQ(等温膨張)/T(高温熱源)+ΔQ(等温圧縮)/T(低温熱源)=0と計算され、∲dQ/T=0となった。クラウジウスはQ/Tに着目し(1865年にエントロピーと定義)、カルノーサイクルのような可逆過程における等温過程ではQ/Tは増減し、断熱過程ではQ/Tは変化せず、1周分の閉積分はQ/Tは一定であることを示した。

1855

レオン・フーコー フランス

フーコー電流 (渦電流)

 
1855 ハインリッヒ・ガイスラー ドイツ

ガイスラー管

※蛍光灯の起源

水銀ポンプ

ガラス細工技師のガイスラーは高性能の水銀ポンプを開発し、当時としては真空度の高い放電管(ガイスラー管)を製作。ガイスラー管は、ガラス管内の両端に金属電極を設置し、空気を抜いて低圧の気体(希ガス)を封入して高電圧を掛ける。ガイスラー管の真空度は10000Pa~100Pa(※1気圧=101300Pa)であるため、陰極から電界放出により発生した陰極線(電子の流れ)は途中で気体分子と何度も衝突し、ガラス管内は明るいグロー放電で満たされる。気体分子と衝突せず明確な陰極線(1858年/プリュッカー)を見るためには、10Pa以下の高真空のクルックス管(1875年/クルックス)が用いられる。

1855 ロベルト・ブンゼン ドイツ ブンゼンバーナー  
1855 ヘンリー・ベッセマー イギリス ベッセマー製鋼法  
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1856

R.H.A.コールラウシュ

ヴィルヘルム・ウェーバー

 

真空の透磁率と誘電率

 
1856 ジェームズ・C.マクスウェル イギリス 論文『ファラデーの力線について』 マクスウェルは、ファラデーの電磁誘導(1831年)の研究から生じた磁力線の概念を数式化した論文。ファラデーはマクスウェルの論文を知った時、知人のクロックス夫人に宛て、次のように書いている。「数学を学ばなかったことはなんとしても悔やまれる。人生をやり直すことができるならば、私は今度こそ数学を勉強したい。しかし、今となってはもう遅すぎる。」
1856 ジェームズ・C.マクスウェル イギリス 土星の環の力学的安定性

25歳のマクスウェエルはアヴァディーン大学のマリシャル・カレッジ物理学教授に就任。この年、マクスウェルが取り組んだテーマにアダムズ賞の課題論文となった「土星の環の構造に関する理論」がある。マクスウェルは力学計算を行い、土星の環が細かい物質塊からできていると仮定すると力学的な安定性が得られることを証明した。

※アダムズ賞とはイギリスの天文学者ジョン・コーチ・アダムズの業績を顕彰して、ケンブリッジに創設された学術賞。アダムズは解析力学の計算による海王星(第八惑星)の存在を理論的に予言(1843年)。

1857 長崎製鉄所 日本

国産の蒸気機関の製作

幕府は西洋の近代技術を導入し、長崎製鉄所で蒸気船用の蒸気機関(外燃機関)を製作。国産の本格的エンジン第1号とされる。
1858 ジュリアス・プリュッカー ドイツ

陰極線

※真空放電管内で発生

ガイスラー管を放電中、陰極と向かい合うガラス壁が黄緑色に蛍光し、磁石により蛍光部が移動することを発見。また陰極とガラス壁の間に遮蔽物を置けば、ガラス壁にその影ができるため、陰極からガラス壁に向かって何かしらの物質が放射されていることが確認された。後にこの放射線は、ゴルドシュタインにより陰極線と命名(1876年)される。

陰極線は高真空(10Pa以下)のクルックス管の登場(1875年/クルックス)により、より詳細に調べられる。

1858 グスタフ・キルヒホフ ドイツ

反応熱のキルヒホフの法則

 
1858

アトランティック-テレグラフ社

サイラス・フィールド

アメリカ

大西洋横断海底ケーブルの敷設

ドーバー海峡の海底ケーブル敷設(1850年)の成功から欧州の地中海・黒海など海底ケーブルは数多く敷設された。一方、大西洋をまたぐ情報伝達は依然として蒸気船に頼っていた。敷設作業は難航したが、1858年に大西洋(ヴァレンティア島ニューファウンドランド島の間)を横断する大西洋横断海底ケーブルが敷設され、ヴィクトリア女王はアメリカのブキャナン大統領に最初のメッセージを送った。導線の被覆に用いる絶縁素材の劣化などによる信号の減衰など課題は多く見られた。

1859

ロベルト・ブンゼン

グスタフ・キルヒホフ

ドイツ

ドイツ

分光器

スペクトル分析の基礎の確立

※光(輝線)と元素の関係

炎に焼べた試料が発する光をプリズムでスペクトル分解(波長分解)し、望遠鏡で調べる分光器を考案。新元素発見の有力な方法として注目。太陽光の暗線を解釈。物質は自分が発する光と同じ波長の光を吸収すると結論付けた。

1859 グスタフ・キルヒホフ

ドイツ

熱放射のキルヒホフの法則

黒体の概念

黒体輻射スペクトルは温度依存

キルヒホフは、熱平衡状態においてあらゆる物体の光の輻射能Eと吸収能aの比率(E/a)は、物体の特性に関係なくその温度と光の波長(エネルギー)のみに依存することを発表。照射される光を全て吸収する黒体(a=1)を考えると、黒体を構成する材質によらずある波長の輻射能Eは温度だけで決定される。

例として、熱した鉄板は温度が低い1000度付近では赤味の強い光を放つが、さらに高温になると白く見えるようになる。

1859

ガストン・プランテ フランス

鉛蓄電池

※最初の2次電池(蓄電池)

 

1859

チャールズ・ダーウィン イギリス

書物『種の起源』を発表

 
1860

ロベルト・ブンゼン

グスタフ・キルヒホフ

ドイツ

ドイツ

CsとRb

分光器によるスペクトル分析によってCs(セシウム)とRb(ルビジウム)を発見。

1860

グスタフ・キルヒホフ

ドイツ

太陽光の暗線の解釈

※太陽の組成同定の可能性

 
1860

ジェームズ・C.マクスウェル

イギリス

気体分子運動論

気体分子の速度分布則

(マクスウェル速度分布)

原子論者であるマクスウェルは、気体分子運動論を提唱。以下の4つの仮定から出発。

①分子は十分に小さい完全弾球体

②分子同士の衝突でエネルギーは保存される

③次の衝突までは分子は等速直線運動をする

④分子の位置と速度の初期値はランダム。

気体の温度に依存した釣鐘型の速度分布(マクスウェル速度分布)が得られ、無作為に選んだ分子が任意の速度を持つ確率を予測可能にした。

1860

ジョゼフ・スワン

イギリス

白熱電球

1848年頃からスワンは白熱電球の実験に取り組んでいた。減圧したガラス球の中にカーボン紙のフィラメントを入れた試作品を実際に点灯させ、1860年にイギリスで特許として認められた。小型化・長寿命化と課題があり、すぐに普及する代物ではなかった。

1860

エティエンヌ・ルノワール

フランス

ガスエンジン(内燃機関)

シリンダー内に混合気(石炭ガス)を吸入した後、圧縮せずに爆発させる無圧縮方式。1回転毎に爆発する2サイクルで、電気式の点火装置を使用。熱効率は4%程度と蒸気機関の3倍近く。蒸気機関と比べて小型軽量で、燃料補給や使用前後の操作の煩わしさも低減した。

1860

ジェームズ・C.マクスウェル

イギリス

三原色

色箱を用いて、光の色の混合具合を調べたマクスウェルは、赤、緑、青が光の三原色であることを明らかにした。この三色を混ぜ合わせることにより、あらゆる色が作り出される。この原理を応用すれば、カラー写真の撮影も可能となることを力説した。

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1861   アメリカ

アメリカ南北戦争、開始

※1861年~1865年

 
1861

エルネスト・ソルベー

ベルギー

ソルベー法(アンモニア・ソーダ法)

 
1861

ジェームズ・C.マクスウェル

イギリス

講演『三原色の理論』

※王立研究所にて

1861年5月17日、マクスウェルはファラデーのいる王立研究所で講演を行った。講演内容は『三原色の理論』と題する光学に関する内容である。
1862

レオン・フーコー

フランス

真空中の光速度の精密測定

(秒速298000±500km)

 
1862

ド・ロシャ

フランス

4サイクルの原理

吸入→圧縮→膨張→排気という4工程を持つ4サイクルの原理を発表。
1862 アンデルス・オングストローム スウェーデン

太陽の水素

分光実験による太陽光スペクトルの分析より、太陽大気中の水素の存在を発見。
1862 マイケル・ファラデー イギリス

最後の実験

※光源と磁気の分光学的実験

ファラデー効果(磁気旋光/1845年)により光と磁気の相互作用を発見したファラデーは、さらなる研究方法として、ブンゼンとキルヒホッフによる分光分析(分光器によるスペクトル分析)に注目した。ファラデーは光源(ナトリウムの気体から出る光)を磁場の中に置き、光のスペクトルに磁気の影響がどのように現れるか調べた。この実験はファラデーの生涯最後の実験として知られる。結果は、残念ながら予想に反して何も新しい効果は認められなかった。失意の中、ファラデーは現役を引退した。

※ファラデーの最後の実験は、後にファラデーの生涯について書いたマクスウェルにより広く知られ、その本を見て触発されたゼーマンにより35年後(1897年)、再実験がなされ、ゼーマン効果の発見につながる。

1862

ウィリアム・ロムソン

(ロード・ケルビン)

イギリス

論文『太陽熱の年齢』

太陽の年齢の推測

エネルギーの様々な形態と、その保存・変換の法則が熱力学によって確立されてきた中、太陽の寿命(完全に冷却されるまでの時間)の計算を試みた。ケルビン卿による説明は次の通り。宇宙に散らばっていた隕石は重力により引き合い、速度を増しながら衝突合体し、蓄積していく。重力には位置エネルギーがあり、それは運動エネルギーに変換され、衝突と圧縮により熱エネルギーに変換される。この熱エネルギーが太陽の熱源に他ならないと考えた。このようなモデルから推計した太陽の年齢は5000万~1億年であり、将来にしてもせいぜい数百万年程度の寿命だと試算された。

※1859年に書物『種の起源』を著したダーウィンなど多くの地質学者や生物学者はケルビン卿によるこの試算には大変悩まされた。

1863

ウィリアム・ロムソン

(ロード・ケルビン)

イギリス

論文『永続する地球の冷却』

地球の年齢の推測

論文『永続する地球の冷却について』にて、地球の年齢を5000万~1億年と推定。岩石学と熱伝導方程式をもとに冷却の一途を辿る前提で算出した。

※熱力学などの理論は手に入れたが、太陽に関しては核融合反応、地球に関しては地球内部に存在する放射性物質の考慮など、当時として知られていなかった全く新しいエネルギー源の存在が試算前提に欠けていた。なお放射能は1896年にアンリ・ベクレルによりウラン鉱物から発見される。

1865

ジェームズ・C.マクスウェル

イギリス

論文『電磁場の動力学的理論』

電磁気学の基本方程式

(マクスウェル方程式)

電磁波の予言

電気と磁気の法則を統一して表す一連の微分方程式(マクスウェルの方程式)を発表。マクスウェルの方程式は、クーロン力の逆二乗則、電磁誘導の法則、磁極は必ずペアで存在、アンペールの法則の4つの式からなる。アンペールの力は対象外である。

■マクスウェル方程式

①アンペールの法則(1820年):電流は、回転的な磁場を作る

⇒①'マクスウェル=アンペールの法則:電流と電場の変動の和は、回転的な磁場を作る

②ファラデーの法則(1831年):磁場の変動は、回路に電場を作る

③ガウスの法則(磁場)(1835年?):閉曲面を通る磁力線の収支はゼロ

④ガウスの法則(電場)(1845年?):閉曲面を通る電気力線の収支は曲面中の電荷総量

マクスウェルの方程式(①'②③④)から、電場を消去した磁場の波動方程式、磁場を消去した電場の波動方程式が得られる。電場と磁場とが互いに横波で振動しながら進む波の描像が得られ、この波を電磁波と名付けた(1888年にヘルツが観測)。またε(誘電率)、μ(透磁率)の計測から理論的に電磁波の速度が求められ、概ね光速度と一致することから、電磁波の正体は光であると推測する(1867年)。

【ニュートン力学と電磁気学の整合性の綻び】

電磁気学はニュートン力学と折り合いの悪い部分を含み、当時の物理学者は両学問の整合性を持たせようと努力した。これは後にアインシュタインがニュートン力学に修正を加える形で、電磁気学と整合す現代的な力学である特殊相対性理論(1905年)へと昇華させた。

1865 ルドルフ・クラウジウス ドイツ

熱力学第一法則の表記

(⇒ dU=dQ-dw)

エントロピーの定義 (dS=dQ/T)

クラウジウスの不等式

クラウジウスは、熱力学第一法則(エネルギー保存則)を現在でも見られる形式である dU=dQ-dwとして論文で表示した。この式では、内部エネルギー(温度,内部への仕事)は流入熱量と外部への仕事(-dw)の和として表示。

クラウジウスはギリシャ語のtropy(変化)を使ってentroy(エントロピー)と命名し、記号Sで表した。

【熱力学第一法則の書き換え】

熱力学第一法則であるdU=dQ-dwの左辺は内部エネルギーの無限小の状態変化量であるが、右辺の熱と仕事は無限小のフロー(流出入)である。両辺を一律の無限小の状態変化量で書き換えると、dU=TdS-PdVとして表される。

1865 アウグスト・ケクレ ドイツ ベンゼン環のケクレ構造  
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1866

アルフレッド・ノーベル

スウェーデン

珪藻土ダイナマイト

雷管

鋭敏な爆薬であるニトログリセリンは1846年にソブレロにより発見された。ニトログリセリンの実用化は、多少の衝撃や経年劣化に対する安定性を高める必要があった。ノーベルはニトログリセリンを珪藻土に染み込ませ安定化し、珪藻土ダイナマイトを発明した。また雷管も発明し爆発のコントロールに成功した。
1866 ジョルジュ・ルクランシェ フランス

ルクランシェ電池

 
1867 ジェームズ・C.マクスウェル イギリス

電磁波の速度式:v=1/(εμ)^1/2

※εは誘電率、μは透磁率

電磁波の正体は光

マクスウェルは自らの方程式から波動方程式を導き、電磁波の速度vを導出した。v=1/(εμ)^1/2であり、εとμはそれぞれ物質の誘電率、透磁率と呼ばれ、物質固有である。電場や磁場の強さ、そして電磁波の速度は、それが発生する場所によって異なることを示した。真空中で測定したεとμをマクスウェルの光速度の理論式に代入すると秒速30万kmとなり、フィゾーによる実測値(1849年)と一致した。

マクスウェルは式から導かれた光速度は、宇宙に充満するエーテルに対する相対速度だと考えた。宇宙空間における地球の運動(自転や公転)により起きるエーテルの風の存在は、光の相対速度の変化として現れるだろうと予想した。

1867 マイケル・ファラデー イギリス

ファラデー、逝去

 
1868   日本

明治天皇、即位

 
1868

ピエール・ヤンセン

ノーマン・ロッキャー

フランス

ヘリウム(He)

※太陽コロナの分光分析より

※天界の元素

インド遠征中のヤンセンは8月に皆既日蝕の際の太陽周辺部(彩層部分)の光を分光器で測定し、587.49nmの黄色のスペクトル線を発見。当初、ナトリウム由来のスペクトル線と考えた。同年10月にロッキャーも独立で太陽光から同じスペクトル線を発見し、ナトリウムのD1線やD2線とは区別してD3線とした。ロッキャーは後に太陽を意味するギリシャ語のヘリオス(helios)に因み、このスペクトル線を放出している未知の新元素をヘリウム(He)と命名。分光学の発達により、地上にいながらにして天界に存在する新元素を発見が可能になった。なお後にヘリウムは地上の物質からも検出(ルイージ・パルミエーリ/1895年)された。

1869   イギリス

科学雑誌『ネイチャー』が創刊

 
1869 ドミトリ・メンデレーエフ ロシア

元素周期表

未知の元素の予見

メンデレーエフ以前から元素の性質の傾向や規則性は広く知られていた。しかし、未知の元素を予見できるほど体系的に整理された形に仕上げたのはメンデレーエフである。元素周期表は、既知の元素を原子量や化学的性質の規則性に基づき配置されるが、その配置方法の細かなルールは依然として煩雑な部分を含んでいた。例えば、原子量の順序を優先すればArはNaの下に来るが、メンデレーエフは化学的性質の類似性を鑑みて、順序を入れ替えている。同様の不規則性はCoとNi、IとTeにも見られた。メンデレーエフはさらに2年後、63元素を8行12段に配列した周期表を発表し、未知の元素は空欄とした。

【元素周期表の進化】

元素周期表の明確な物理的根拠(原子核の陽子数の多寡)を与える法則(モーズリーの法則/1930年)を発見し、原子核の陽子数を原子番号と紐付けて定義したのはモーズリーである。そして、実際にモーズリーの法則が原子核の陽子数(正電荷)に比例することを実証したのは中性子の発見者でもあるチャドウィックである(1920年)。これにより現代科学的なルールに基づく元素周期表が成立する。元素周期表で必ずしも原子量の順序に従わない(一部順序が入れ替わる)ことや、整数値から若干ズレるという問題は、既にクルックスが1886年に指摘しており、1912年にJ.J.トムソンが発見した非放射性のアイソトープ(同位体)の存在により解決される。元素周期表の正しい順序が定まり、次は化学的性質の周期性の説明であるが、量子論に基づいた化学結合理論(G.N.ルイスなど/1916年)において原子の安定性をもたらすオクテッド説や電子配置モデルによって説明される。

1869 トマス・アンドリューズ イギリス

超臨界流体

二酸化炭素の臨界点

カニャールの大砲実験(1822年)の発見から、二酸化炭素について温度・圧力・体積の関係を定量的に測定した。二酸化炭素の臨界点(温度は31℃/気圧は73気圧)を発見した。またアンドリューズの精密な実験データは、ファン・デル・ワールスの実在気体の状態方程式の導出(1873年)に貢献した。

超臨界流体とは、圧縮しても液化しない高密度の気体であり、液体の溶解性と気体の拡散性を併せ持つ。当時、永久気体とされた水素やヘリウム等を常温で加圧すると、液化されず超臨界流体(臨界点より上の領域)となる。

1869 ヨハネス・ウィスリツェヌス ドイツ

乳酸の光学異性体

 
1870    

普仏戦争、開始

※1870年~1871年

プロイセン王国とフランス帝国との間に起きた戦争。1870年7月に始まり、1871年5月にプロイセン王国の勝利で終結する。プロイセン側に立ち参戦したドイツは、フランスから莫大な賠償金(50億フラン)と石炭・鉄鉱石の産地であるアルザス地方とロレーヌ地方をせしめた。
1870 ジェームズ・C.マクスウェル イギリス マクスウェルの悪魔 分子に対して仕事をせずに分子の速度を選り分ける"仕切り"は、エントロピー増大則を破綻させる。そうした役割を果たす"仕切り"の概念を"マクスウェルの悪魔"と呼んだ。
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1871    

ドイツ帝国、成立

※1817年~1918年

 

1871

ロード・レイリー

(ジョン・W.ストラット)

イギリス レイリー散乱 光の散乱の研究から、昼間の空が青く、夕陽が赤くなる原因を明らかにした。夕方は、太陽と観測者の間に存在する大気の厚みが日中に比べ長くなり、散乱されにくい長波長側の光(赤い光)が相対的に多く観測者に届くことによる。

1871

ジェームズ・C.マクスウェル

イギリス 書物『熱の理論』  

1871

アーネスト・ラザフォード

ニュージーランド ラザフォード、誕生  

1872 

チャールズ・ダーウィン

イギリス

書物『種の起源』第六版

太陽・地球の年齢について言及

1859年に初版発行された『種の起源』の第六版が発行された。当時、ケルビン卿により地球の年齢はせいぜい1億年とする説があり、これに対して第六版では疑問を呈する内容で次のように言及している。

「宇宙の構成や地球の内部構造について、過去の存続期間を推測できるほど十分な知識を物理学者はまだ手に入れていないのではないか」

そうであって欲しいとする期待にも近い反論ではあったが、19世紀末になると核力(原子核内で働く強い力)に由来する現象が登場するようになり、その指摘は的中していた。

1873 ファン・デル・ワールス オランダ

論文『気体および液体の連続性について 』

実在気体の状態方程式(ファン・デル・ワールスの式)

分子間力(ファン・デル・ワールス力)

ファン・デル・ワールスは、二酸化炭素の状態変化を精密測定したアンドリューズの実験(1869年)を分子論的な説明を試みた。その結果、ボイル・シャルルの法則(理想気体の状態方程式)に、分子間力と分子自体の体積の補正項を加えることで実在気体にも適用可能なファン・デル・ワールスの式(実在気体の状態方程式)を導出した。ファン・デル・ワールスの式は、電荷を持たない原子や分子の間で働く凝集力(分子間力/ファン・デル・ワールス力)が距離の6乗に反比例する非常に弱い力であることを示したが、その力の発生原因は示されず。

ファン・デル・ワールスの式は、当時まだ液化が不可能だった、ヘリウムや水素の低温での挙動を予測でき、低温物理学への道筋を示した。

1874

ヤコブス・H.ファント・ホッフ

ルベル

オランダ

フランス

ファントホフ=ルベルの立体化学理論

不斉炭素原子の概念

キライティー(掌性)の概念

酒石酸や乳酸で見られる光学異性体における原子の空間配列として、不斉炭素原子で説明。不斉炭素原子を中心にした4面体には、重ね合わせられない実物と鏡像の関係(掌性,キラリティー)の2種類があり、光学活性の違い(右旋性と左旋性)が生じる。両名は同時期に炭素の四面体構造説を唱えたため、ファントホッフ=ルベルの説と呼ぶ。

1874

ティンダル  イギリス ベルファスト講演 エネルギー保存則や種の起原を引き合いに出しながら、宗教、神学に対する科学の圧倒的な優位性を主張。

1874

ウィリアム・キャベンディッシュ

(デヴォンシャー侯爵)

イギリス

キャベンディッシュ研究所、設立

※初代所長はマクスウェル

遺稿(実験ノート)の解読依頼

キャベンディッシュの死後から64年経過した1874年、ヘンリー・キャベンディッシュのいとこのひ孫に当たるデヴォンシャー侯爵ウィリアム・キャベンディッシュ(ケンブリッジ大学総長)はケンブリッジ大学に新しい物理学の研究所を開設する資金を寄附し、キャベンディッシュ研究所を設立した。

なお電磁気学の創始者マクスウェルは、キャベンディッシュ研究所の初代所長を務めている。

【マクスウェル、ヘンリー・キャベンディッシュの遺稿の解読依頼を受ける】

また同時にデヴォンシャー侯爵から偉大な先祖ヘンリー・キャベンディッシュが遺した手稿の山の電気学研究の実験ノートに関する部分の解読をマクスウェルは依頼される。マクスウェルは、約5年間かけて助手ガーネットと共に実験ノートの追試を通した発掘作業を開始する。マクスウェルによる5年間の追試も兼ねた丁寧な解読作業の成果物として、1879年10月に書物『ヘンリー・キャベンディッシュ電気学研究』と題してまとめられた。

1875

   

メートル条約の締結

フランスで発明されたメートル法(1798年)の世界的な普及を目的としてメートル条約が締結される(フランス・パリ)。メートル条約に基づき国際度量衡局(BIPM)が組織された。当初の締結国は17ヵ国(欧州諸国、ロシア、オスマン、アメリカ、中南米諸国が中心)。

なお、イギリスは1884年に加盟、日本は1885年に加盟。

1875 ウィリアム・クルックス イギリス クルックス管 従来よりも高真空にした真空放電管であるクルックス管を発明した。ガラス管内の真空度は10Pa以下であり、陰極線と残留気体との衝突も少なくなるためガラス管内の放電発光は薄まる一方、陰極線によるガラス内壁の黄緑色の蛍光が顕著になる。
1875 アルフレッド・ノーベル スウェーデン

ゼリグナイト(プラスチック爆薬)

コロジオン綿(綿火薬/ニトロセルロースの一種)から"ゼリー"の名でも知られるゼリグナイト(爆発性ゼラチン)を開発。珪藻土ダイナマイトと違いニトログリセリンが染み出ず、起爆装置なしでは爆発しないため容易に成型でき、安全性が高い。世界初のプラスチック爆薬
1875 フリードリッヒ・コールラウシュ ドイツ

イオン独立移動の法則

※コールラウシュの法則の一つ

1850年代にコールラウシュは様々な電解質溶液の電気伝導率を測定した。こうした実験からイオン独立移動の法則を発見した。
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1876 ニコラウス・アウグスト・オットー ドイツ 4サイクル内燃機関  4サイクル内燃機関を採用したガスエンジンを製作。熱効率は10%を超え、音も静かだった(オットーのサイレント・エンジンと呼ばれた)。燃料には石炭ガスが引き続き利用された。
1876 A.グラハム・ベル イギリス 電話  
1877 ジョバンニ・スキャパレリ イタリア

火星表面の網目状の筋模様

火星の地図

火星の大接近(15-17年周期)と衝(2年2ヵ月周期)が重なる1877年に、望遠鏡を火星に向けた。そしてスケッチし、火星の地図を製作した。
1877    

液体窒素

 
1879 ヨーゼフ・シュテファン

オーストリア=

ハンガリー

シュテファン=ボルツマンの法則

※熱輻射の法則

高温物体の熱放射を測定し、放射される全エネルギーは絶対温度の4乗に比例することを発見。黒体の場合はI=σT^4、黒体でない場合はI=εσT^4とされ、σはシュテファン・ボルツマン定数と呼ばれる。シュテファンの熱放射の法則の理論的な説明は、1884年にボルツマンにより行われたため、シュテファン=ボルツマンの法則と呼ばれる。
1879 ジュームズ・C.マクスウェル イギリス

書物『ヘンリー・キャベンディッシュ電気学論文集』

※遺稿解読依頼の成果物

マクスウェルは新設されたキャベンディッシュ研究所所長を務める傍ら、ヘンリー・キャベンディッシュのいとこのひ孫に当たるデヴォンシャー侯爵の依頼で、偉大な先祖ヘンリー・キャベンディッシュの遺稿(1771年~1773年、1775年~1781年の実験ノート)の電気実験に関する解読作業を行っていた。5年間にわたる追試を伴う丁寧な解読の成果物がこの書物である。

さてヘンリー・キャベンディッシュの未発表の研究成果は以下の通り。

①電気力の逆二乗則 ※クーロンの法則(シャルル・ド・クーロン/1785年)

②電圧と電流の比例法則 ※オームの法則(ゲオルグ・オーム/1827年)

③希薄溶液の電気伝導の法則 ※イオン独立移動の法則(コールラウシュ/1875年)

④絶縁体物質とコンデンサー容量の関係 ※誘電率(マイケル・ファラデー)

1879 ジュームズ・C.マクスウェル イギリス

マクスウェル、逝去

書物『ヘンリー・キャベンディッシュ電気学研究』を編纂し終えた頃、マクスウェルの健康状態は腹部のガンによりかなり悪化していた。11月5日、マクスウェルは48年の生涯を閉じた。
1879 アルベルト・アインシュタイン ドイツ アインシュタイン、誕生

3月14日午前11時30分、南ドイツの小都市ウルムに暮らすユダヤの中流家庭に長男として生まれた。電磁気学を確立(1865年)したマクスウェルと入れ替わるように誕生し、アインシュタインはこの電磁気学を足掛かりに特殊相対性理論(1905年)を確立するわけである。

 

1880

ピエール・キュリー

ジャック・キュリー

フランス

フランス

圧電効果(ピエゾ電気効果)

キュリー兄弟は、結晶を加圧すると電気分極が起き、電荷の発生を確認。

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1881

アルバート・A.マイケルソン

アメリカ

マイケルソン干渉計

マイケルソンはベルリン滞在中に、グラハム・ベルの資金援助を受けて干渉計(マイケルソン干渉計)を発明した。マイケルソン干渉計は、光の干渉縞を利用して光の波長レベルの短距離の精密な測定が可能であり、マイケルソンは測定方向による光速度のズレの精密測定(静止エーテルの存在の実証)のために利用した。

マイケルソンは本装置を地盤の安定したポツダムの天文台に運び実験を試みたが、光速度は測定する方向に関係なく一定で、想定する光速度の差は見られず(エーテルの存在を実証できず)、落胆した。この実験内容はアメリカン・ジャーナル・オブ・サイエンス(1881年8月号)の論文「地球とエーテルとの相対運動」で、安定なエーテルの仮定は謝りであると結論付けた。

※なおマイケルソンはアメリカ人で初のノーベル賞(1907年)を受賞する。

1881 ガブリエル・リップマン フランス 逆圧電効果  
1881 トマス・アルバ・エジソン アメリカ

実用レベルの白熱電球

エジソンは実用レベル(連続600時間の点灯)の白熱電球の開発のため、フィラメント素材を探した。研究室の扇子の竹を使うと200時間点灯したため、世界中の竹(約1200種類)を採集した。日本の京都八幡産の真竹を使うと1200時間(50日)以上点灯でき、白熱電球は製品化された。
1882 アルバート・A.マイケルソン アメリカ

真空中の光速度の精密測定

(秒速299853±60km)

アメリカに帰国したマイケルソンは、オハイオ州クリーヴランドのケース応用物理学校に教授として迎えられた。ここでレオン・フーコーの回転鏡による光速度測定装置の改良を続け、秒速299853±60kmという記録を達成した。この記録は以後45年間にわたり測定精度の世界記録となるが、1926年にその世界記録を打ち破るのもマイケルソン自身であった。

1882 ヘルマン・ヘルムホルツ ドイツ

ヘルムホルツの自由エネルギー(F=U-TS)

※等温(可逆)過程

ヘルムホルツは熱力学第一法則(エネルギー保存則)において、内部エネルギー(U)からどれだけ仕事(w)を取り出せるか考えた。等温過程(dT=0)においてdU=dQ-dwは、PdV=-d(U-TS)と変形できる。つまり、等温過程で仕事(PdV)として取り出せるのはU-TSであり、ヘルムホルツはこれを自由エネルギー(F≡E-TS)と定義した。自由エネルギーdFは仕事(PdV)であるが、エントロピーSが大きいほど取り出せる仕事は小さくなることが分かる。
1882 トマス・アルバ・エジソン アメリカ

直流発電機直流送電システム

ガス灯アーク灯から電球へ

ファラデーの電磁誘導(1831年)の発見後、ピクシー発電機(ダイナモ)(1832年)を発明した。しかし、社会インフラとして発電機が広く利用されるのは照明電球などの電力需要の高まりを受けてからである(約50年後の1882年)。

1882年、エジソン電気照明会社(現GE)は、ロンドンとニューヨークに直流発電所を設立して直流送電システムを整備した。

【交流直流論争へ】

エジソンは直流発電・直流送電を推奨し、当初はこれの標準化を狙った。しかし、直流送電は高電流・低圧配電のためジュール熱(電流の2乗と電気抵抗に比例)による送電損失が大きく、送電距離を長くできないため、電力消費地ごとに発電所を傍に建造する必要があり非効率だった。そうした中でもエジソンが直流システムに固執した理由は、高電圧は危険だという認識と、既に投資した資本(サンクコスト)が無駄になってしまうから。

その後、電流戦争(交直論争)と呼ばれるように、交流発電・交流送電を推奨するテスラウェスティングハウス陣営との競争が起きる。最終的に、エジソンはこの論争に敗れる。主な敗因は、送電においる交流の優位性にあった。送電損失が小さく長距離送電が可能であり、仮に長距離送電のため途中で電圧が低下しても変圧器を介して再び電圧を高めることが可能である。

■参考:電気事業の幕開け(2) 直流送電から交流送電へ (日本電気技術協会より)

1882 ニコラ・テスラ オーストリア

回転磁界の原理

二相誘導モーター

 
1882 ルイージ・パルミエーリ イタリア

ヘリウム(He)

※地上の物質より

ヴィスヴィオ山の溶岩を分析していた時に、D3線を発見した。これが地球上の物質から見出された初めてのヘリウムの存在を示す実験となった。
1882 グスタフ・キルヒホフ ドイツ

ホイヘンスの原理

波動方程式を解いて、ホイヘンスの原理に理論的な根拠を与えた。

1883

エルンスト・マッハ オーストリア 書物『力学 批判的発展史』 マッハは書物の中で、ニュートン力学の前提となる絶対空間・絶対時間の概念に徹底的な批判を加え、それは経験的に捉えられない形式的な概念に過ぎない、と主張した。
1883 ゴットリープ・ダイムラー ドイツ

ガソリンエンジン、気化器

従来、ガスエンジンに用いた石炭ガスの発熱量は低く、補給無しの自動車の走行距離は数km程度。ダイムラーは発熱量の高いガソリンを利用できる気化器を開発し、4サイクルのガソリンエンジンを開発。
1883 トマス・アルバ・エジソン アメリカ

エジソン効果(熱電子放出)

真空管(熱電子管)の原型

エジソンは白熱電球の管壁にススが付くの抑えるため、フィラメントから離れた位置に別の電極(金属プレート)を封入し、電圧をかける実験を行った。するとジュール熱(電流による熱作用)によって高温に加熱されたフィラメントと、金属プレートとの間に電流が流れることを発見(エジソン効果)。これは加熱によって運動エネルギーを得たフィラメント(陰極)内の自由電子が真空中に放出され(熱電子放出)、正電位の金属プレート(陽極)に流れたためである。

熱電子放出の理論的説明は、オーエン・リチャードソンによってなされる(1910年)。エジソン効果の発見は、後に電気回路のスイッチングとして機能する真空管(熱電子管)の発明(1904年/フレミング)に繋がる。

※比較としてガラス管内の電子の流れである陰極線(1858年)は、陰極を加熱せず、主に高電圧により真空中に放出(冷電子発散・電界電子放出)される自由電子である。

1883

東京気象台

※気象庁の前身

日本

日本初の天気図を作成

明治16年(1883年)、

1884 ヨハン・ヤコブ・バルマー スイス

水素原子スペクトルバルマー系列

中学校の数学教師だったバルマーは、オングストロームによる真空放電時の水素原子の線スペクトルの測定結果に興味深い規則性を見出した。水素原子の4本の可視光領域(赤/青/藍/紫)の線スペクトルの波長が整数を使った簡単な関係式で表現でき、この一連の線スペクトルをバルマー系列と名付けた。

バルマー系列の関係式の発見は、後にボーアが原子内部の電子の在り様を究明する上での重要な手掛かりとなった(1913年/ボーアの原子模型)。

1884 スヴァンテ・アレニウス スウェーデン 電離説 電場を掛けずとも、電解質は溶液に溶かせば一定割合で電離する説を提唱。
1884 オリヴァー・ヘビサイド イギリス

マクスウェル方程式の書き換え

ベクトル形式の4つの方程式群へ

20個の連立微分方程式であるマクスウェル方程式をベクトル形式に直して、4つの簡略化した方程式群に書き換えた。これが現在、我々が目にするマクスウェル方程式である。
1884 チャールズ・A.パーソンズ イギリス

反動タービン(蒸気タービン)

パーソンズは外燃機関である反動タービン(蒸気タービン)の特許を取得。発電用や帆船用の蒸気タービンの実用化の道を開く。
1884 イレール・ド・シャルドネ フランス

人造絹糸(レーヨン)

化学繊維の歴史
1885 ニールス・ボーア デンマーク ニールス・ボーア、誕生  
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1886   日本 東経135度を日本標準時子午線に制定  
1886 ウィリアム・クルックス イギリス 同位体の存在を指摘

元素の原子量が整数値にならない(例えば、塩素は35.457)のは、1つの元素が1種類の原子から構成されず、違った原子量を持つ原子から構成されるためと指摘。

※アイソトープ(同位体)は1912年に質量分析器の原理でJ.J.トムソンが発見する。

1886 アンリ・モアッサン フランス フッ素の単離

フッ素化合物を低温(-50度程度)で電気分解し、発生したフッ素ガスをフッ化カルシウム(蛍石)の容器に捕集。フッ素ガスを初めて単離した。今も基本的にこの方法でフッ素ガスを製造。

※工業的なフッ素生産は、原爆用ウラン製造に関連して始まる。ガス拡散法によるウラン235の分離・濃縮のため六フッ化ウランが大量に作られた。

1886

チャールズ・マーティン・ホール

ポール・エルー

アメリカ

フランス

アルミニウムの工業的生産法

ホール=エルー法

アメリカのホールとフランスのエルーは、1886年にそれぞれ独立してアルミニウムの電気分解を利用した工業的生産法(溶融塩電解法)を発明した。

ポール・エルーは小さな発電機を使って、溶融した氷晶石(融剤として機能)の中に酸化アルミニウム(アルミナ)を混ぜて溶解させ、アルミニウムを炭素電極を用いた電気分解によって析出させる方法を開発した。これを契機に銀よりも高級な貴金属とされたアルミニウムの工業的製法によって、安価に手に入るようになった。

【誕生年、発明年、死没年が同じ】

両名はアメリカとフランスの異なる地で同じ年に生まれ、鉱物に興味を持ち、同じ年に類似のアルミニウムの工業的生産法を発明し、同じ年に亡くなっている。

1886 カール・ベンツ ドイツ

実用的なガソリンエンジン自動車

ベンツはガソリンエンジン搭載の三輪車の特許を取得し、自動車を作製。これが世界最初の実用的なガソリンエンジン自動車とされる。
1886 オイゲン・ゴルドシュタイン ドイツ カナル線(陽極線) 穴を開けた陰極を持つ放電管で放電実験をすると、陰極線とは逆に進む陽極線(カナル線)を発見。カナル線とは、陰極の穴(カナル)を通り抜けることから命名。
1887 ファント・ホフ オランダ

希薄溶液の浸透圧の式

気体と同様に希薄溶液でも浸透圧、濃度、絶対温度の間にボイル・シャルルの法則に相当する関係が成り立つことを熱力学的に示し、定式化。
1887

アルバート・A.マイケルソン

エドワード・W.モーリー

アメリカ

アメリカ

マイケルソン=モーリーの実験

・光速度一定

・エーテルの存在の否定?

光の波動説が優勢の中、長年存在するとされたエーテル(光を伝える媒質)を検出するためにマイケルソン=モーリーの実験が行われた。マイケルソンは1881年に光速度を精密に測定可能なマイケルソンン干渉計を開発し、1882年には光速度が毎秒29万9853kmという高い精度で報告している。エーテルで満ちた宇宙を漂う地球が自転/公転するならば、光が飛来する方向によって光速度に(エーテル自体の動き(風速)による)差が生じると考えた。ちなみに地球の公転速度(対太陽)は毎秒30kmであり、光速度(毎秒30万km)の約0.01%である。

実験の結果、地球の運動方向に関係なく、どの方向に光を走らせても光速度は一定というデータが得られた。エーテル仮説によれば、干渉縞の移動は縞の幅の0.4倍になると予測されたが、実際は0.01倍以下と結論付けられ、期待される数値の1/40程度であった。期待される光速度差は検出できなかったが、マイケルソンはエーテルの存在の否定まではしなかった。世間は実験方法の瑕疵や誤差を理由にして、エーテルの存在を依然支持する風潮が強かった。

【特殊相対性理論への地盤固め】

マイケルソン=モーリーの実験結果を素直に受け入れるならば、アインシュタインが特殊相対性理論(1905年)で前提とした"光速度不変の原理"は、既に実験的裏付けがあったと言える。

1887

ハインリヒ・ルドルフ・ヘルツ

ドイツ

光電効果

※紫外線による電圧変化

陰極線の実験中、陰極に紫外線を照射すると電極間で放電現象が起き、電圧が低下する現象として光電効果を発見。

真空管の陰極から電子を叩き出す方法として整理すると、①陰極線(1858年)を得た電界電子放出、②エジソン効果(1883年)で見られた熱電子放出、に続く3番目の方法。

1887

オリヴァー・ヘビサイド

イギリス    
1888 ハインリヒ・ルドルフ・ヘルツ ドイツ

電磁波(電波)の検出

電磁波の送信装置と受信装置

光の波動説の定着

ヘルツは師ヘルムホルツの勧めで電磁波の研究に取り組んでいた。そしてマクスウェルの死後9年目、マクスウェルが存在を予言した電磁波(光の正体)を実験により初めて検出した

電磁波を発生させる送信装置にはヘルツ発信器(ヘルツ・ダイポール)、受信装置にはヘツル共振器(火花検波器)を使用した。ヘルツ発信器に高電圧を掛けて発生する火花放電が電磁波の送波を意味し、それを離れた場所に置いたヘルツ共振器(火花検波器)のギャップに火花が発生することで受信(検波)できる。実際にはヘルツ発信器から12m離れた場所に反射板を置き、約4mの波長の定常波を作り出し、ヘルツ共振器を少しずつ移動させて火花の大きさを調べることにより、電界強度の周期性を確認した。

ヘルツの研究後、様々な波長の電磁波を発生させる試みが進み、電磁波には様々な波長が存在することが次第に明らかとなる。無線などの通信技術の発展が始まる。

※電磁波の発見は、光を伝える媒質と想定されたエーテルの発見とも解釈されたが、エーテルの存在否定は1905年のアインシュタインによる。

■マクスウェル理論の研究が進む

電磁波の検波によりマクスウェルの理論が実証され、多くの科学者によりマクスウェルの理論が研究されるようになる。マクスウェルの理論に熱中する人たちを称してマクスウェリアンという言葉も出てきたほどだった。光の伝播、屈折、干渉、回折など光に関する諸現象をマクスウェル理論に基づき、電磁波の式を用いて説明しようとする試みが進んだ。

1888 フリードリヒ・ライニッツァー オーストリア 液晶

植物学者ライニッツァーは、コレストロールの一種の実験をする中、固体と液体の中間のようなものがあることを発表。固体から液体になる時に融解点のような温度が二つあり、145℃で温度一定となり白濁化するが、さらに温度を上げると178℃で温度一定となり透明に戻る。

1888

J.ボイド・ダンロップ

イギリス 空気タイヤ  
1888

ニコラ・テスラ

イギリス 多相交流システム  
1889   日本 大日本帝国憲法、発布  
1889

国際度量衡局

フランス

国際メートル原器

国際キログラム原器

イギリス主導の先端技術で原器(国際メートル原器と国際キログラム原器)を作成し、レプリカを加盟国に配布した。メートルとキログラムの定義を次のように定めた。メートルは水の融解しつつある温度における国際メートル原器の長さ、キログラムは国際キログラム原器の質量とする。

※なお1960年に国際メートル原器は廃止、2018年に国際キログラム原器は廃止される。

1889

J.F.フィッツジェラルド

アイルランド

エーテル仮説に基づく物体の収縮

(運動物体の収縮説)

マイケルソン=モーリーの実験(1887年)ではエーテルの風による光速度のズレは検出ができなかったが、当時の物理学者はエーテルの存在を支持する立場から、実験結果(観測可能な光速度は常に一定)と整合するようエーテルの性質を考案した。フィッツジェラルドは、光速度が常に一定になるのは、エーテルの圧力によって物体(測定装置)が収縮するためだと主張した。宇宙に満ちるエーテルの中で地球が運動すれば、光速度も変化するが、その速度変化が測定装置の収縮によって相殺され、観測上、光速度差は検出できないとした。

1889

オットー・レーマン

ドイツ

液晶の微細構造

液晶と命名

結晶学者レーマンはライニッツァーの発見(1888年)を受けて、その物質(コレステロールの一種)を調べた。白濁状態のその液体物質は、固体の結晶構造に似た分子構造を持つことを確認し、そのような状態を"液晶"(liquid crystal)と命名した。

1889     ヘキソーゲン  
1890 ヨハネス・リュードベリ スウェーデン

リュードベリの式

※原子のスペクトル線の公式

水素原子の線スペクトルの公式であるバルマー系列の公式(1884年)と類似した公式が、水素原子以外の他の元素に対しても成り立つことを指摘し、波長の代わりに振動数を用いて公式を整理した。

※後にヴァルター・リッツにより、既知の線スペクトルの振動数から別の未知の線スペクトルの存在を予言する方法(リュードベリ=リッツの結合原理)が発見される(1908年)。

※なおリュードベリの式中の1/2^2の項を、ほかの整数に変えればバルマー系列以外の別の水素原子の線スペクトル系列となり、ライマン系列(1906年)、パッシェン系列(1908年)、ブラケット系列(1922年)、プント系列(1924年)など次々と発見される。

1890

ピョートル・レベデフ

ロシア

放射圧

マクスウェルによる電磁気学の計算では放射圧(光の圧力)が示されていた。レベデフは気圧の影響を取り除くよう高真空での実験を行い、放射圧を検出した。

1890 エドアール・ブランリー フランス

検波の原理

 
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1891 ジョージ・J.ストーニー アイルランド

電子を命名

基本的な電子の単位として、電子(electron)という言葉を導入。
1891 日本、メートル法を導入 日本において使い慣れた尺貫法に加えて、メートル法が法的に公認された。
1891 ホイザーマン ドイツ トリニトロトルエン  
1892 ヘンドリック・ローレンツ オランダ 収縮説による運動物体の収縮式

マイケルソン=モーリーの実験(1887年)ではエーテルの風による光速度のズレは観測されなかった。当時の物理学者は、エーテルが持つ特性により観測可能な光速度は一定となるという理屈を探した。ローレンツは収縮説を主張したフィッツフェラルドのアイデアを数式化した。

σ=(1-(v/c)^2)^(1/2)

ここで運動物体の収縮率σは、光速度cに対する物体の速度vの比率(v/c)に依存する。以下の通り、運動物体の速度vが光速度cに近づくほど急速に観測される運動物体の長さが短くなる。

v=0.1cの時、σ=0.99

v=0.6cの時、σ=0.8

v=0.8cの時、σ=0.6

v=0.99cの時、σ=0.14

またローレンツは1904年に長さだけでなく時間も収縮するとし、ローレンツ変換を公表する。

1892 アンリ・モアッサン フランス 電気炉  
1892 アンリ・モアッサン フランス ホウ素の単離 酸化ホウ素を還元して、初めてホウ素の単離に成功。
1893 ヴィルヘルム・ウィーン ドイツ ウィーンの変位則 黒体の熱輻射スペクトル(波長×強度)の最も強い光の波長λは、そのときの温度に反比例する法則(ウィーンの変位則)を発見。物体の温度を上げると放出される光が、赤、黄、青と次第に短波長側へシフトするという経験的事実を数式化した。

1893

フィリップ・レーナルト ドイツ レーナルト管 レーナルトは陰極線の分析で使用するクルックス管を改良し、陰極から発生する陰極線が衝突するガラス壁の一部を薄いアルミ箔の窓に取り替えた(レーナルト管の発明)。アルミ箔はガラス管内の真空、かつ陰極線は貫通する程度の薄さであり、外に取り出した陰極線の透過力などを調べた。

1893

ハンス・F.ガイテル

ジュリアス・エルスター

ドイツ

ドイツ

光電管 中学教師のガイテルとエルスターは、光電効果による電流を得る装置として光電管を発明。光電管には仕事関数(光電子を飛び出させるエネルギー)の小さいアルカリ金属が使用され、アルカリ金属に対する光電効果を特にエルスター=ガイテル効果と呼ぶようだ。

1893

ジェイムズ・デュワー イギリス デュワーびん 低温実験で液化ガスを保存するのに必要な器を発明。

1893

ルドルフ・マイバッハ ドイツ 霧吹き式気化器 現在とほぼ同じ機能を備えるガソリンエンジンの霧吹き式気化器を発明。
1893 ルドルフ・ディーゼル ドイツ ディーゼルエンジン ガソリンに続き、軽油や重油といった低質油を燃料に使えるエンジン開発が求められた。ディーゼルは、圧縮着火式エンジン(ディーゼルエンジン)を開発。
1893 レオ・ベークランド ベルギー ヴェロックス(印画紙) それ以前の印画紙は日光でなければ因果できなかったが、ヴェロックスなら人工の光でも現像できる。
1894  

日本

日清戦争、開始

※1894年~1895年

 
1894

ロード・レイリー

ノーマン・ラムゼー

イギリス

イギリス

アルゴン(Ar) レイリーは大気から集めた窒素と、アンモニアから分離した窒素を比較して、その密度に差があることに気付いた(1892年)。レイリーは大気から集めた窒素を赤熱するマグネシウム(Mg)と反応させ、残存する気体の密度測定と分光実験をラムゼーと共同で実施し、アルゴン(Ar)は発見された。Arの空気における体積比は0.93%。
1894 オリバー・ロッジ イギリス

コヒーラ(検波器)

無線通信の可能性

 
1894 エミール・フィッシャー ドイツ

単糖類の構造研究

フィッシャーは、ファントホッフ=ルベルの立体化学理論を単糖類の構造研究に応用。既にC6H12C6で示される4種の糖(ブドウ糖,果糖,ガラクトース,リボース)が知られていた。フィッシャーは不斉炭素原子と4面体説に基づき、未知のものも含めて各糖において16個の光学異性体を示した。また16個のうち14個までの光学異性体を合成した。

1895

ヴィルヘルム・レントゲン ドイツ

論文『新種の放射線について』

X線

世界初のレントゲン写真

【陰極線の研究者、レントゲン】

ヴュルツブルク大学のレントゲンも、陰極線を研究する学者の一人であった。陰極線はミクロン単位の薄いアルミ箔なら通り抜けることが知られており、レントゲンは放電管のガラス壁の一部をアルミ箔に置き換えて、陰極線を外に取り出す工夫を施した。また放電管からは陰極線以外に可視光や紫外線が出るため、アルミ箔の窓を残して放電管全体を黒い紙で覆って実験を行った。

【X線の発見】

11月8日、真っ暗にした実験室で陰極線を調べていると、数メートルも離れた場所に置いていた蛍光板(シアン化白金バリウム)が発光することに気が付いた。陰極線をアルミ箔を通して外(空気中)に取り出すといっても、数メートルも空気中を減衰せずに走るはずがない。また可視光や紫外線は黒い紙で遮蔽しているため、その影響も考えられない。

レントゲンは、放電管と蛍光板の間に様々な物質で遮ってみたが、程度の差はあるものの蛍光板の発光は止まず、透過力の異常に高い未知の放射線が発生していると結論付けた。

【レントゲン写真と論文執筆】

X線の発見から1ヵ月後には早くも手の骨が透けて見えるレントゲン写真も撮影された。年の暮れに発表された論文『新種の放射線について』では、「この放射線をX線と呼びたい」と書かれている。また以下のX線に関するデータも発表された。
・X線の透過力のデータ

・シアン化白金バリウム以外の蛍光物質もX線に反応する

・写真乾板がX線に感光する

・X線には屈折・回折が見られない ※X線回折は1912年にラウエらにより発見

・磁場をかけてもX線は進路を曲げない

・陰極線がガラス壁に衝突する部分でX線は作り出されている?

・X線はエーテルの縦振動に起因?

1895

ヘンドリック・ローレンツ オランダ

フィッツジェラルド=ローレンツ収縮

ローレンツ変換

ローレンツはエーテルの存在を前提に、フィッツジェラルドの解釈をエレガントな数式で記述した。理論の整合性を高めるため、エーテルの風によって物体の収縮だけでなく、時間も変化するというアイデアを導入。ローレンツが導出した換算式(ローレンツ変換)に基づいて計算すると、エーテルの風の効果が相殺されて、どの方角から来る光も同じ速度として測定されることになる。

※物理学は理論と実験(実証)が両輪となって発展していくが、この段階では存在が確認されないエーテルに対して観測結果と整合するような新たな特性を付加して理論化しており、理論だけが先行した状態と言える。天動説が地動説に移行する以前は、観測結果と整合するように天動説が複雑に改造されてきたことが想起される。

1895 グリエルモ・マルコーニ イタリア 無線通信機(無線電信)

ヘルツの電磁波の研究(1888年)に触発されて、アンテナを用いた電磁波通信の研究に注力。当初の通信距離は数百m程度だった。その後、英仏間のドーバー海峡(1899年)、大西洋を越えカナダのニューファンドランド島(1901年)まで通信距離は拡大する。

無線通信機の発達は、日露戦争時の通信にも利用される。

1895 アルベルト・アインシュタイン ドイツ

着想「光を光の速さで追いかけたらどうなるのだろう…」

特殊相対性理論への萌芽

16歳のアインシュタイン少年は、光を光の速さで追いかけたらどうなるのだろうと考えた。この光への疑問は特殊相対性理論と関連する最初の思考実験であった。
かつてニュートンがペスト禍(1665年)のため故郷ウールスソープに戻り思索に耽った時期があるが、ニュートン力学確立の萌芽となるリンゴの逸話もこの時だろうと思われる。ニュートンのリンゴに相当するものがアインシュタインにとっての光への疑問である。

1895 ウィリアム・ラムゼー イギリス

ヘリウムの生成・単離

クレーベ石(閃ウラン鉱の一種)に無機酸を反応させて、ヘリウムを生成・単離した。ヘリウムの同定には、分光分析によりD3線を確認している。
1895   日本

石油エンジンを国内製造

東京工業学校(現在の東京工業大学)は1884年に石油エンジンを輸入し、このコピーを試作した。これが内燃機関の国産第1号とされる。大正時代(1912~)になると蒸気機関(外燃機関)に代わり内燃機関がエンジンの主流となる。
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1896 アンリ・ベクレル フランス

天然鉱物の放射性物質(放射能)

写真乾板による放射線の検出

※原子核物理学の始まり

※核エネルギーの発見

ベクレルはレントゲンのX線発見の報告『新種の放射線について』を読んで、蛍光物質は蛍光だけでなく同時にX線も放射しているのではないかと考えた。

そこでベクレルは写真乾板を黒い厚紙で覆い、その上に蛍光を出すウラン化合物を載せて、日光に晒した。太陽光線の作用でウラン化合物(ピッチブレンド)が蛍光し、同時にX線も発生していれば、それは黒い紙を通過して写真乾板を黒く感光させるはずである。数時間後、予想通り写真乾板は黒く感光していた。一旦はこの成果をパリの科学アカデミーで発表するが、その後も実験を継続する中で写真乾板が黒く感光した本当の意味を知る。

パリの天候が悪くなったため、ウラン化合物を黒い紙に包んだまま机の引き出しの中(日光の届かない暗闇)に写真乾板と一緒に置くことがあった。数日後、実験を再開しようと写真乾板を取り出したところ、既に感光していることに気づいた。しかも数時間太陽光線に晒した場合よりも、強く感光していた。このことから、太陽光の照射や蛍光に関係なく、ウラン化合物は絶えず黒い紙を透過する放射線を出し続けていると結論付けた。

※放射能という言葉は、後にマリー・キュリーにより提唱される。

1896 ヴィルヘルム・ウィーン ドイツ

ウィーンの放射法則

※青の公式

※分子論(粒子説)に立ち導出

理想的な黒体(空洞)

ウィーンは理想的な黒体として小さな孔を開けた"黒"の箱(空洞)に着目し、黒体放射スペクトルを精密に測定した。また光を気体分子と似たような粒(分子論)と仮定して黒体放射スペクトルを与える公式を導出した。その仮定は非常に不評であったが、公式は実験値とよく合った。但し、短波長側でよく一致するが、高波長側では大きくズレる"青の公式"であった。

※ウィーンの放射法則の導出で、熱せられた空洞内を飛び交う光を当時主流の波ではなくて、粒として考えた背景には、ボルツマンらによる熱現象(統計熱力学)の説明に倣ったようだ。またその着想は1905年のアインシュタインによる光量子仮説と似ているが、ウィーンの分子論的導出では分子同様に光はどんな運動エネルギーでも持ちうるが、光量子仮説では光のエネルギーは光量子の個数に応じた整数倍しか許されないという違いはある。

1896 アルフレッド・ノーベル スウェーデン ノーベル、逝去。 イタリアのサンレモで没する。遺言状に従いノーベルの遺産をもとに基金を作り、その利子収入を原資に科学5分野のノーベル賞を創設した。
1896 ピーター・ゼーマン オランダ

ゼーマン効果

※ファラデーの最後の実験の再試

ファラデーの生涯を書いたマクスウェルの本で、ゼーマンはファラデーの最後の実験(1862年)について知った。ゼーマンはファラデーの着眼点に触発され、再実験を試みた。ゼーマンはブンゼンバーナーから出るナトリウムの炎を強力な電磁石の磁極の間に置き、放射される光(ナトリウムのD線)をローランド格子(5000本/cmの溝が刻まれた金属鏡)によって分光した。ファラデーの時代に比べて、磁場が強力になり、分光精度はガラスのプリズムよりはるかに向上されたなか、実験は行われた。

結果として、ゼーマンはナトリウムのD線の幅が広がっていることを発見し、その現象を指導教授ローレンツに報告した。ローレンツは原子の内部の荷電粒子の挙動を想像し、ナトリウムのD線は広がるのではなく複数の線に分岐し、その光は偏光すると予測した。ゼーマンはローレンツの指摘通り、D線の分岐と光の偏光を確認した。

※一方で、強い電場作用によりスペクトル線が分裂する現象はシュタルク効果と呼ばれる(シュタルク/1913年)。

1896

ヘンドリック・ローレンツ

ピーター・ゼーマン

オランダ

ゼーマン効果の解釈

比電荷

負の電荷

原子の分割可能性の示唆

ゼーマンの指導教授ローレンツは、ゼーマン効果が起きる原因として、原子の内部には荷電粒子が存在し、振動しており、磁場の作用によって荷電粒子の運動に変化が生じるためと考えた。
ローレンツの理論に基づき、ゼーマンは分岐したスペクトル線の間隔を測定し、荷電粒子の比電荷(電気量eと質量mの比:e/m)を求めた。また偏光の仕方から、原子内の荷電粒子の電荷の符号が負であることを決定した。
以上のように、ゼーマンによりファラデーの最後の実験(1862年)の再試が切っ掛けとなり、

間接的であるが、原子の中に負の電荷を帯びた粒子が運動しているイメージをローレンツの理論に基づいて示された。

1896

スヴァンテ・アレニウス

スウェーデン 二酸化炭素の地表温度への影響

アレニウスは論文『空気中の炭酸が地表温度に及ぼす影響』にて、化石燃料の燃焼によって大気中の二酸化炭素の濃度が変化すれば気候の変動につながる可能性があると指摘。

1897

ジョゼフ・ジョン・トムソン

(J.J.トムソン)

イギリス

電子(陰極線の正体)

比電荷

原子の構成粒子

陰極線の正体について、粒子説とエーテル振動説の二つの説の論争に決着をつけたのがJ.J.トムソンである。

トムソンは、真空度を十分に高めた放電管を用いることで、陰極線が管内の残留気体に衝突して気体を電離させる現象を抑えるよう工夫した。陰極線の電場による屈曲、磁場による屈曲を確認し、陰極線の正体が荷電粒子であると推定した。さらに電場・磁場による屈曲具合から荷電粒子の比電荷(=e/m)を計算し、その値が陰極に用いる物質に拠らず常に一定であることを確認した。またその値はゼーマン効果(1897年)で決定された比電荷の値と良い一致を見せたため、両者の荷電粒子は同じ粒子であると考えられた。なおトムソンは、比電荷の値から荷電粒子(後に電子と呼ばれる)の質量は水素原子の約1/1700(約0.06%)と推定した。

※電子という呼称が定着するのは1900年以降である。

※J.J.トムソンが陰極線の比電荷をある程度一定値として測定できた理由は、陰極線の電子の流れが光速度よりもかなり遅く、相対論効果による質量の増加の影響が小さいため。β線を測定対象とするならば、光速度に近いため速度に応じて比電荷はかなりブレると思われる。

※電子の質量(絶対値)は、後のミリカンの油滴実験(1909年)により測定される。

【ファラデーと電子の発見】

電子は、ゼーマン効果と陰極線の二つの研究により発見された。ゼーマン効果の発見の端緒はファラデーが分光分析によって光源に対する磁気の作用を調べた"最後の実験"(1862年)、陰極線はファラデー暗部(1838年)の発見に始まり、両者ともファラデーに源流を持つ。そしてファラデーが電子の発見にまで至れなかった理由として技術進歩が挙げられる。前者は分光器や電磁石の進歩、後者は真空技術の進歩が挙げられる。

1897 C.T.リーズ・ウィルソン イギリス

断熱膨張装置(霧箱の原型)

霧は塵がなくても発生する

気象学者ウィルソンは、対立していた霧(雲)の生成メカニズム(塵説とイオン説)を解決するため、空気中の全ての凝縮核(塵)を排除した容器でも霧が発生することを実験的に示した。ここで使用した装置は後に霧箱と呼ばれ、大気中に飛び交う荷電粒子の飛跡検出に使用される。
1898

ピエール・キュリー

マリ-・キュリー

※キュリー夫妻

フランス

ポーランド

放射性元素(ウラン、トリウム)

放射能と命名

放射線検出器

ベクレルによりウラン化合物から出る放射線が気体を電離させることは知られていた。マリー・キュリーは、夫ピエール・キュリーがピエゾ電気を利用して考案した電位計を用いて、気体に流れる電流を測定することで放射線強度を求める実験を行った。その結果、放射線強度は化合物に含まれるウランの含有量に比例し、他の元素の含有量に拠らないことを示した。また同様の実験をトリウムについても行い、この元素からもウランと同種の放射線が発生していることが確認された。またこの時に、マリー・キュリーによって自然に放射線を出す性質を"放射能"と呼ぶことを提唱した。
1898

ピエール・キュリー

マリ-・キュリー

※キュリー夫妻

フランス

ポーランド

新元素(ラジウムポロニウム)

※強い放射能を持つ元素

α線源(ラジウム、ポロニウム)

半減期の概念

放射能が発見されたウランとトリウムは元素としては既によく知られていたが、これらを含む化合物を調べるうちに、マリー・キュリーはピッチブレンド(閃ウラン鉱)の中にウランやトリウムよりもはるかに強い放射線を出す未知の放射性元素が存在することに気づいた。

夫ピエール・キュリーの協力を得て、鉱石の中からごく微量しか含まれない2種類の新元素の発見に成功する。1つは化学的性質がビスマスに似たポロニウム、もう1つは放射能がウランの数万倍も強いラジウムである。

ラジウムの場合、鉱石中に含まれる含有量は100万分の1以下であり、1gのラジウムを得るのに約2トンの鉱石を必要とする肉体労働を伴う実験であった。なおラジウムの発見を報告する論文には、半減期という概念も導入されている。

1898

ウィリアム・ラムゼー

トラバース

イギリス

ネオン(Ne)

液体空気の分留を繰り返し、ネオンを分離。現在もネオンの唯一の経済的な供給源は空気である。工業的には冷却空気から液体の酸素と窒素を除去し、残りのガスから水素とヘリウムを分別除去して製造。
1898

ウィリアム・ラムゼー

トラバース

イギリス

 

クリプトン(Kr)

 
1898 ジェイムズ・デュワー イギリス 水素の液化に成功 ジュール・トムソン効果を利用して水素ガスを大量に液化する技術を開発。液体水素の液化温度は20K(-253℃)。
1898 ウィリアム・クルックス イギリス 空中窒素固定法の希求 イギリスの科学会会長クルックス卿は学会の会長講演で「人口増加による食糧危機を救うには空中質素の固定しかない。これこそ化学者の才能に待つ最大にして緊急のテーマである」と強い期待を投げかけた。
1899 アーネスト・ラザフォード

ニュージー

ランド

α線(アルファ線)

β線(ベータ線)

1895年、ラザフォードはJ.J.トムソンの指導のもと放射線とX線による気体の電気伝導に興味を持ち、研究を行った。1899年、天然の放射性物質(U,R,Th等を含む鉱石)から自然に出ている放射線を透過力によって2種類に分類した。透過力の弱い方をα線、強い方をβ線と命名した。なお翌年にヴィラールが発見したβ線よりも透過力の強い3番目の放射線に対して、1903年にγ線と命名した。

1899 ジェイムズ・デュワー

イギリス

水素の固体化

14K(-259℃)で固体水素の製造に成功。

1900 ポール・ヴィラール フランス

γ線(ガンマ線)

※第三の放射線

放射性物質から飛び出す、電荷を持たずβ線よりも高い透過力を持つ3番目の放射線を発見した。当時は電荷と質量を有する放射線(α線、β線)の研究が注目され、この3番目の放射線の発見は注目されなかった。この放射線は、1903年にラザフォードによりγ線と命名された。
1900 アンリ・ベクレル フランス β線の正体⇒高速電子 β線の比電荷を測定し、それが高速の電子の流れであることを証明。
1900

ロード・レイリー

ジェームズ・ジーンズ

イギリス

イギリス

レイリー=ジーンズの式

※赤の公式

※振動論(波動説)に立ち導出

光の波動理論と統計熱力学に基づき黒体輻射の強度とエネルギー波長分布を示すレイリー=ジーンズの式(赤の公式)を示した。黒体輻射スペクトルの長波長側ではよく一致するが、短波長側では全く一致しなかった(紫外発散の問題)。短波長側では無限に細かい波長を想定できるため、存在可能な各波長(各振動数)に対してエネルギー等分配の法則(存在可能な各波長に同じ大きさの波の振幅を配分する)を適用すると、短波長側でエネルギー(波の波高)が無限大に発散し、黒体輻射の総エネルギーも無限大に発散する。

1900 レジナルド・フェッセンデン カナダ

音声信号の無線通信

 
1900

ロード・ケルビン

(ウィリアム・トムソン)

イギリス

ケルビン卿、講演で暗雲を指摘

暗雲①:熱放射理論の破綻

暗雲②:光の媒質エーテルの未検出

1900年4月27日、ロンドンの王立研究所でイギリス科学界の大御所ケルビン卿により講演「熱と光の動力学を覆う19世紀の暗雲」が行われた。古典物理学(力学/熱力学/電磁気学/統計力学)は確立され、既に人類は自然界を支配する法則を全て手にし、今後は本質的に重要な問題は何一つ残されていない…という風潮だった。

そのような中、ケルビン卿は物理学を手こずらせるやっかいな問題(暗雲)が2つだけ残されていることを指摘した。それはすなわち、高温物体から出る光(熱放射スペクトル)の理論の破綻と、光の媒質であるエーテルが検出されない(→光速度がどうやら一定である)ことの問題である。

【暗雲に見るケルビン卿の慧眼】

20世紀に突入すると、エーテルの問題は"光速度付近"の物理現象を描く相対性理論を、熱放射スペクトルの問題は"ミクロ世界(原子)"の物理現象を描く量子論(量子力学)を…という風に現代物理学の双璧を生み出す。そして、双璧を統合することで、場の量子論、素粒子物理学、量子重力理論、統一理論、宇宙論などに発展する。

1900

マックス・プランク

ドイツ

プランクの式(プランク分布)

※黒体輻射スペクトルの公式

プランク定数hの発見

エネルギー量子仮説 (量子仮説)

E=nhv (E=nhc/λ)

※デジタルなエネルギー授受

※振動数とエネルギーの関係性

従来、説明できなかった黒体の熱放射スペクトル分布(ある温度に熱した物体はどういう色の光を出すのか)を、全波長領域で説明可能なプランクの式を発見した。プランクの式から導かれる黒体輻射スペクトルをプランク分布と呼ぶ。

プランクの式が正しく黒体輻射スペクトルを表す理由を調べていく中で、光のエネルギーは振動数に依存する最小単位hvの整数倍(n倍)の値しか取れないという制約が存在することが明らかになった。

プランクは、エネルギーはある塊(量子)として受け渡しされると考えた(エネルギー量子仮説と呼ぶ)が、光自体が粒子のように振る舞うとまでは明言しなかった。

hはプランク定数と呼ばれる固有値(約6.626×10^-34J・s)である。物体と光の間のエネルギーの受け渡しは、このエネルギーの最小単位hvで行われる。可視光の振動数は10^15/sオーダーなので、hvは10^19Jオーダーとなり極めて小さく、当時の検出精度ではその小さな段差に実験的には気付くことはできなかった。

【プランクの立場】

後にアインシュタインが光を粒子として考える光量子の概念(1905年)を導入する。これは黒体輻射のみならず光の一般的な性質としてE=nhvのように振る舞うという主張だ。実際に、光電効果という現象でも光をエネルギー粒子として考えることで矛盾なく説明してみせた。プランクは量子論の扉を開いたものの、彼自身の理論を徹底して古い理論(光の波動説)との調和を目指すことに労力を注いでおり、プランクの考えを押し進めるアインシュタインの光量子仮説(光はエネルギーを持った粒の集まり)を認めようとしなかった。

【古典的な波動説の欠点】

物質が光をエネルギーの塊(hv)として授受するという発想は、光の強度(数)と光のエネルギー(→振動数)を峻別し、スペクトル(振動数vs強度)の正しい見方ができるようになったと言える。古典的な波動説では、強度は波の波高(エネルギー)に対応していたが、振動数はエネルギーとの関係性は特に存在しなかった。従って、光の振動数の水準に関係なく、相互に自由に変換しうるエネルギー的に対応な関係(状態)とみなされ、熱力学(もしくはニュートン力学)において成立するエネルギー等分配則を誤った方法で適用してしまった。