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年表_物理学/化学_19-FH


■19世紀前半(1801~1850)

西暦 人物・機関 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1801 トマス・ヤング イギリス

ヤングの実験(2スリット実験)

光の干渉現象

光の波動説を支持

三原色の説

1800年にヤングはロンドンで医師として開業。また王立研究所教授に就任し、公開講座で光の干渉実験を実施。2リスット実験は光の回折・干渉現象を端的に示し、ヤングは光の干渉縞を初めて観測。干渉縞は波動説では説明可能だが、粒子説では説明が難しい。従来、ニュートンの粒子説(1704年)が優勢であったが、本実験を契機として波動説が改めて脚光を浴びた。なお当時、光は縦波(進行方向に対する振動)と認識されており、依然として粒子説からの波動説への批判の余地は残っている。

1801 ジュゼッペ・ピアッツィ イタリア

小惑星セレス(またはケレス)

小惑星帯(メインベルト)では最大

※ティティウス=ボーテの法則のn=3

天文学者ピアッツィは、火星と木星の間で周っている小惑星を発見。ケレス(セレス)と命名される。経験則のティティウス=ボーデの法則(ティティウス/1766年)のn=3に相当。現在でも小惑星帯(メインベルト)における最大の天体である。

1801 ヨハン・ヴィルヘルム・リッター ドイツ

紫外線(化学線)

紫外線の化学作用

リッターは赤外線の発見(1800年/ハーシェル)に触発され、可視光の反対側(紫色の外側)に着目した。塩化銀を塗布した紙を用いた光化学的手法により紫外線を発見。化学反応を引き起こす能力が高い紫外線は化学線とも呼ばれた。

1802

ウィリアム・ウォラストン イギリス 太陽光の暗線 太陽光スペクトルの中に数本の黒い線(暗線)を発見。

1802

ヴァーシリー・ペトロフ ロシア 電弧放電 (アーク放電)  
1802 トマス・ヤング イギリス エーテル媒体説  
1802 オーギュスタン・フレネル フランス 静止エーテル説 (フレネルは光の媒体であるエーテルは宇宙の重心から見た時、細部は別にして全体として静止しているという仮説(静止エーテル説)を提唱。細部では、静止エーテル中を巨大な星が運行することで、エーテルが部分的に引きずられると考えた。静止エーテル中の光速度は毎秒30万kmであるが、地球表面では地球の運動によって生じるエーテルの風により光速度が異なると推測。静止エーテル説は当時の物理学者にとって常識となった。
1803 ジョン・ドルトン イギリス

書物『化学哲学の新体系』

原子論、原子量(相対質量)

倍数比例の法則

ドルトンは化学反応前後の質量変化より、化合物における倍数比例の法則(倍数組成の法則)を発見。ドルトンが原子の存在を信じる根拠となった。また元素の種類により原子の質量が異なることを指摘し、各元素の原子量(相対質量)を発表。ドルトンは原子は丸いと考え、独自の元素記号を考案した。当時はまだ分子という概念はなく、水素などの単体の気体は、原子が一つ一つ漂うイメージであった。
1803 ウィリアム・ヘンリー イギリス

ヘンリーの法則

 
1804 ナポレオン フランス ナポレイオン、皇帝に即位

ナポレオンはフランス革命(1789年~1799年)に砲兵将校として参加。イタリア派遣軍司令官として勝利し、1799年のクーデターで執政し、1804年に皇帝となる。ナポレオンは電池に関心を抱き、1801年に発明者ボルタをパリに招聘し、電池を用いた実験を見学している。

1805 ジョン・ドルトン イギリス 原子量表 水素の原子量を1とする原子量表を発表。数値はかなり不完全な部分もあった。
1805 ルイージ・ブルグテナリ イタリア

電気めっき法(電鍍)

電池の発明者ボルタ(1799年)の友人ブルグテナリは、電気めっき法を開発。世界初の電着を行った。
西暦 人物・機関 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1806 フェルデナント・ロイス ロシア 電気泳動

ロイスは粘土が混じる水に電場を掛け、陽極側に負に帯電する粘土粒子が集まり濁る一方で、陰極側の水は濁らないことを発見。

1807 ハンフリー・デービー イギリス

アルカリ金属元素

(NaとK)

デービーは化合物に働く化学親和力は電気的な力であり、電流により化学親和力を凌駕できれば化合物を分解できると考えた。そこで電池を用いて苛性カリ(KOH水溶液)の電気分解を行い、陰極にカリウム(K)の析出させた。これがアルカリ金属元素の初の単体分離である。同様に苛性ソーダ(Na2CO3水溶液)からナトリウム(Na)を単体分離した。
1807 ロバート・フルトン アメリカ

蒸気船(汽船)の実用化

汽船(外輪式蒸気船,クラーモント号)によるハドソン川の定期航路を開いた。
1808 ハンフリー・デービー イギリス

アルカリ土類金属元素

(Mg,Ca,Sr,Ba)

電気分解によるアルカリ金属元素の単離・発見(1807年)に続き、4つのアルカリ土類金属元素の単離にも成功。
1808     ホウ素  
1808 ハンフリー・デービー イギリス

アーク放電(電弧放電)

アーク灯

ボルタ電池を電源に用い、2本の炭素棒の先端で発光現象(アーク放電,電弧放電)が起きることを発見。またアーク放電を光源とする世界初の電灯(アーク灯)を発明。
1808 ゲイ・リュサック フランス

ゲイ・リュサックの法則

第一法則

第二法則

第一法則(気体反応の法則)が通常、

第二法則(アモントンの法則,シャルルの法則)

等温等圧下の気体反応では、反応物と生成物の気体の体積には簡単な整数比が成立することを発表。

※水素と酸素から水ができる反応の説明では、酸素原子が半分に分割される必要があり、原子をそれ以上分割不能な極限の粒子と定義したドルトンの原子論では説明できないケースが浮上した。

1808 エティエンヌ・ルイ・マリュス フランス

偏光(直線偏光)

ナポレオンのエジプト遠征で障害を患い帰国した技術軍人マリュスは、透明方解石(氷州石)複屈折の研究に取り組んだ。ある時、宮殿の窓を反射する夕日の光に対して氷州石を通すると、二重に見える景色の一方が暗く見えた。また氷州石を回転させると光の明るさが変化した。その後ガラスの反射光を研究し、偏光(直線偏光)を発見した。

1809 ゲイ・リュサック フランス

断熱自由膨張の実験

(ゲイ・リュサック=ジュールの実験)

一定量の気体を気圧ゼロの真空容器に拡散させた場合、単に体積だけが増加するだけで気体は外部に対して仕事をせず、気体自身のエネルギー(主に温度であり、後に内部エネルギーと表現)はなんら変化しないことを発見。つまり対象となる気体の内部エネルギーは温度に依存し、体積とは無関係であることが示された。なお後にジュールも同様の実験をしていることから、ゲイ・リュサック=ジュールの実験と呼ばれる。
1810 ヘンリー・キャベンディッシュ イギリス

キャベンディッシュ、逝去

膨大な遺稿(実験ノート)

キャベンディッシュが生前発表した重要な研究では、水素の発見(1766年)、水素と酸素による水の合成(1784年)、ねじり秤による地球の密度測定もしくは万有引力定数の測定(1798年)などが有名であるが、これらは成果のほんの一部に過ぎない。

彼の死後、その莫大な財産と一緒に未発表の膨大な量の手稿(実験ノート)が遺される。その実験ノートは64年後の1874年に電磁気学の創始者マクスウェルに解読され、時代を先取りした研究成果が既になされていたことが明らかとなる。

西暦 人物・機関 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1811 イェンス・ベルセリウス スウェーデン

電気化学的二元論

※無機化学のイオン結合の理論

ベルセリウスはデービーとの電気化学研究を基づき、化学結合を包括的に説明する電気化学的二元論を展開。化合物中の原子は電気力で結合し、これが電流により分解されると考えた。各元素の原子は極性を持ち、酸素は全元素の中で最も負、金属は概ね正とした。正と負が引き合い化合物となり、化合物も極性を持つとした。

電気化学的二元論は無機化合物の結合(イオン結合)に有効であったが、1830年以降に発展する有機化学における有機化合物の結合(共有結合)の説明には不向きであった。

1811 アメデオ・アボガドロ イタリア

分子説

アボガドロの仮説

※後にアボガドロの法則

アボガドロはトリノの名家に生まれ、法律を学び弁護士になった。しかし自然科学に興味を抱き気体の研究を始め、1809年にはヴェルチェッリ大学の物理学教授となった。様々な気体を反応させ、反応前後の体積比が整数比になることを発見。「同圧力、同温度、同体積の全ての種類の気体には同じ数の分子が含まれる」という仮説(アボガドロの仮説)を発表。アボガドロの実験は、22.4Lの気体を基準に行われ、水素22.4Lと酸素22.4Lを反応させると水蒸気44.8Lが得られた。この22.4Lという基準の理由は、水素2g、酸素32g、窒素28gなど質量での切りが良いため。

アボガドロの仮説は「分子」の概念を導入した点で重要。気体反応に対するドルトンの原子論による説明が抱えた量的な矛盾をうまく説明した。アボガドロの仮説がアボガドロの法則と呼ばれるのは、分子の実在性が確認された後となる。

1812 マイケル・ファラデー イギリス デービー教授の雑用係を始める 学歴のない製本職人ファラデーは、電気分解による新元素発見で知られるデービー教授の公開実験講義に出席。そこでメモしたノートの清書を製本して自主的にデイヴィー教授に送り届けた。これがご縁となり王立研究所の化学助手として採用され、デービー教授の雑用係りを始める。
1812 ベルナール・クルトア フランス ヨウ素  
1813 イェンス・ベルセリウス スウェーデン アルファベットの元素記号 従来、ドルトンは自著「化学哲学の新体系」で元素記号を図形で表現した。ベルツェリウスはアルファベットによる元素記号を提唱し、現在の元素記号の基礎となった。
1814 ピエール・シモン・ラプラス フランス

書物『確率の哲学的試論』

ラプラスの悪魔

※力学的決定論の権化

ラプラスは『天体力学』(全五巻)の執筆と並行して『確率の哲学的試論』を執筆。その冒頭で力学の解析能力の高さを「宇宙で最も大きな存在である天体の運動も、最も軽い原子の運動も、同一の運動方程式により包括的に記述できる。」と豪語。また決定論的自然観における「確率」の捉え方として、「ある時点で生じている力と物体の状態を知り得て、力学的運動方程式を解析可能な知性にとって、過去も未来も全て確定済みである。一方そうした知性に遠く及ばない人間は、差し当たっては諸現象を確率という手段を用いて論じる他にない。」と表現。ここでラプラスが想定した知性は、デュ・ボア・レーモンの講演『自然認識の限界について』で「ラプラスの悪魔」と表現された。
1814 ヨゼフ・フラウンホーファー ドイツ 太陽光の暗線の再発見

高品質のガラスを作り、光の波長と屈折率の精密測定を行った。太陽光スペクトルに600本近い暗線の存在を確認したが、その解釈まではできなかった。後にキルヒホッフにより、暗線はその波長の光を吸収した物質の存在により作られることが明らかとなる。

1815 ハンフリー・デービー イギリス アーク灯のデモンストレーション 王立研究所にてボルタ電池2000個を用いたアーク灯の点灯実験を実施し、その強烈な光を見せることに成功。長時間点灯のための電源開発など課題も多く、すぐに実用化には至らず。アーク灯の強烈な光は、公園や町通りなど広い場所での照明に適し、屋内照明としては不向きであった。最初の実用化されたアーク灯はイギリスのダンジネス灯台(1862年)である。
1815 ハンフリー・デービー イギリス デービー灯(安全灯)  

1815

デビッド・ブルースター イギリス

ブルースターの法則

ブルースター角(偏光角)

 
西暦 人物・機関 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1816        
1817  ヨアン・アルフェドソン スウェーデン リチウム 鉱物学を修めたアルフェドソンは、ペタル石(葉長石)の分析中にリチウムを発見。鉱物界から初めて発見された元素であり、ギリシャ語の"石"にちなんでリチウムと命名。以後、鉱物界から元素発見が相次いで報告される。
1817 イェンス・ベルセリウス スウェーデン セレン  
1817 フリードリヒ・シュトロマイヤー ドイツ カドミウム  
1818  オーギュスタン・フレネル フランス 光の横波説 偏光現象から光は横波(進行方向に対して垂直に振動)だと結論付け、ヤングの光の干渉理論を修正。
1818 オーギュスタン・フレネル フランス

ホイヘンス=フレネルの原理

※光の回折理論

ニュートンの著書『光学』(1704年)の発表以降、長らく多くの会員は粒子説派であり、粒子説に基づく解明が期待された。1817年3月にはフランス科学アカデミーは、光の回折現象の粒子説での説明を懸賞課題としていた。しかし波動説派のフレネルは、ホイヘンスの要素波(元素波)とトマス・ヤングの干渉に基づき、光が非常に波長の短い波動と考えて回折理論(ホイヘンス=フレネルの原理)を確立。その結果、1819年には粒子説派の期待を裏切り、フレネルが回折現象に関する懸賞に当選した。
1818 デビッド・ブルースター イギリス 光弾性  
1818 ルイ・ジャック・テナール フランス 過酸化水素(H2O2)  
1818 メアリー・シェリー イギリス

怪奇小説『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス

プロメテウスの火としての電気

小説『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』の前書きでは「…屍を蘇らせられよう。ガルヴァーニ電流がその証拠。生物の構成部品を組み立て繋ぎ合わせ、生命の熱を吹き込むことが可能ではないか」と生命原理の本質に言及している。小説では、フランケンシュタイン博士に作られた怪物は落雷のエネルギーにより起動するわけだが、1780年にガルヴァーニが発見した動物電気により屍たる切断されたカエルの脚が再び動き出す様子を想わせる。1799年にボルタによる電池の発明により長時間流れ続ける動電気が利用可能になり、電気実験の研究が進んだ。電気化学分解による新元素発見やめっき技術への応用、アーク灯(アーク放電)の発明など実用面において蒸気機関(ワット/1769年)に続く新たなエネルギー(動力源)として電気が注目された時代。電気と磁気の関係が発見される1820年は電磁気学の始まり年とされ、この小説の登場はそれを予感させる出来事である。フランケンシュタイン博士が生み出した"プロメテウスの火"である怪物により、博士自身が悩まされる物語。

1819 

ピエール・ルイ・デュロン

アレクシス・プティ

フランス

フランス

デュロン=プティの法則

固体のモル比熱は5.9cal/K付近

単純な結晶構造を持つ固体の常温付近でのモル比熱(定積モル比熱)が、約5.9cal/K(=3R)になる経験則(デュロン=プティの法則)を、デュロンとプティが各々独立して実験から発見。

当経験則は常温付近に限られ、低温領域では量子力学的効果により、高温領域では物質固有の特性により値が大きくズレる。

1820  H.クリスチャン・エルステッド デンマーク

電流の磁気作用(エルステッドの原理)

初の電気と磁気の関係

※電気Eから磁気Eへの変換

エルステッドはコペンハーゲン大学在学中、カント哲学に傾倒。独立した力とされた電気と磁気を統一的に捉えられると考え、実験的に電流と磁気の関係を探した。ボルタ電池により導線(白金線など)に電流を流すと、導線の傍に置いた方位磁石(コンパス)の磁針が振れることを発見(1820年2月末頃)。電流の方向・大きさ、磁針の動くタイミング・振れ幅、導線素材の種類、遮蔽物の存在の影響など、現象への理解を深めた。電流には磁石同様に磁気作用があることを結論付け、1820年7月に論文発表。電気と磁気の関係性が示された初の事例であり、すぐさま世界中に広がり、反響が得られた。

※電流の3作用(熱作用/磁気作用/化学作用)のうち、磁気作用の発見。

1820 アンドレ・マリ・アンペール フランス

アンペールの法則

※直流電流の磁場の公式

アンペールの右ネジの法則

エルステッドの電流の磁気作用の発見を聞いたアンペールは、大急ぎで実験装置を誂えて電流の周囲の磁力の発生を調べた。電流に対して発生する磁界の向き・形状(同心円状)、強さ(距離に反比例)の傾向を調べ、アンペールの法則(直流電流の磁場の公式)を発表(1820年9月頃)。電流の進行方向に対して発生する同心円状の磁界の向きは右ネジの法則で表される。エルステッドの報告を聞いて、僅か数週間後の出来事。

1820

ジャン・バティスト・ビオ

フェリックス・サヴァール

フランス

フランス

ビオ=サヴァールの法則

※アンペールの法則の微分表現

1820年10月頃、エルステッドの報告に触発され、電流の周囲の磁力の発生を調べた。アンペールの法則の微分表現に相当するビオ=サヴァールの法則は、微小な導線の長さΔsで示されるため、複雑な導線の形にも適用可能。
1820 フランソワ・アラゴー フランス

電磁石

※人工の永久磁石

鉄の棒に導線に巻きつけ、導線(コイル)に電流を流せば鉄の棒は強く磁化されることを発見(電磁石の発明)。また電流を流すのを止めた後も鉄の棒に磁化が残るため、人工的に永久磁石の作成が可能になった。

1820

   

電流の流れる方向の定義が

浸透し始める

電池(1799年/ボルタ)からエルステッドらの電流と磁気の関係(1820年)が明らかになる頃、「電流は電池のプラス極からマイナス極へ向かって流れる」と考えられるようになった。その後、電子の発見(J.J.トムソン/1897年)により電流は「負の電荷を持つ電子のマイナス極からプラス極への流れ」と判明するが、今も当初の慣例に従って電流の流れる方向は「プラス極からマイナス極」と定めている。

1820

オーギュスタン・フレネル フランス フレネルの公式

フレネルは光の横波説に立ち、偏光が屈折率の異なる媒体を通過する際の屈折・反射の挙動を表すフレネルの公式を発表。

西暦 人物・機関 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1821 アンドレ・マリ・アンペール フランス

アンペールの力(電磁力)

⇒電気Eから運動Eへの変換

磁気作用が認められる電流は、電流同士では磁石同様に磁気的引力・斥力が働くと考えて、アンペールは平行に並べた導線に電流を流し、その力(電磁力,アンペールの力)が働くことを発見。並べた導線に流す電流の向き・大きさ、導線間の距離を調整し、電磁力への理解を深めた。電磁力は磁界の衝突により弱まった磁界を強め、強まった磁界を弱める方向に働く。

1821 マイケル・ファラデー イギリス

電磁気回転の実験

※最初の電動モーター(ファラデー・モーター)

⇒電気Eから運動Eへの変換

ファラデーは電流の磁気作用から運動を起こす実験を行った。電動モーターの原型(ファラデー・モーター)である。容器に水銀を満たしてその中央に棒磁石を立てる。容器の上から水銀に浸るように金属棒を吊り下げ、この電気回路に電流を流す。電磁石となった金属棒と中央に固定された棒磁石とが磁場的相互作用を起こし、金属棒は水銀に浸かりながら棒磁石の周囲を回転運動する。

1821  トマス・ゼーベック ドイツ

ゼーベック効果

熱電効果の一種

⇒熱Eから電気Eへの変換

ボルタの電池(1799年)では、異種金属の接合点を湿った布で覆い、回路を作ることで電流を得た。一方でゼーベックは、同種金属であっても回路内の異なる点で温度差を作ることで、電流が流れることを発見(ゼーベック効果)。温度差を大きくするほど電流も強まる。熱エネルギー(温度差)を電気エネルギーとして取り出す方法と言える。
1822     地動説の書物の禁書が解除 コペルニクス著『天体回転論』、ガリレオ著『天文対話』などの地動説に関する禁書指定が解除された。
1822 ジョゼフ・フーリエ フランス

書物『熱の解析的理論』

熱伝導方程式

フーリエは、熱伝導を解析的に記述する微分方程式を導出。熱が物質の高温部から低温部へ流れる過程が記述できる。変数は温度・位置・時間、定数は物質固有の熱伝導率・比熱・密度である。当時、熱の正体はカロリック説と運動説が併存していたが、考え方がどうであれ熱伝導現象を数学的に表現できるようになった。
1822 カニャール フランス

超臨界流体

臨界点

大砲に水と球を入れて密封し、大砲の温度を変化させながら大砲を叩く音や球を転がす音を調べた。その結果、ある温度を超えると音の変化がなくなる温度(臨界点)の存在に気付いた。この臨界点は、カニャール・デ・ラツール点と呼ばる。

気体の温度・圧力・密度に関する定量的な測定は、1869年にT.アンドリューズにより行われ、超臨界流体の概念が提唱される。

1822        
1823 マイケル・ファラデー イギリス 塩素ガスの液化 加圧と冷却により塩素ガスの液化に成功した。様々な気体(CO2/SO2/H2S/N2Oなど)の液化への挑戦、低温物理・低温技術の発展につながる業績である。
1824 ニコラ・L.サディ・カルノー フランス

書物『火の動力に関する考察』

※カロリック説の立場で綴られる

カルノーの定理カルノーサイクル

※熱Eから仕事Eへの変換効率には上限がある

ニューコメン(1712年)やワット(1769年)らの蒸気機関の発明から100年以上経つ。しかしなお職人の勘や経験に頼る面が多く、蒸気機関の理論的考察は不十分であった。カルノーは熱機関の効率向上のためには、①温度高低差を作ること、②無駄な熱移動の抑制、を指摘。上記2点を踏まえ、熱効率を最大化する理想的な循環過程(カルノー・サイクル、等温膨張→断熱膨張→等温圧縮→断熱圧縮で元に戻るサイクル)を考案。
1825 フランソワ・アラゴー フランス アラゴーの円板  
1825 ピエール・シモン・ラプラス フランス

書物『天体力学』、完結

※全五巻

1799年から刊行開始の『天体力学』が完結。『天体力学』を献上されたナポレオンは「貴下の書物には神のことが書かれていないが?」とラプラスに尋ねられると、ラプラスは「私にはそのような仮説(神の手)は必要なかったのです。」と返答した。

1825 ハンス・C.エールステッド デンマーク

アルミニウム(Al)の単離

※疑義あり

塩化アルミニウムとカリウムを反応させ、微量のアルミニウムが得られた。他の元素と結合しているアルミニウムを化合物から切り離すのは大変手間が掛かる作業であるため、発見直後は金よりも高く、長い間それは高価な貴金属として扱われる。

1825

マイケル・ファラデー イギリス

ベンゼン

1820年代前半、ファラデーは炭素化合物の研究を行い、種々の新物質を発見。ベンゼンもその一つであり、他にイソブテン、テトラクロロエテン、ヘキサクロロエタン、ナフタレンスルフォン酸などの有機化合物を発見。
西暦 人物・機関 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1826 イェンス・ベルセリウス スウェーデン 精密な原子量表

酸素の原子量を基準(100)として、精密な原子量表を作成。

現在の正確な原子量と比べると重金属(Pb等)で大きな乖離がある。化学的性質が同じ同位体(アイソトープ)の発見(1912年)以前であり、その後も原子量は変更された。

1827  ゲオルグ・オーム ドイツ

オームの法則

※電圧と電流の関係

直列合成抵抗

並列合成抵抗

オームの法則とは「電圧Eと電流Iは比例する」というもの。物質固有の特徴(素材や形状)や温度により比例係数(抵抗Rと呼ぶ)が異なるためE=R×Iと表される。抵抗Rの単位はΩ(オーム)。半世紀前に既にキャベンディッシュが電流Iと抵抗Rの関係を発見(未公表)しており、オームによる再発見は1827年となった。

電圧Eの単位:V(=C/J)、電流Iの単位:A(=C/s)、抵抗Rの単位:Ω(=J・s/C^2)

1827 ロバート・ブラウン イギリス

ブラウン運動

植物学者ブラウンは顕微鏡観察から、水に浮かぶ花粉由来の微粒子がランダムに動くブラウン運動を発見。当初、ブラウンはブラウン運動は花粉が生きている証拠だと考えたが、無機物の微粒子でもブラウン運動が観察され、微粒子が小さいほど活発であった。
1828

フリードリヒ・ウェーラー

ビュシー

ドイツ

フランス

ベリリウム

緑柱石から単体金属を分離。緑柱石の美しい結晶はエメラルドやアクアマリンの宝石である。ベリリウムは、緑柱石ベリルの成分であることからドイツのクラップロードが命名(1943年)。

1828

フリードリヒ・ウェーラー

ドイツ

尿素の合成

※有機物の人工合成の端緒

シアン酸アンモニウムの水溶液を蒸発させて、尿素を得た。この尿素合成を契機として、天然有機化合物が人工的に合成できることが初めて認識された。
1829        
1830 イェンス・ベルセリウス スウェーデン 異性体 ベルセリウスは酒石酸とラセミ酸の元素分析を行い、同一組成と確認。このラセミ酸をブドウ酸と呼ぶ提案し、こうした同一組成のものを異性体と呼んだ。 
西暦 人物・機関 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1831 マイケル・ファラデー イギリス

電磁誘導(ファラデーの法則)

⇒運動Eから電気Eへの変換

※変圧器、発電機の始まり

ファラデーは、電流の磁気作用(1820年/エルステッド)とは逆に、磁気を起点として導線(コイル)に電流が流れないものか…と考えた。1831年8月29日、ファラデーは電源のオンオフの瞬間に、別の電気回路(導線)の傍に置かれた磁針が振れることに気付いた。これがファラデーが電磁誘導を発見した瞬間である。続いて同年10月17日、電源のオンオフ(磁場の変化)の代わりに棒磁石を動かすことで、別の電子回路に電流が流れることを確認した。棒磁石を動かす瞬間だけ回路に電流(誘導電流と呼ぶ)が流れ、動かさない時には電流は流れなかった。
1831 マイケル・ファラデー イギリス

電磁誘導による発電機の原理

ファラデーの円盤

磁石の両極の間に円板(銅製)の周辺部を挟むように設置し、円板を回転させる。回転する円板の周辺部は常に磁気作用の変化を受け続け、円板内に誘導電流が流れる。円板の中心部と周辺部に回転の阻害せぬよう、摩擦接触させた回路を作ることで、定常的に流れる誘導電流の取り出しに成功した。
1831 ジェームズ・C.マクスウェル イギリス マクスウェル、誕生 ファラデー(40歳)が電磁誘導を発見した年に、電磁気学を理論的に総括するマクスウェルが誕生。マクスウェルはスコットランドの大地主の跡取りである有産階級の生まれ。10代前半で早くも数学の論文をエジンバラ王立協会で発表する秀才。数学の才は天文学、熱力学、統計力学などで発揮され、電磁気学をニュートン力学に相並ぶ理論体系にまとめ上げる。
1832  ヒポライト・ピクシー フランス 発電機(ダイナモ)

交流電流

整流子

電磁誘導(1831年/ファラデー)を応用した手回し発電機(ダイナモ)を発明。ハンドルを手で回すと永久磁石が回転し、コイルに交流電流を発生する。またアンペールの提案により整流子(電流の向きを切り変えるスイッチ)を付けて、交流電流を直流電流(脈流)に変換。電池も直流電流であるが、脈流ではなく定常的に流れる点で異なる。
1832 ガスパール・G.コリオリ フランス

論文『物体系の相対運動

の方程式』、コリオリの力

地球表面上の物体の運動で、狭い範囲では慣性力として遠心力を考えればよいが、広い範囲での運動を扱う場合(気流・海流・長距離弾道など)、コリオリの力も考慮する必要がある。地球の自転のため、赤道では1670km/h(=0.46km/s)の速度を持つが、北極や南極に移動するとその速度は低下し、極では自転速度はゼロとなる。普段は慣性力として潜む自転運動が、砲弾などの大陸間をまたぐ運動では影響が現われる。

1832 土井利位 日本 書物『雪華図説』 雪の殿様の異名で知られる古河藩主土井利位は雪の結晶の観察図を記した。
1832 ニコラ・L.S.カルノー フランス カルノー、逝去 コレラにより36歳で夭折。
1833 マイケル・ファラデー イギリス

ファラデーの電気分解の法則

電気化学当量

電気の同一性

クーロメーター(電量計)

電源(摩擦電気、電池、電磁誘導、熱電気、電気魚)によらず電気の性質(磁気作用、熱作用、生理的な刺激、火花放電、電気分解など)は、全て同一であると確認。電気分解反応において、クーロメーター(電量計)を用いて電気量と物質の増減量の定量的な関係を調べて、以下2つの重要な法則(ファラデーの電気分解の法則)を発見。析出する物質の量は流れた電気量に比例(第一法則)、電気化学当量は化学当量に等しい(第二法則)。

水素、酸素、塩素、ヨウ素、鉛、錫の電気化学当量は1、8、36、125、58と提案。

1833

マイケル・ファラデー

ウィリアム・ヒューエル

イギリス

イギリス

電気化学の用語を提案

電極、アノードカソードイオン、アニオン、カチオンなどの電気化学用語を提案。

※イオン、アニオン、カチオンは現在までに意味が変化したものの、用語自体は定着した。

※ヒューエルは英語の科学者(scientist)という言葉を作ったことでも知られる。

1833 イェンス・ベルセリウス スウェーデン 高分子(ポリマー)という用語を使用

1800年代の高分子物質の研究は、天然高分子(ゴム・デンプン・タンパク質など)の分析と、低分子化合物から偶然にも得られた合成高分子の分析の2通りで行われた。高分子(Polymer)という用語は、1833年にベルセリウスにより初めて使われた。彼は組成が同じでも分子量の異なる化合物の存在を認め、この区別のためにこの用語を使用した。

1834 ジャン・シャルル・ペルティエ フランス ペルティエ効果(熱電効果の一種) ゼーベック効果(1821年)が、温度差から電流が生じる現象である一方で、ペルティエ効果はその逆で、電流から温度差が生み出される現象である。
1834 ハインリヒ・レンツ ロシア

レンツの法則

※電磁誘導の方向決め

電磁誘導(ファラデー/1831年)では、コイル自身の磁界が棒磁石の動きにより乱されぬように(磁界変化を妨げるように)、コイル内に誘導起電力が生じ、誘導電流の方向が決まる(レンツの法則)。例えば棒磁石のN極側からコイルに進行すると、コイルはN極で押し返せるように誘導電流を流す。逆に棒磁石をコイルから引くと、コイルはS極で引き留められるように誘導電流を流す。
1835     ハレー彗星、接近  
1835 カール・フリードリッヒ・ガウス ドイツ

電場に対するガウスの法則

(電束保存の法則)

発見年は仮置き
1835 カール・フリードリッヒ・ガウス ドイツ

磁場に対するガウスの法則

(磁束保存の法則)

発見年は仮置き
西暦 人物・機関 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1836 フレデリック・ダニエル イギリス 定常電池、ダニエル電池  
1836 エドモンド・デービー イギリス アセチレン  
1837  F.G.W.V.シュトルーヴェ ドイツ

恒星の年周視差

※地動説の証拠

シュトルーヴェは地動説の証拠と言える年周視差を観測するため、ベガ(織女星)を観察し、約1/8秒ほどの年周視差を発見。ベガ(織女星)は、3つの基準(明るいこと、固有運動が大きいこと、連星であれば2星の間隔が十分に離れて見えること)から太陽系に近く年周視差の大きい星として選定された。

1837 宇田川榕庵 日本

書物『舎密開宗

※日本最初の化学書

宇田川により1837年~1847年にかけて著された日本初の体系的な化学書。舎密(セイミ)とはオランダ語の化学(セミー)の音訳で、開宗は根源を開くという意味で、現代語訳すれば「化学入門」となる。

1838 フリードリヒ・W.ベッセル ドイツ

恒星の年周視差

※地動説の証拠

シグニ61の距離(10.4光年)

フラウンホーファー開発の高品質の光学機器を使用し、白鳥座61番星(シグニ61)を1年間観測。その年周視差(地球の公転により星の位置がずれる現象)は0.31秒と測定され、白鳥座61番星までの距離(約10.4光年)が決定された。年周視差は、地球の公転運動の証拠であり、シュトルーヴェのベガの年周視差の発見(1837年)に続き、約300年前にコペルニクスが提唱した地動説を実証。

1838 マイケル・ファラデー イギリス

ファラデー暗部

希薄な空気で満たされた低真空の放電管を起動させると管内の気体が発光(グロー放電)し始める。陰極付近には発光の弱い領域(弱電離領域、ファラデー暗部)が生じる。
1838 ジャン・バティスト・ビオ フランス 旋光性(光学活性) ベルセリウスが発見したブドウ酸と酒石酸の異性体は、光学的性質のみを異にし、一方は偏光面を回転するのに、他方は全く回転しないこと(旋光性,光学活性)を発見。
1839 アンリ・ベクレル フランス ベクレル効果(光起電力効果) 薄い塩化銀で覆った白金電極を電解液に浸し、片方に光を当てると電流(光電流)が流れる現象を発見。光起電力効果の最初の報告。
1839 ルイ・ダゲール フランス 銀板写真法(ダゲレオタイプ)を発表 パリの劇場の背景画家ダゲールは、露光したヨウ化銀板を水銀蒸気で現像し、映像を食塩水により定着する方法を発明。この銀板写真をダゲレオタイプと命名。
1839 トマス・ヘンダーソン イギリス

恒星の年周視差

※地動説の証拠

ケンタウロス座α星の距離(3.3光年)

天文学者トマス・ヘンダーソンは喜望峰の天文台で南半球の全天を観測し、ケンタウロス座α星が1秒余りの年周視差があることを発見し、その距離は約3.3光年と計測。現在でもこの星は、太陽系に最も近い恒星であるとされる。
1839 ドレーパー イギリス 月の写真  
1839 チャールズ・グッドイヤー アメリカ

加硫ゴム

ゴムの加硫法

グッドイヤーはゴムの研究を続け、偶然、ゴムと硫黄の混合物をストーブの上に落とした時に堅い塊が作られた。生ゴムに適量の硫黄を添加して混合加熱すると、生ゴムの性質が著しく改善され、弾性が増し、老化しにくくなることを発見。1841年に特許取得。
1839 チャールズ・グッドイヤー アメリカ

エボナイト

ゴムの加硫法と同時に、加硫率30-40%にした堅く光沢感のあるゴム製品であるエボナイトを発明。
1840    

アヘン戦争、開始

※1840年~1842年

 
1840 ジェームズ・ジュール イギリス

電流の熱作用(ジュールの法則)

ジュール熱

※電気Eから熱Eへの変換

ジュールはエネルギー変換の研究をし、1840年には電気と熱の関係を定量的に調べてジュールの法則を発見。ジュールの法則とは、抵抗を持つ導線に電流を流して生じる熱(ジュール熱と呼ぶ)が電流の2乗と抵抗に比例する現象。単位時間当たりの電気エネルギー(電力W(J/s))は、電圧E(V=J/C)と電流I(A=C/s)の積(J/s)として表され、オームの法則(1827年)の式から電圧Eを消すと電力W(J/s)=抵抗R(Ω)×電流I^2(A^2)となり、ジュールの法則の式が得られる。

1840 ジェルマン・アンリ・ヘス スイス ヘスの法則(総熱量不変の法則)  
1840

ジョージ・エルキントン

(エルキントン商会)

イギリス

電気めっきの産業化

金・銀めっきの特許取得

バーミンガムの製造業者であったエルキントン商会は、商業的採算がとれるものとして最初の電気めっき技術の特許を取得した。
西暦 人物・機関 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1841        
1842 アンリ・ヴィクトル・ルニョー フランス

ボイルの法則からのズレ

※理想気体と実在気体とのズレ

当時、理想気体の挙動を表すボイル=シャルルの法則(1787年)は知られていた。ルニョーは気体の精密実験を行い、気体が圧縮されると理想気体から大きくズレることを確認し、そのズレの原因を分子間力の影響と推察。

※分子間力を考慮した気体の状態方程式はファン・デル・ワールスにより発表(1873年)

1842 フランツ・ドップラー オーストリア

光のトップラー効果

天体から届く光の色(=光の波長)に関する論文を発表。波の振動数は、波源と観測者の相対運動に依存して変化する説を唱えた。
1842 ユリウス・ロベルト・V.マイヤー ドイツ

書物『無生物界の力の所見』

エネルギーの保存

※後の熱力学第一法則へ

熱の仕事当量の計算

マイヤーの関係式

マイヤーは熱の仕事当量の推定にマイヤーの関係式を用いた。マイヤーの関係式とは気体の2種類の比熱(定圧モル比熱Cpと定積モル比熱Cv)がCp-Cv=Rと示されることであり、気体定数R(J/K/mol)は気体が熱による膨張(仕事)に使われた比熱と一致する。つまり各比熱を正確に求めることで熱の仕事当量が計算できる。またマイヤーは電気・磁気・熱・仕事・光・化学反応などの作用の相互変換性と「力」(今で言えばエネルギー)の保存を提唱した。

1843 ジェームズ・ジュール イギリス

熱の仕事当量の測定(1cal=4.2J)

仕事から熱への変換

ジュールは電気と熱の関係(1840年)に続き、仕事と熱の関係を水車の実験から調べた。重り(質量m)の落下を水中に設置した水車の回転に利用し、投じた仕事(mgh)と水温の関係を調べ、1cal=4.2Jと結論付けた。1calは1gの水の温度を1度上昇させるために必要な熱量と定義される。

1847年にアマチュア研究家であるジュール(28歳)は、この実験を学会で発表したが、あまり注目されなかった。しかし発表後に23歳のウィリアム・トムソン(後のケルヴィン卿)が声をかけて研究協力を行う等により徐々に学会内でもジュールの評価は高まった。

1843 ジョン・コーチ・アダムズ イギリス

海王星を予言

天王星(ハーシェル/1781年)の公転軌道の予測と実際の観測結果にズレが見られた。アダムズは、摂動論(ラプラス/1784年)による近似計算方法により未知の第八惑星(海王星)の存在を予言。
1844 ハインリッヒ・シュワーベ ドイツ 太陽の活動周期(約10年)

ドイツのアマチュア天文学者(もとは薬剤師)シュワーベは、水星より内側に存在すると考えられていた惑星バルカンを発見するため、太陽面を通過する物体の様子を観察し、関連して太陽黒点も観察していた。太陽に近い惑星(水星や金星)では、太陽と同じ方向に存在するため太陽が沈む時間帯に空に光っている状態を観察することは難しく、通常、太陽表面を通過する際のシルエットを観察するため、太陽黒点と似た小さな黒い円として見える。シュワーベは1826年~1843年の観測データに基づき約10年周期で太陽黒点の数が増減すると発表。その後も1869年まで観測を続け、8000以上の太陽黒点のスケッチを残している。※現在では太陽の活動周期は11年周期とされている。

1844 アルベルト・F.ドップラー オーストリア 音のドップラー効果

光だけでなく音にもドップラー効果は適用できることを示した。

1844   アメリカ モールス信号の初の公開送信  
1845 グスタフ・キルヒホフ ドイツ

電気回路のキルヒホフの法則

キルヒホフの電流則(第1法則)

キルヒホフの電圧則(第2法則)

 
1845 マイケル・ファラデー イギリス

ファラデー効果 (磁気旋光)

※光と磁場の相互作用

ファラデーは開発した高屈折率のガラスを磁場の中に置き、そこに光を通すと、偏光面が回転する現象(ファラデー効果)を発見した。光と磁気の間に相関があるこをと示した。
1845 マイケル・ファラデー イギリス

反磁性

ガラスと磁石の反発(反磁性)を発見。

1845

クリスチアン・シェーンバイン ドイツ

綿火薬(ニトロセルロース)

シェーンバインが実験中に硫酸と硝酸を零し、それを拭き取るため夫人のエプロンを用い、そのエプロンを乾かそうとストーブの上に吊るした。その後乾くと同時にエプロンは爆発した。エプロン(綿)がニトロセルロースに変化してしまったためである。
西暦 人物・機関 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1846 ヨハン・ゴットフリート・ガレ ドイツ 海王星 惑星軌道の近似解を得る摂動論から導かれる天王星(ハーシェル/1781年)の軌道と、実際の観測結果とに食い違いみられた。これは未知なる惑星の存在を示唆し、計算上予測された位置には海王星が発見された。なお経験則となっていたティティウス=ボーデの法則(1766年)は成立しない位置であった。
1847 ヘルマン・ヘルムホルツ ドイツ

書物『力の保存について』

エネルギー保存則を定式化

※後の熱力学第一法則へ

マイヤーが提唱(1842年)したエネルギー保存の概念を定式化。エネルギーとはギシリャ後で「仕事を含む」という意味。どこかである量のエネルギー(仕事や熱など)が消えると、それに等しい量のエネルギーが、同じ物理系に発生しなければならない。

後にクラウジウスにより熱力学第一法則(1850年)として位置付けられる。

1847 アスカニオ・ソブレロ イタリア

ニトログリセン

ニトログリセリンは破壊力のある爆薬であったが、危険も大きく戦争には使われなかった。

1847 チャールズ・バベッジ イギリス 自動計算機の設計図 階差機関と呼ばれる機械仕掛けの計算機を設計開発。有限階差法という数学の原理を利用して数値計算を行い、その結果を自動的に印刷して打ち出す。
1848 ルドルフ・ウォルフ スイス

黒点相対数の提案

太陽活動周期は約11年

スイスの天文学者ウォルフは太陽黒点の周期性を過去の観測データを集めて系統的な比較を試みた。黒点活動の活発さを表すためにウォルフは黒点相対数という指数を用いた。黒体相対数は、太陽表面に現れる黒点の集団の個数(群数:g)と、(大きさによらず)黒点の個数(黒点数:f)を数えて、R=k(10g+f)で計算される。比例係数kは情報源の異なるデータを比較可能な値へ規格化するための調整項目である。

ウォルフは望遠鏡による観測開始時まで記録を遡り、信頼できるデータのある1745年以降について、平均して約11年の周期があることを確認した。

後にウォルフは1755年をスタートに太陽活動周期を第1期として順に番号を付けて、現在もその方針を引き継がれ、2019年12月から第25期がスタートしたとNASAとNOAA(アメリカ海洋大気庁)が発表(2020年9月15日)している。

1849 アルマン・フィゾー フランス

大気中の光速度の測定

(秒速315300±500km)

フィゾーは天文現象に頼らない、回転する歯車を利用した地上(大気中)での光速度測定に初めて成功した。大気中の光速度は秒速31.53(±0.05)万kmと測定。光源にロウソク、おもり滑車を動力(まだ電気モーターはなかった)にして回転させる歯車、8km先に設置した反射鏡(光の往復距離は16km)、8km先の反射鏡に映るロウソクの見え方を観察する望遠鏡、を用いて反射鏡の光が強く見える時の歯車の回転数から光の往復時間を算出し、光速度を算出した。得られた光速度は実際より5%程度大きいが、当時の器具の限度を考えると、正確なものと言える。参考資料

※天文現象を利用した光速度の測定は、レーマー(1675年)やブラッドリー(1728年)が成功。

1849 ルイ・パスツール フランス

酒石酸の光学異性体

※光学異性体の概念

酒石酸水溶液に直線偏光を通す時、偏光面を右に回す右旋酒石酸と、左に回す左旋酒石酸がある発見。右旋酒石酸と左旋酒石酸を等量混ぜて結晶化させるとブドウ酸になることを発見。また旋光性のないメゾ酒石酸も発見。

※旋光性が分子の立体構造の掌性(キラリティー)によって生じる理論までは言及せず。

1850        
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1850 マイケル・ファラデー イギリス

論文『重力と電気の関係』

※力の統一理論の先駆け

ファラデーは論文の冒頭に記したように、自然界のあらゆる力は相互作用し、同じ起源を持つ一つの基本的な力が、異なる形で現れるものだと考えた。元来、異なるものと思われていた電気と磁気の相互作用が見つかり(エールステッド/1820年)、ファラデーはさらに当時知られていた別の力である重力を結び付ける現象を見つけようとした。

ファラデーは電気と重力の相互作用の存在を見つけ出すため、電磁誘導(ファラデー/1831年)のアナロジーとして、重力場での物体の移動は電流を誘発するかどうかを調べた。

実験結果では重力と電気の関係を示す証拠は得られなかったが、それでも両者の間に関係が存在すると信じる私の気持ちは少しも揺るがないとして、論文を締めくくっている。

1850 レオン・フーコー フランス

水中の光速度の測定

※光の波動説の勝利

光の粒子説と波動説が併存する中、空気中から水中へ光が進む際に、水中の光速度は粒子説では加速し、波動説では減速すると考えられた。フーコーは、回転する鏡を用いて水中での光速度の測定と、大気中から水中へ進む光速度の速度変化を調べた。その結果、水中では光速度が減速したため、これによりニュートンの粒子説に基づく予測(水中の方が光速度は速い)は否定され、光の波動説が支持された。但し、波動説の場合、光を伝える媒質エーテルが必要とするため、その発見は課題として残り続けた。

なお1862年、フーコーは同様の測定方法で真空中で光速度の精密測定を実施している。

【光速度と屈折率の関係】

光速度は真空中では秒速30万km(cと表す)の一定速度で進む。しかし、物質中を進む光は、その物質の屈折率(n)に従い光速度c/nで減速する。真空中ではn=1、水中ではn=1.33となり、水中の光速度は約22.6万kmとなる。

1850 ルドルフ・クラウジウス ドイツ

論文『熱の動力と熱理論』

熱力学第1法則(エネルギー保存則)

熱力学第2法則(エネルギー変換則)

クラウジウスは熱力学として最初の論文『熱の動力と熱理論に関する諸法則』を発表。熱力学の法則として、ジュール、マイヤー、ヘルムホルツらにより既に示されていたエネルギー保存則がある一方で、カルノーが示した熱の変換効率(カルノーの原理)に関する法則に注目し、整理した。

エネルギー保存則は熱力学第1法則として定式化し、カルノーの原理(熱を全て仕事に変換できない)は熱力学第2法則とした。第2法則では、可逆過程において、低温槽における"流入熱量/温度"と高温槽における"流出熱量/温度"の各値が等しいことに注目し、この比率をエントロピーとして定義した。熱機関では実際には不可逆過程であり、エントロピーは

※エントロピーとはギリシャ語で変換・変化を意味するトロペを語源とする。

現在我々が見るdU=dQ-dw(熱の流出入=内部への仕事エネルギー+外部への仕事エネルギー)という形式は1865年の論文で提示された。ここでエネルギー保存則の対象となるエネルギーの形態は、仕事(力学エネルギー)、熱、温度(内部エネルギー)である。

【エネルギー保存則の破綻】

1900年以降確立された量子論では、不確定性原理よりエネルギー保存則(エネルギーは無から生じない)は必ずしも守られていない状況が判明する。実は真空では、瞬間的(10兆分の1など)にエネルギーの発生・消滅が起きており、厳密な意味でのエネルギー保存則は破られている。ちなみに、電荷保存則については厳密に守られ、例えば電子が真空中から突如発生する際には必ず陽電子を伴う対生成となる。逆に消滅する際には両者同時の対消滅となる。但し、電荷のない中性の仮想光子などは対ではなく単独で生成・消滅が起こる。

1850

マセドニオ・メローニ イタリア 赤外線と可視光の同一性 目に映らない赤外線にも反射・屈折・偏向・干渉・回折など諸現象が観察され、その特性は可視光と同じであることを実験により証明。
1850 ブレット兄弟 イギリス

2国間を繋ぐ海底ケーブルの敷設

1840年代、ヨーロッパやアメリカで陸上の電信網(モールス信号)は急速に普及した。一方、海底の電信網は、電線を覆う絶縁物質の開発のため、敷設は遅れていた。その後、絶縁物質の材料としてマレー半島の樹木ガタパーチャ(ゴムの木)の樹液が有望であることが判明し、海底ケーブル敷設の道が開けた。

1848年頃、ブレット兄弟はドーバー海峡(英ドーバーと仏カレーの間の35km)に海底ケーブルを敷設する計画を立てた。イギリスとフランスの双方の承認のもと1850年に海底ケーブルの敷設は完了した。モールス信号による幾つかのメッセージのやり取りに成功したが、翌日には通信途絶。漁師が海藻と思って切断したためとされる。

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ

1801

トマス・ヤング イギリス

ヤングの実験 (2スリット実験)

光の干渉現象

光の波動説を支持

三原色の説

ヤングは1800年にロンドンに医師として開業する。また当年は王立研究所の教授に就任し、公開講座では光の干渉実験を行っている。医師ヤングが光学実験に取り組むようになったのは、人間の視覚に関心を持っていたためだとされる。

2リスット実験は光の回折・干渉現象(波動性)を端的に示す実験であり、ヤングにより初めて干渉現象(干渉縞)を観測された。干渉縞は波動説では説明可能だが、粒子説では説明できないため、これまでニュートンの粒子説(1704年)が優勢であったが、本実験が切っ掛けとして光の波動説が改めて脚光を浴びた。なお、この時点では光は縦波(進行方向に対する波)として認識されており、また以下の通り粒子説側の波動説側に対する批判もあった。

【波動説に対する粒子説の批判】

指摘①:光を波として伝える媒体であるエーテルは一体どこにあるのか?

指摘②:光を縦波とすることによる干渉現象などの説明が不十分であること

※指摘②については、1818年にフレネルにより光の横波説が提唱され、ヤングの干渉理論を修正されたことで解消された。

1801 ジュゼッペ・ピアッツィ イタリア

小惑星セレス(またはケレス)

小惑星帯(メインベルト)では最大

※ティティウス=ボーテの法則のn=3

天文学者ピアッツィは、火星と木星の間に小惑星が回っていることを発見し、ケレス(セレス)と命名される。経験則であるティティウス=ボーデの法則(ティティウス/1766年)おけるn=3に相当。現在でも小惑星帯(メインベルト)における最大の天体である。

1801 ヨハン・ヴィルヘルム・リッター ドイツ 紫外線 (化学線) ハーシェルの赤外線の発見(1800年)に触発され、可視光の反対側(紫色の外側)にも目に見えない光があると考えた。光に反応する塩化銀を塗布した紙を用いた光化学的手法により紫外線を発見した。紫外線は化学反応を引き起こす能力が高く、化学線とも呼ばれた。
1802 ウィリアム・ウォラストン イギリス 太陽光の暗線 太陽光スペクトルの中に数本の黒い線(暗線)を発見。
1802 ヴァーシリー・ペトロフ ロシア 電弧放電 (アーク放電)  
1802 トマス・ヤング イギリス エーテル媒体説  
1802 オーギュスタン・フレネル フランス 静止エーテル説

静止エーテル説とは、宇宙の重心から見た時、細部は別にして全体としてエーテルは静止しているという仮説。但し、太陽や地球といった巨大な星は、静止エーテルの中を運動しているため、エーテルの一部ではこれら物体に引きずられて、部分的に流動している。静止エーテルでは光は毎秒30万kmで直進するが、地球表面では静止エーテルに対する地球の速度(地球の絶対速度)により、エーテルの風が吹くことで観測される光速度はcからズレる値になると考えられた。この静止エーテル説は当時の物理学者にとっては常識と言える説であった。

【地球の絶対速度を検出する試み】

地球表面の光速度のズレを測定することで地球の対静止エーテルでの絶対速度を求めようとする試みが1880年代にマイケルソンによって行われる。最も有名な実験は1887年のマイケルソン=モーリーの実験であった。結論から言えば、光速度のズレは観測されず、静止エーテル説で言えば地球の絶対速度はゼロとなる。しかし地球だけが宇宙の重心に対して静止していると解釈することは天動説の再来であり、容認はされなかった。これを契機にそもそものエーテルに対する考え方の再検討が始まる。

1803 ジョン・ドルトン イギリス

書物『化学哲学の新体系』

原子論

原子量(相対質量)の概念

倍数比例の法則

化学反応前後の質量変化から見出された倍数比例の法則(倍数組成の法則)とは、AとBの2元素が化合してある化合物を作るとき、その化合物を構成するAとBの質量比は簡単な整数比となることであり、ドルトンが原子の存在を信じる根拠となった。元素の種類により原子の質量は異なると指摘し、原子量(相対質量)を発表。ドルトンは原子は丸いと考え、独自の元素記号を考案した。

※分子の概念がなく、水素などの単体の気体は、丸い原子として一つ一つ漂っているイメージだった。

1803 ウィリアム・ヘンリー イギリス

ヘンリーの法則

 
1804 ナポレオン皇帝、即位

ナポレオンはフランス革命(1789年~1799年)に砲兵将校として参加し、イタリア派遣軍司令官として勝利し、1799年のクーデターで執政し、1804年に皇帝となる。

1801年にはナポレオンは電池の発明に強い関心を抱き、発明者のヴォルタをパリに招聘し、電池を用いた実験を見学している。

1805 ジョン・ドルトン イギリス 原子量表 水素の原子量を1とする原子量表を発表。数値はかなり不完全な部分もあった。
1805 ルイージ・ブルグテナリ イタリア

電気めっき法(電鍍)

めっき(鍍金/滅金)

電池(1799年)を発明したボルタの友人のブルグテナリは、電気めっき法を開発し、世界初の電着を行った。
1806 フェルデナント・ロイス ロシア 電気泳動

電気泳動とは、荷電したイオンが電場により移動する現象。ロイスは粘土が混じった水に電場を掛けると、陽極側には負に帯電した粘土粒子が集まって濁る一方、陰極側の水は濁らないことを発見。

1807 ハンフリー・デービー イギリス

アルカリ金属元素

ナトリウム (Na)

カリウム (K)

化学親和力は電気的な力であり、電流により化学親和力を凌駕できれば通常の方法では分解できない化合物も分解できると考えた。デービーは電池を用いて苛性カリ(KOH水溶液)の電気分解を行い、陰極にカリウム(K)を析出させた。アルカリ金属元素の初の単体分離であり、同様の方法で苛性ソーダ(Na2CO3水溶液)からナトリウム(Na)を単体分離した。

1807

ロバートフルトン

アメリカ 蒸気船(汽船)の実用化

汽船(外輪式蒸気船,クラーモント号)によるハドソン川の定期航路を開いた。

1808 ハンフリー・デービー イギリス

アルカリ土類金属元素

マグネシウム (Mg)

カルシウム (Ca)

ストロンチウム (Sr)

バリウム (Ba)

電気分解によるアルカリ金属元素の単離・発見(1807年)に続いて、4種類のアルカリ土類金属元素の単離・発見にも成功した。

1808    

ホウ素(B)

 
1808 ハンフリー・デービー イギリス

アーク放電(電弧放電)

アーク灯

※電灯の始まり

ボルタ電池を電源として、2本の炭素棒の先端でアーク放電(電弧放電)による発光現象が起きることを発見した。またアーク放電を光源とする世界初の電気照明(電灯)であるアーク灯を発明した。

【電灯の始まり】

世界初の電灯であるアーク灯以前の照明は、電気を使わないロウソク、オイルランプ、ガス灯であった。デービーによるアーク灯の発明以降も1860年代までは欧州の個人住宅及び商業施設では概ねガス灯が使われ、1870年代になって僅かではあるがアーク灯がガス灯のシェアを奪うようになった。しかしその後間もなく、新たな電灯として実用性の高い白熱電球(エジソン/1881年)が発売され、電力インフラ整備に伴い白熱灯が普及した。一方、アーク灯はガイスラー管(1855年/ガイスター)など物理実験用途(陰極線の研究)での研究開発が進み、電灯としても1902年に水銀灯(ピーター・クーパー・ヒューイット)が発明されている。

■参考:電力事業の幕開け(1) 直流送電によるアーク灯から白熱灯への供給 (日本電気技術協会より)

1808 ゲイ・リュサック フランス

ゲイ・リュサックの法則

第一法則(気体反応の法則)

第二法則

(アモントンの法則またはシャルルの法則)

第一法則が通常、

等温等圧下の気体反応では、反応物と生成物の気体の体積には簡単な整数比が成立することを発表。

※水素と酸素から水ができる反応の説明では、酸素原子が半分に分割される必要があり、原子をそれ以上分割不能な極限の粒子と定義したドルトンの原子論では説明できないケースが浮上した。

1808 エティエンヌ・ルイ・マリュス フランス

偏光 (直線偏光)

波動説により光の諸現象を説明したホイヘンスは、書物『光学論』(1690年)にて透明方解石(氷州石)の複屈折も研究していた。それ以来、複屈折現象の研究は進んでおらず、フランスの科学アカデミーは複屈折現象の解明を賞金をかけて募集した。

当時、ナポレオンによるエジプト遠征の中、身体を壊して帰国していた技術軍人マリュスは、この複屈折の研究に取り組んだ。ある時、宮殿の窓から反射する夕日の光に対して氷州石を通して見たところ、二重に見える景色の一方が暗く見え、また回転させると光の明るさが大きく変化した。ここからガラスの反射光の性質を研究し始め、偏光(直線偏光)を発見した。

※自然光は非偏光であり、その電場(もしくは磁場)の振動面は様々な方向を向いている。しかし、自然光(非偏光)を何かに反射させたり、鉱物結晶に通すことで、振動面が一方向に限定された光(直線偏光)のみ取り出すことができる。

※方解石や電気石などの結晶は、結晶軸の方向またはこれに垂直な方向に振動する光のみを通すが、この現象は光が縦波(疎密波)ではなく横波(直角波)であることを裏付ける。

1809 ゲイ・リュサック フランス

断熱自由膨張の実験

(ゲイ・リュサック=ジュールの実験)

一定量の気体を気圧ゼロの真空容器に拡散させた場合、単に体積だけが増加するだけで気体は外部に対して仕事をせず、気体自身のエネルギー(主に温度であり、後に内部エネルギーと表現)はなんら変化しないことを発見した。つまり、対象となる気体の内部エネルギーは、温度に依存し、体積とは無関係であることが示された。なお後にジュールも同様の実験をしていることから、ゲイ・リュサック=ジュールの実験と呼ばれる。

1810 ヘンリー・キャベンディッシュ イギリス

キャベンディッシュ、逝去

膨大な遺稿(実験ノート)

キャベンディッシュが生前発表した重要な研究では、水素の発見(1766年)、水素と酸素による水の合成(1784年)、ねじり秤による地球の密度測定もしくは万有引力定数の測定(1798年)などが有名であるが、これらは成果のほんの一部に過ぎない。

彼の死後、その莫大な財産と一緒に未発表の膨大な量の手稿(実験ノート)が遺される。その実験ノートは64年後の1874年に電磁気学の創始者マクスウェルに解読され、時代を先取りした研究成果が既になされていたことが明らかとなる。

1811 イェンス・ベルセリウス スウェーデン

電気化学的二元論

※無機化学のイオン結合の理論

ベルセリウスは自身とデービーの電気化学研究を基づき、化学結合を包括的に説明する電気化学的二元論を展開した。化合物中の原子は電気力で結びつけられており、これが電流で分解されると考えた。各元素の原子は極性を持ち、元素によって程度が異なる。酸素は全元素の中で最も負、金属は概ね正とし、正と負が引き合って化合物が作られ、生成物自体も極性を持つとした。

電気化学的二元論は、イオン結合を有する無機化合物の説明には有効であったが、1830年以降に発展してきた有機化学における有機化合物の結合(つまり共有結合)の説明には不向きであった。

1811 アメデオ・アボガドロ イタリア

分子説

アボガドロの仮説

アボガドロはトリノの名家に生まれ、法律を学び弁護士になったが、自然科学に興味を抱き気体の研究を始めた。1809年にはヴェルチェッリ大学の物理学教授となった。アボガドロは様々な気体を反応させ、反応前後の体積比が整数比になることを発見した。「同圧力、同温度、同体積の全ての種類の気体には同じ数の分子が含まれる」という仮説(アボガドロの仮説)を発表した。

アボガドロの実験は、22.4Lの気体を基準に行われ、水素22.4Lと酸素22.4Lを反応させると水蒸気44.8Lが得られた。この22.4Lという基準は、水素2g、酸素32g、窒素28gなど質量の切りが良いためである。アボガドロの仮説は、分子の概念を導入した点が新しく、ドルトンの原子論で見られた気体反応における量的な矛盾をうまく説明した。

※分子の実在性が確認されてからはアボガドロの仮説はアボガドロの法則と呼ばれる。同圧力、同温度、同体積(22.4L)に含まれる分子の個数は後に6.02×10^23個と見積もられる。

1812 ベルナール・クルトア フランス

ヨウ素(I)

 
1812 マイケル・ファラデー イギリス デービー教授の雑用係を始める

学歴のない製本職人ファラデーは、電気分解による新元素発見で知られるデービー教授の公開実験講義に出席した。そこでメモしたノートの清書を製本して自主的にデイヴィー教授に送り届けた。これがご縁となり王立研究所の化学助手として採用され、デービー教授の雑用係りを始める。

1813 イェンス・ベルセリウス スウェーデン

アルファベットの元素記号

従来、ドルトンは「化学哲学の新体系」で元素記号を図形で表現した。ベルツェリウスはアルファベットによる元素記号を提唱し、現在の元素記号の基礎となっている。

1814 ヨゼフ・フラウンホーファー ドイツ

太陽光の暗線の再発見

高品質のガラスを作り、光の波長と屈折率の精密測定を行った。太陽光スペクトルに600本近い暗線の存在を確認したが、その解釈まではせず。

※後にキルヒホッフにより、暗線とはその波長の光を吸収した物質の存在を示唆することが明らかにされる。

1814

ピエール・シモン・ラプラス

フランス

書物『確率の哲学的試論』

ラプラスの悪魔

※力学的決定論の権化

『天体力学』全五巻を執筆する最中、並行してラプラスは書物『確率の哲学的試論』を著した。その冒頭では、力学の解析能力の高さを次のように豪語した。

「同一の運動方程式によって、宇宙で最も大きな存在である天体の運動も、また最も軽い原子の運動も包括して記述することができる。」

また本書では決定論的自然観における確率の捉え方について次のように表現した。「ある時点の自然を動かしている全ての力と物体の状態を知り、力学的運動方程式を解析できる知性(後にラプラスの悪魔と呼ばれる)にしてみれば、過去も未来も全て確定済みであり、必然的な帰結である。一方で、そうした知性に遠く及ばない人間は、差し当たっては諸現象を確率という手段を用いて論じる他にない。」

※ラプラスが書物『確率の哲学的試論』で想定した知性を"ラプラスの悪魔"と呼ぶようになったのは、デュ・ボア・レーモンの講演『自然認識の限界について』で使われてから。

1815 デビッド・ブルースター イギリス

ブルースターの法則

ブルースター角(偏光角)

 
1815 ハンフリー・デービー イギリス

デービー灯(安全灯)

 
1815 ハンフリー・デービー イギリス

アーク灯のデモンストレーション

王立研究所にて、ボルタ電池2000個を用いてアーク灯の点灯実験を実施し、その強烈な光を見せることに成功した。但し、長時間点灯させるための電源開発など改善点も多く、すぐに実用化とはならなかった。またアーク灯の強烈な光は、公園や町通りなど広い場所の照明には適するが、個人住宅などの屋内照明としては不向きであった。最初の実用化されたアーク灯は、1862年のイギリスのダンジネス灯台である。

1817 ヨアン・アルフェドソン スウェーデン リチウム(Li)

鉱物学を修めたアルフェドソンは、ペタル石(葉長石)の分析中にリチウムを発見した。鉱物界から初めて発見された元素であり、ギリシャ語の"石"にちなんでリチウムと命名した。

1817 イェンス・ベルセリウス スウェーデン セレン(Se)  

1817

フリードリヒ・シュトロマイヤー ドイツ カドミウム(Cd)  
1818 オーギュスタン・フレネル フランス 光の横波説

偏光現象から光は横波(進行方向に対して垂直に振動)だと結論付け、ヤングの光の干渉理論を修正。

1818 オーギュスタン・フレネル フランス

ホイヘンス=フレネルの原理

※光の回折理論

1817年3月にフランス科学アカデミーは、光の回折現象の粒子説的説明を懸賞課題として広く世に問うた。ニュートンの著書『光学』(1704年)の発表以降、長らく多くの会員は粒子説派であり、粒子説に基づく解明が期待された。しかし、波動説派のフレネルが、ホイヘンスの要素波(元素波)の概念とトマス・ヤングの干渉の原理に基づき、光が非常に波長の短い波動であるとして回折理論(ホイヘンス=フレネルの原理)を確立した。その結果、1819年には粒子説派の期待を裏切り、フレネルが回折現象に関する懸賞に当選した。

1818 デビッド・ブルースター イギリス

光弾性

 
1818 ルイ・ジャック・テナール フランス 過酸化水素(H2O2)  
1818 メアリー・シェリー イギリス

怪奇小説『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス

プロメテウスの火としての電気

『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』の"まえがき"では、生命原理の本質に言及しており、「…おそらく屍を蘇らせることができるであろう。ガルヴァーニ電流がその証拠を示している。たぶん生物の構成部品を組み立て繋ぎ合わせて、生命の熱を吹き込むこともできるのではないだろうか」と書かれている。

小説の中で、フランケンシュタイン博士のもとで作られた怪物は落雷によるエネルギーを得て起動するわけだが、1780年にガルヴァーニが発見した動物電気によって屍たる切断されたカエルの脚が再び動き出す様子を想起させる。またガルヴァーニの動物電気の発見から約38年たつが、この間、電池の発明(アレッサンドロ・ボルタ/1799年)により長時間流れ続ける動電気が利用できるようになり、電気実験の研究が進んだ。電気化学分解による新元素発見やめっき技術への応用、アーク灯(アーク放電)の発明など実用面においても蒸気機関に続く新たなエネルギー(動力源)として電気が注目された時代である。『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』における"プロメテウスの火"とは、ここでは新たに登場したエネルギーである電気だと指摘される。フランケンシュタイン博士が生み出した"プロメテウスの火"だある怪物によって、博士自身が悩まされる物語である。

電気と磁気の関係が相次いで発見される1820年は、電磁気学の始まり年とされるが、この怪奇小説の登場はそうした電磁気学の発展を予感させる出来事である。

1819

ピエール・ルイ・デュロン

アレクシス・プティ

フランス

フランス

デュロン=プティの法則

固体のモル比熱は5.9cal/K付近

常温において比較的単純な結晶構造の固体のモル比熱(定積モル比熱)が、約5.9cal/K付近(=3R)となる経験則をデュロン=プティの法則と呼ぶ。デュロン及びプティがそれぞれ独立して実験的に見出して公表した。なお低温領域では量子力学的効果のため当法則から外れ、また高温領域であっても物質固有の特性によるズレを説明できるものではない。

【その後の比熱理論の展開】

デュロン=プティの法則は比熱理論というよりは定性的な経験則であった。古典物理的な比熱理論は、気体分子運動論(1860年/マクスウェル)やエネルギー等分配の法則など統計力学の

進展に伴い、ボルツマンにより1871年にデュロン=プティの法則は説明される。但し、低温域の比熱理論は量子論的な取り扱いが必要になる。量子論では固体の振動の熱エネルギーの授受の仕方は、ある単位量の整数倍のエネルギーごとしか許されていない。アインシュタインはアインシュタイン模型(1907年)を使い、低温領域では固体の振動が熱エネルギーを一切受け取らない状態となり、比熱が低下する量子論を踏まえた比熱理論を発表した。次にデバイがアインシュタイン模型に固体全体の格子振動(フォノン)も考慮したデバイ模型(1912年)を提唱し、低温領域での実験データとのズレを解消した。

1820 電磁気学の始まりの年  
1820 H.クリスチャン・エルステッド デンマーク

電流の磁気作用(エルステッドの原理)

※1820年2月末頃に発見

※1820年7月に論文発行

電気と磁気の関係性

⇒電気Eから磁気Eへの変換

エルステッドはコペンハーゲン大学在学中、カント哲学に傾倒していた。カント哲学の中でも、多様な自然を"力"という概念で統一的に捉えようとする考え方から、エルステッドは大きな影響を受けていたと思われる。エルステッドは電気と磁気も"力"という概念で統一的に捉えられると考え、電流と磁気の関係を見つけようと実験を行った。

ボルタ電池を電源として導線(白金線など)に電流を流すと、導線と傍に置いた方位磁石(コンパス)の磁針が振れることを発見した。以下の点が確認された。

・導線の傍に非平行にコンパスを置いて電流を流すと、導線に垂直方向に磁力が働く。

・電流の向きを反転させると磁針の振れる向きも反転する。

・導線(電流)と磁針の距離を離すほど磁針の振れ幅も減少する。

・導線の金属材料を変えても、電流を流した時の磁針に及ぼす結果は同じ。

・導線と磁針との間に遮蔽物を置いても、磁針の振れは影響を受けない。

以上より、電流には磁石と同様の磁気作用がある(電気エネルギーが磁気エネルギーに変換される)ことが明らかとなった。従来(ウィリアム・ギルバード/1600年)より独立した現象とされてきた電気と磁気の間の関係性が示された初の事例であり、すぐさま世界中に大きな波紋が広がった。

※電流の3作用(熱作用、磁気作用、化学作用)のうち、磁気作用の発見。

1820 アンドレ・マリ・アンペール フランス

アンペールの法則

※直流電流の磁場の公式

アンペールの右ネジの法則

※1820年9月頃に発見

エルステッドの論文は1820年7月に刊行され、フランスでは9月11日の科学アカデミーの定例会議で報告された。それを聞いたアンペールは、大急ぎで実験装置をあつらえ実験を行い、電流の周りの磁力の発生を調べた。

電流の周りに発生する磁界(磁力)の向きは電流に垂直で、その磁場の向きを繋ぐとぐるりと一周回転したような形を描くこと、磁場の強さは電流の大きさに比例し、距離に反比例することを発見した。アンペールはこの回転的な磁場の理論式を表し、この式はアンペールの法則(直流電流の磁場の公式)と呼ばれるようになった。また電流の進行方向に対して生じる同心円状の磁界の向きは右ネジの法則として表される。以上はエルステッドの実験の話を聞いてから、わずか数週間後のことだった。

※磁界は記号Hで表し、単位はA/m。 

1820

ジャン・バティスト・ビオ

フェリックス・サヴァール

フランス

フランス

ビオ=サヴァールの法則

※1820年10月頃

エールステッドの実験に触発され、電流の周りの磁力の発生を調べた。ビオ=サヴァールの法則はアンペールの法則の別の数式表現だが、微小な長さの導線Δsで示されるので、複雑な導線の形にも適用できる。ビオ=サヴァールの法則の積分がアンペールの法則に相当する。
1820

フランソワ・アラゴー

フランス

電磁石

人工の永久磁石

鉄の棒に導線に巻きつけて、その導線(コイル)に電流を流すと鉄は強く磁化される(磁石になる)ことを発見(電磁石の発明)。また電流を流すのを止めた後も鉄の棒に磁化が残る人工的な永久磁石も得られた。
1820 電流の流れる方向の定義が浸透し始める ボルタによる電池の発明からアンペールらによる電流と磁気の関係が明らかになる頃、「電流は電池のプラス極からマイナス極へ向かって流れる」とされるようになった。その後、電子の発見(J.J.トムソン/1897年)により電流の正体は「負の電荷を持つ電子のマイナス極からプラス極への流れ」と判明したが、現代でも昔ながらの慣例に従い電流の流れる方向は「プラス極からマイナス極」と決めている。
1820 オーギュスタン・フレネル フランス

フレネルの公式

フレネルは光の横波説に立ち、偏光が屈折率の異なる媒体を通過する際の屈折・反射の挙動を表すフレネルの公式を発表。

1821 アンドレ・マリ・アンペール フランス

アンペールの力(電磁力)

※電流の磁気作用同士の力

⇒電気Eから運動Eへの変換

電流に磁気作用があるならば、磁石と見立てられる電流同士にも磁気的引力・斥力が働くのではと考えて、アンペールは実験により以下の内容を確認した。

・磁石による静磁場の中に導線を置き、電流を流すと導線に力が働く。

・2本の導線を平行に並べ、電流を同じ向きに流すと導線間に引力が働く。

・2本の導線を平行に並べ、電流を逆の向きに流すと導線間に斥力(反発力)が働く。

・力の大きさは、各々の導線の電流の大きさの積と、導線の長さに比例し、導線間の距離に反比例する。

一定の磁界と、そこに置かれた導線に電流を流して発生する同心円状の磁界(アンペールの法則/1820年)との相互作用によって生じる力を電磁力(アンペールの力)と呼ぶ。磁界の衝突によって磁界に強弱(密度)バラツキが発生するが、電磁力は、相殺され弱くなった磁界を強め(磁力線の膨らみを解消)、強め合った磁界を弱める(磁力線の過密を解消)方向に働く。

【電流の強さの定義】

電流の強さの定義は、このアンペールが行った実験に基づく。つまり1Aとは、1mの間隔を置いて平行に張った導線に等しい電流を流した時に、導線1mの長さに2×10^-7Nの力が働くときの電流の強さとされる。

【フレミングの左手の法則】

電気工学教授だったジョン・フレミングは1884年頃、フレミングの左手の法則を考案。固定した磁界内にある導体に電流が流れた際に、導体に働く電磁力の方向を調べる左手を用いた方法。

1821 マイケル・ファラデー イギリス

電磁気回転の実験

※最初の電動モーター(ファラデー・モーター)

⇒電気Eから運動Eへの変換

エルステッドの発見の翌年、電流の磁気作用を運動に変える電動モーターの原型(ファラデー・モーター)となる実験を行った。容器に水銀を満たし、その中央に棒磁石を立てます。容器の上から水銀に浸るように吊り下げた金属棒を含む電気回路に電流を流すと、金属棒の周囲に磁場が形成され、中央に固定された棒磁石との磁場と相互作用を起こし、金属棒が水銀に浸かりながら棒磁石の周囲を回転運動するようになっている。

1821 トマス・ゼーベック ドイツ

ゼーベック効果

熱電効果の一種

⇒熱Eから電気Eへの変換

ボルタの電池(1799年)では、異種金属の接合点を湿った布で覆い、回路を作ることで電流を得た。一方でゼーベックは、同種金属であっても回路内の異なる点で温度差を作ることで、電流が発生することを発見(ゼーベック効果と呼ぶ)。温度差を大きくするほど電流も増す。熱エネルギー(温度差)を電気エネルギーとして取り出す方法である。

1822

コペルニクス著『天体回転論』、ガリレオ著『天文対話』など

地動説に関する禁書指定が解除

 
1822 ジョゼフ・フーリエ フランス

書物『熱の解析的理論』

熱伝導方程式

熱伝導を解析的に記述する微分方程式を導出。温度・位置・時間を変数とし、定数として物質固有の熱伝導率、比熱、密度がある。熱が物質の高温部から低温部へ流れる過程が記述される。当時、熱の正体はカロリック説と運動説が併存していたが、正体に係わらず熱伝導現象は数学的に表現できるようになった。
1822 カニャール フランス

超臨界流体

臨界点

大砲に水と球を入れて密封し、大砲の温度を変化させながら大砲をたたく音や球を転がす音を調べた。その結果、ある温度を超えると音の変化がなくなる温度(臨界点)があることに気付いた。この臨界点は、カニャール・デ・ラツール点と呼ばれていた。

気体の温度・圧力・密度に関する定量的な測定は、1869年にT.アンドリューズにより行われ、超臨界流体の概念を提唱する。

1822 シャンポリオン フランス

ロゼッタ・ストーンの解読完了

言語学者シャンポリオンにより解読完了。ロゼッタ・ストーンには本質的には同一の文章が、三つの書記法(古代エジプト語のヒエログリフおよびデモティック、ギリシャ語)で書かれていることは早くから指摘され、解読完了により他のヒエログリフで書かれた文書の翻訳も進んだ。

1823 マイケル・ファラデー イギリス

塩素ガスの液化

加圧と冷却により塩素ガスの液化に成功した。様々な気体(CO2/SO2/H2S/N2Oなど)の液化への挑戦、低温物理・低温技術の発展につながる業績である。

1824 ニコラ・L.サディ・カルノー フランス

書物『火の動力に関する考察』

※カロリック説の立場で綴られる

カルノーの定理

カルノーサイクル

※熱Eから仕事Eへの変換効率には上限がある

 

ニューコメン(1712年)やワット(1769年)ら蒸気機関の発明から100年以上経つが、なお職人の勘や経験に頼る面が多く、書物の冒頭でカルノーが述べたように蒸気機関における理論面での考察はいまだ不十分であった。

火力機関(熱機関)の効率を上げるためのカルノーの主張は次に二点。

①温度の高低差を作る

熱の効率的な移動には、高温物体と低温物体が必要で、その温度差が大きいほど優れている。

②無駄な熱の移動を抑える

熱機関の運動によって金属部品同士の摩擦熱は動力に使われない。

以上の二点を踏まえ、カルノーは機関の熱効率を最大化させる理想的な循環過程(カルノー・サイクル、等温膨張→断熱膨張→等温圧縮→断熱圧縮で元に戻るサイクル)を考案した。

カルノーサイクルでは2つの等温過程(等温膨張・等温圧縮)と2つの断熱過程(断熱膨張・断熱圧縮)からなる線分(横軸V/縦軸P,P-V図)で囲まれた四角形の面積が熱機関の正t味の仕事(外部にした仕事-外部からされた仕事となる。カルノーサイクルの熱効率は、1-Tl/Thと表され、要するに高温の熱源(Th)と低温の熱浴(Tl)の温度差だけで決まる。温度差の大きいほど、効率的な熱機関であると言える。

①等温膨張:加えた熱でゆっくり気体の体積が膨張する(ピストンは引き出される)

②断熱膨張:ピストンを引いて、さらに気体の体積を膨張させて温度は下がる

③等温圧縮:下がった温度のままゆっくりとピストンを押して体積を圧縮する

④断熱圧縮:さらにピストンを押して、体積を圧縮し温度を上げる

等温過程

等温過程ではボイルの法則に従い、温度一定とはつまり気体の内部エネルギー(=分子の運動エネルギー)は変化しないということ。つまり、熱の流入による体積膨張は全て仕事エネルギーに使われ、逆に体積圧縮の際は熱として外部に逃げることを意味する。

断熱過程

断熱過程では熱の流出入がなく、気体の仕事エネルギーと内部エネルギー(温度)の間で各種エネルギーが変換される。断熱での体積膨張(仕事エネルギーの放出)は温度低下(内部エネルギーの低下)となり、体積圧縮(仕事エネルギーの吸収)は温度上昇(内部エネルギーの増加)となる。

【エンジンの熱効率の状況】

熱効率は、初期のニューコメン機関で1%未満、ワット機関で数%、現代のガソリンエンジンで20%、ディーゼルエンジンで40%である。現代のエンジンでも熱効率が数十%ということは、残りの大部分は熱として放出されており、通常エンジンは冷却器(空冷・水冷など)なくしては金属が溶けてしまう。ジェットエンジンや発電タービンには高融点の特殊金属材料(1300度~1500度の高温を利用可能)を使うことで熱源の温度を高めて熱効率を高めている。熱効率を高める方法としては、排熱を再利用するコンバインドサイクル発電を複合すれば熱効率は50%以上(2割増し)となる。

【カルノーサイクルは可逆過程】

カルノーサイクルは摩擦熱などの不可逆過程を排除した可逆過程を想定し、時計周り、反時計回りも可能である。時計周りでは温度差から仕事を取り出す過程である一方、反時計周り(逆カルノーサイクル)は仕事から温度差を作り出す(ヒートポンプ,低温部から高温部への熱流)である過程である。ヒートポンプはエアコンなどに利用される。

1824 フランソワ・アラゴー フランス

アラゴーの円板

 
1825 ピエール・シモン・ラプラス フランス

書物『天体力学』、完結

※全五巻

力学があれば神の出る幕はない

1799年から刊行開始した『天体力学』では、摂動論を駆使して太陽系の安定性を証明した(詳細は1799年)。

ラプラスから『天体力学』を献じられたナポレオンは「貴下の書物には神のことが書かれていないが?」と尋ねると、ラプラスは「私には、そのような仮説(神の手)は必要なかったのです。」と答えたと伝えられている。

1825 ハンス・C.エールステッド デンマーク

アルミニウム(Al)の単離

※疑義あり

塩化アルミニウムとカリウムを反応させ、微量のアルミニウムが得られた。他の元素と結合しているアルミニウムを化合物から切り離すのは大変手間が掛かる作業であるため、発見直後は金よりも高く、長い間それは高価な貴金属として扱われる。

【アルニミウムの工業的製法】

1886年、ホールやエルーの両名が独立してアルミニウムの電気分解による工業的生産法を確立する。当時でもアルミニウムは銀より高価であったが、工業的生産法よってアルミニウムは安価で手に入る金属となり、素材としての軽さと強さといった利点から様々な産業分野への利用も始まる。

1825 マイケル・ファラデー イギリス

ベンゼン

1820年代前半、ファラデーは炭素化合物の研究を行い、種々の新しい物質を発見した。ベンゼンもその一つであり、他にイソブテン、テトラクロロエテン、ヘキサクロロエタン、ナフタレンスルフォン酸などの有機化合物を発見した。
1826 イェンス・ベルセリウス スウェーデン

精密な原子量表

酸素の原子量を基準(100)として、精密な原子量表を作成。

※現在の正確な原子量と比較すると、重金属(Pbなど)では大きな乖離が見られる。化学的性質が同じ同位体(アイソトープ)の発見(1912年)以前であり、その後も原子量は変更された。

1827 ゲオルグ・オーム ドイツ

オームの法則

※電圧と電流の関係

直列合成抵抗

並列合成抵抗

オームの法則とは「電圧Eと電流Iは比例する」というもの。ただ物質固有の特徴(素材や形状)や温度によりその比例関係の傾き(この比例定数を抵抗Rと呼ぶ)が異なるのでE=R×Iと表される。抵抗Rの単位はΩ(オーム)である。

既に半世紀前にキャベンディッシュが電流Iと抵抗Rの関係は調べられていたが、未公表だったとされる。オームによる再発見は半世紀後の1827年となった。

電圧Eの単位:V(=C/J)、電流Iの単位:A(=C/s)、抵抗Rの単位:Ω(=J・s/C^2)

1827 ロバート・ブラウン イギリス

ブラウン運動

植物学者ブラウンは顕微鏡観察で、水に浮かべた花粉由来の微粒子がランダムに動くブラウン運動を発見。当初、ブラウンはブラウン運動は花粉が生きている証だと考えたが、無機物の微粒子でもブラウン運動が観察された。微粒子が小さいほどブラウン運動は活発であった。後に、水分子が衝突してブラウン運動を引き起こしていることが明らかになる。

1830 フランス七月革命  
1831 マイケル・ファラデー イギリス

電磁誘導(ファラデーの法則)

⇒運動Eから電気Eへの変換

※変圧器、発電機の始まり

電流の磁気作用(1820年/エルステッド)とは逆に、磁気によって導線(コイル)に電流が流すことはできないか…とファラデーは考えた。

■最初の気づき(8月29日の日誌)

電気回路Aの電流のオンオフのスイッチの瞬間に、別の電気回路Bに関連する磁針が触れたことである。

■電磁誘導の発見(10月17日の日誌)

次にファラデーは電流の磁気作用ではなく、普通の磁石の磁気作用で試した。導線(コイル)に棒磁石を近づけたり離したりすると、棒磁石を動かす瞬間だけ導線(コイル)に電流(誘導電流と呼ぶ)は流れ、動かさない時にはコイルに電流は流れないことを確認した。これをもって電磁誘導の発見に至った。

電流(電荷の動き)はその周囲に磁場を発生させる一方で、磁場の動き(電流に対して磁流?)はその周囲に電場を発生させることを示した。また電磁誘導では動くのは棒磁石である必要はなく、回路(コイル)側が動く場合にも起こる。相対的な動きにより結果として、回路(コイル)を通過する磁場の強さが変動すればよい。

※磁界の時間的変化と誘導電流の方向の関係はレンツの法則(レンツ/1834年)で指摘。

※電磁誘導により力学的エネルギーを電気に変換する発電機が作られ、電池では困難な大規模発電や交流電流を作り出せる。

【フレミングの右手の法則】

電気工学教授だったジョン・フレミングは1884年頃、フレミングの右手の法則を考案。棒磁石などの固定された磁界内で、導体(コイルなど)を動かした際に、その導体内に発生する誘導電流(誘導起電力)の方向を調べる右手を用いた方法。右手の法則も左手の法則も、磁場は固定された前提である。

【ファラデーの日誌】

ファラデーは1820年(29歳)から1862年(71歳)まで42年間にわたり、毎日詳細な実験記録を日誌として書き留めている。1831年8月29日の日誌を見ると電磁誘導発見の歴史的な瞬間が綴られる。

【電磁誘導の発見が遅れた理由】

エルステッドが電流の磁気作用を発見(1820年)すると、その逆方向の作用である磁気による電流の誘発も多くの学者によって推論されたと思われるが、10年余りその発見は遅れた。それは単に電流の磁気作用の作用圏内に良導体を置いただけでは、良導体に何ら電流が誘起されなかったためである。ただ電気回路の横で磁石を動かすということ自体は実験室内で日常的にあり得ない事態とは考えづらい。検流計の役割を示す磁針が、単に動かした磁石の磁場の変化に反応しているのか、それとも電磁誘導により発生する磁場に反応しているのか、分かりづらかったのかもしれない。

1831 マイケル・ファラデー イギリス

電磁誘導による発電機の原理

磁石の両極の間に円板(銅製)の周辺部が挟まるように設置し、円板を中心軸で回転させる。その結果、回転する円板の周辺部は常に磁気作用の変化を受け続け、円板内には電磁誘導が起きる。円板の中心部と周辺部に回転の阻害にならぬよう、摩擦接触させた回路を作ることで、定常的に生じる誘導電流を取り出すことに成功した。
1831 ジェームズ・C.マクスウェル イギリス

マクスウェル、誕生

ファラデー(40歳)が電磁誘導を発見した年に、電磁気学を理論的に総括するマクスウェルが誕生する。マクスウェルはスコットランドの大地主の跡取りとして生まれた有産階級の生まれ。10代前半で早くも数学の論文をエジンバラ王立協会で発表している。彼の数学の才は天文学、熱力学、統計力学などで発揮され、電磁気学をニュートン力学に相並ぶ理論体系にまとめ上げる。
1832 ヒポライト・ピクシー フランス 発電機(ダイナモ)

交流電流

整流子

電磁誘導(1831年/ファラデー)を応用した手回し発電機(ダイナモ)を発明。ハンドルを手で回すと永久磁石が回転し、コイルに交流電流を発生させる仕組み。またアンペールの提案により整流子(電流の向きを切り変えるスイッチ)を付けて、交流電流を直流電流(脈流)に変換できるよう工夫を凝らした。但し、直流電流といっても電池のような定常直流ではなく、脈打つ直流(脈流)である。

※脈流を電池のような定常直流に調整する平滑回路には、真空管が必要になる。

【電源の発展史】

電源の発展史を振り返ると、静電気を溜められるライデン瓶(1745年)は瞬発的な電流(放電)、化学反応による電池(1799年)は連続的(逓減的または定常的)で比較的小さな直流電流、力学的運動による発電機(1832年)は色々と調整可能な大電力が得られる電源という風に登場してきた。

【電力需要拡大の端緒】

大電力を得やすい発電機は発電所の建設のために必須であるが、そもそも電力需要がなければならない。本格的な電力需要は、実用レベル(600時間以上の連続点灯が可能)の白熱電球の発売(1881年/エジソン)など照明産業の発展が後押しした。

1832 ガスパール・G.コリオリ フランス

論文『物体系の相対運動の方程式』

コリオリの力

地球上の物体が狭い範囲で運動する場合には慣性力として遠心力のみを考えればよいが、広い範囲を運動する物体(気流・海流・長距離弾道)を扱う場合、コリオリの力も考慮する必要がある。

地球は自転するため地球表面は、赤道上では1670km/h(=0.46km/s)の速度を持つが、赤道から北極や南極に移動するとその速度は小さくなり、極では自転速度はゼロとなる。こうした普段は慣性力として潜んでいる自転運動が、砲弾などの大陸間をまたぐ運動では現れる。

※周囲が同じ運動をするからその運動はないように感じるが、環境(座標系)が変わると現れてくるこうした運動は、潜力(慣性力の一種)と名付けたい。潜熱のアナロジーである。

1832

土井利位 日本

書物『雪華図説』

雪の殿様の異名で知られる古河藩主土井利位は雪の結晶の観察図を記した。
1832 ニコラ・L.S.カルノー フランス

カルノー、逝去

コレラにより36歳で夭折。

1833 マイケル・ファラデー イギリス

ファラデーの電気分解の法則

電気化学当量

電気の同一性

クーロメーター(電量計)

電源(摩擦、電池、電磁誘導、熱電気、電気魚)によらず電気の性質(磁気作用、熱作用、生理的な刺激、火花放電、電気分解など)は、全て同一であることを確認した。電気分解反応において、クーロメーター(電量計)を用いて電気量と物質の増減量の定量的な関係を調べて、以下2つの重要な法則(ファラデーの電気分解の法則)を発見した。

第一法則は、析出する物質の量は流れた電気量に比例すること。

第二法則は、電気化学当量は化学当量に等しく、同じものであること。

水素、酸素、塩素、ヨウ素、鉛、錫の電気化学当量は1、8、36、125、58と提案。

【後世への影響】

電気化学当量は原子量(→原子論)の問題と深く関連するが、ファラデーは原子の存在には懐疑的であったため原子量の決定を研究テーマとして扱わなかった。また電子の発見(1897年/J.J.トムソン)はまだ先であったが、ファラデーの発見は電気素量の存在を広く示唆した。電力事業の観点(1882年頃)では、使用料金制度として従量制を採用する際に、ファラデーの電気分解の第一法則(使用した電気量を物質の重量に変換)して測定可能にした。

1833

マイケル・ファラデー

ウィリアム・ヒューエル

イギリス

イギリス

電気化学の用語を提案

電極、アノードカソードイオン、アニオン、カチオンなどの電気化学用語を提案。

※イオン、アニオン、カチオンは現在までに意味が変化したものの、用語自体は定着した。

※なおヒューエルは英語の科学者(scientist)という言葉を作ったことでも知られる。

1834 ジャン・シャルル・ペルティエ フランス

ペルティエ効果(熱電効果の一種)

ゼーベック効果が、温度差から電流を生み出す効果であった一方、ペルティエ効果はその逆で、電流から温度差を生み出す効果。

1834

ハインリヒ・レンツ

ロシア

レンツの法則

※電磁誘導の方向決め

電磁誘導(ファラデー/1831年)では、コイルは自身の磁界が棒磁石(の磁界)の動きによって乱されぬように(磁界の変化を妨げるように)、コイル内に誘導起電力が生じ、誘導電流の方向が決まる(レンツの法則)。誘導電流の方向に対してアンペールの右ネジの法則を適用すればコイルに発生した磁界が知れるが、仮に棒磁石のN極側からコイルに進行したならば、コイルはN極で押し返すように誘導電流を流すことになる。そして棒磁石がコイルから引かれる時には、コイルはS極で引き留めるように誘導電流を流すことになる。 電磁誘導で生じる誘導起電力の大きさは、棒磁石の動きが速いほど、棒磁石の磁界が強いほど、コイルの巻き数が多いほど大きくなる。

1835 ハレー彗星、接近  
1835 カール・フリードリッヒ・ガウス ドイツ

電場に対するガウスの法則

(電束保存の法則)

発見年は仮置き

1835 カール・フリードリッヒ・ガウス ドイツ

磁場に対するガウスの法則

(磁束保存の法則)

発見年は仮置き
1835 ガスパール・コリオリ フランス コリオリの力

回転座標系における物体の運動に関する論文を発表。地球規模で運動する物体に対しては、コリオリの力が働く。大気の流れ・海流・長距離弾道などに影響。

1836 フレデリック・ダニエル イギリス

定常電池、ダニエル電池

 
1836 エドモンド・デービー イギリス アセチレン  
1837 F.G.W.V.シュトルーヴェ ドイツ

恒星の年周視差

※地動説の証拠

シュトルーヴェは地動説の証拠である年周視差を観測するべく、太陽系に近く年周視差が大きい星を3つの基準(明るいこと、固有運動が大きいこと、連星であれば2星の間隔が十分に離れて見えること)によりヴェガ(織女星)を選び出した。その結果、ヴェガは約1/8秒ほどの年周視差があることが発見された。

1837 宇田川榕庵 日本

書物『舎密開宗』

※日本最初の化学書

 
1838 フリードリヒ・W.ベッセル ドイツ

恒星の年周視差

※地動説の証拠

シグニ61の距離(10.4光年)

フラウンホーファーが開発した高品質の光学機器を使用し、白鳥座61番星(シグニ61)を1年間観測し、その年周視差(地球の公転により星の位置がずれる現象)は0.31秒と測定され、白鳥座61番星までの距離(約10.4光年)が決定された。

年周視差は、地球の公転運動を裏付ける証拠であり、シュトルーヴェのヴェガの年周視差の発見(1837年)に続き、約300年前にコペルニクスが提唱した地動説を正しさを実証した。

1838 マイケル・ファラデー イギリス

ファラデー暗部

希薄な空気で満たされた低真空の放電管を起動させると管内の気体が発光(グロー放電)し始めるが、陰極付近にはファラデーの暗部と呼ばれる発光の弱い領域(弱電離領域)が生じる。

1839 アンリ・ベクレル フランス

ベクレル効果 (光起電力効果)

薄い塩化銀で覆った白金電極を電解液に浸し、片方に光を当てると電流(光電流)が流れる現象を発見。光起電力効果の最初の報告。

1839

ルイ・ダゲール フランス

銀板写真法(ダゲレオタイプ)を発表

パリの劇場の背景画家ダゲールは、露光したヨウ化銀板を水銀蒸気で現像し、映像を食塩水により定着する方法を発明。この銀板写真をダゲレオタイプと命名。

1839

トマス・ヘンダーソン イギリス

恒星の年周視差

※地動説の証拠

ケンタウロス座α星の距離(3.3光年)

イギリスの天文学者トマス・ヘンダーソンは喜望峰の天文台で南半球の全天を観測し、ケンタウロス座α星が1秒余りの年周視差をもっていることを発見され、その距離は約3.3光年と計算された。この星は現在に至るまで、太陽系に最も近い恒星であるとされる。

1839

ドレーパー イギリス

月の写真

ダゲールの銀板写真を用いて月を撮影。初めて天体の写真が撮影された。
1839 チャールズ・グッドイヤー アメリカ

加硫ゴム

ゴムの加硫法

グッドイヤーは、偶然、ゴムと硫黄の混合物をストーブの上に落としたところ、堅い塊ができた。ゴムに硫黄を加えると温度が変化しても、ねばったり堅くなったりしない適当な弾性を保つ実用性の高い加硫ゴムの発明となった。
1840 アヘン戦争、勃発(~1842年)  
1840 ジェームズ・ジュール イギリス

電流の熱作用(ジュールの法則)

ジュール熱

※電気Eから熱Eへの変換

ジュールはエネルギー変換に関する研究をし、1840年には電気と熱の関係を定量的に調べてジュールの法則を発見した。ジュールの法則とは、電流の3作用(熱、磁気、化学)のうち熱作用に関するもので、ある抵抗を持つ導線(電気回路)に電流を流して発生する熱(ジュール熱と呼ぶ)は、電流の2乗と抵抗に比例する現象である。

投じた単位時間当たりの電気エネルギー(電力W(J/s))は、電圧E(V=J/C)と電流I(A=C/s)の積(J/s)として得られる。オームの法則(1827年)を使って電圧Eを式から消すと、電力W(J/s)=抵抗R(Ω)×電流I^2(A^2)となり、ジュールの法則の式が得られる。

※電流による3つの作用(熱作用、磁気作用、化学作用)のうち、熱作用の発見。

※ジュールは続いて仕事と熱の関係を明らかにしようと研究を進め、1843年には熱の仕事当量を発見する。

1840 ジェルマン・アンリ・ヘス スイス ヘスの法則(総熱量不変の法則)  
1840

ジョージ・エルキントン

(エルキントン商会)

イギリス

電気めっきの産業化

金・銀めっきの特許取得

バーミンガムの製造業者であったエルキントン商会は、商業的採算がとれるものとして最初の電気めっき技術の特許を取得した。

1842

アンリ・ヴィクトル・ルニョー

フランス

ボイルの法則からのズレ

※理想気体と実在気体とのズレ

当時、理想気体の挙動を示すボイル=シャルルの法則は既に知られていた(1787年)。ルニョーは気体の精密実験を行い、気体が圧縮される理想気体から大きくズレることを発見。ルニョーはズレの原因を分子間力の影響と推察。

※なお分子間力を考慮した気体の状態方程式は、ファン・デル・ワールスにより発表(1873年)される。

1842 フランツ・ドップラー オーストリア

光のトップラー効果

天体から届く光の色(=光の波長)に関する論文を発表。波の振動数は、波源と観測者の相対運動に依存して変化する説を唱えた。

1842 ユリウス・ロベルト・V.マイヤー ドイツ

書物『無生物界の力の所見』

エネルギーの保存

※力学エネルギー以外にも拡張

※後の熱力学第一法則へ

熱の仕事当量の計算

マイヤーの関係式

マイヤーは熱の仕事当量の推定に、マイヤーの関係式から行った。マイヤーの関係式とは、気体の2種類の比熱(定圧モル比熱Cpと定積モル比熱Cv)の関係がCp-Cv=Rとなることであり、気体定数R(J/K/mol)は気体が熱による膨張(仕事)に使われた比熱と一致する。よって各比熱を正確に求めることで、熱の仕事当量が計算される。

またマイヤーは、電気・磁気・熱・仕事・光・化学反応などの作用の相互変換性と"力"(今で言えばエネルギー)の保存を提唱した。

【二つの比熱の関係】

モル比熱とは1mol気体の温度1度上げるために必要な熱量。比熱の測定は、体積一定で温度を変える場合の定積比熱Cvと、気圧一定で温度を変える場合の定圧比熱Cpがある。定積比熱は仕事がなく加えた熱はそのまま内部エネルギー(気体の温度上昇)なるが、定圧比熱は加えた熱が仕事(気体の体積増加)と内部エネルギーに分けられる。従って、温度1度上昇に必要な熱量(比熱)は、仕事に使われるロスがない分Cp>Cvとなる。また断熱自由膨張の実験(ゲイ・リュサック/1809年)の結論として、気体の内部エネルギーは体積によらず温度のみの関数であるため、定積比熱Cvも温度のみの関数である。

1843 ジェームズ・ジュール イギリス

熱の仕事当量の測定(1cal=4.2J)

仕事から熱への変換

ジュールは電気と熱の関係(1840年)に続き、仕事と熱の関係を水車の実験により明らかにした。水中で水車を回す仕事(力学的エネルギー)がどれだけ水の温度上昇(熱エネルギーへの変換)に寄与するか精密な実験を行った。この時重り(質量m)が落下する際の仕事を水車の回転に利用するため、その仕事(摩擦を無視)はmghとなる。このmghと水温上昇の関係を調べ、1cal=4.2Jという結論を得た。

※1calは1gの水の温度を1度上昇させるために必要な熱量と定義される。

1847年にアマチュア研究家であったジュール(28歳)は、水車の実験を学会で発表したが、あまり注目されなかった。しかし、発表直後に23歳のウィリアム・トムソン(後のケルヴィン卿)が声をかけて研究協力を行うなど次第に学会内でもジュールの評価は高まっていった。

ジュールは電気と熱の関係(1840年)、熱と仕事の関係(1843年)を明らかにし、後のエネルギー保存則の概念の確立に貢献した。ジュールの名はエネルギーの単位にもなった。

1843 ジョン・コーチ・アダムズ イギリス

海王星を予言

王星(ハーシェル/1781年)の公転軌道の予測と実際の観測結果にズレが見られた。アダムズは、摂動論(ラプラス/1784年)による解析学の近似計算方法により、未知の第八惑星(海王星)の存在を予言した。
1844 ハインリッヒ・シュワーベ ドイツ 太陽の活動周期(約10年)

ドイツのアマチュア天文学者(もとは薬剤師)シュワーベは、水星より内側を周っていると考えられた惑星バルカンの発見のため、太陽面を通過する物体の様子を調べており、関連して太陽黒点についても調べていた。太陽に近い惑星(水星や金星)では、太陽と同じ方向に存在するため太陽が沈んでいる時間帯に空に光っている状態を見つけることは難しく、通常、太陽表面を通過する際のシルエットを観察する必要があり、太陽黒点と似た小さな黒い円として見える。

シュワーベは1826年~1843年の観測データをもとに太陽黒点が、およそ10年周期で増減していることを発表した。シュワーベは1825年に観測を始め1869年まで続け、協力者によるものも含めて8000以上の太陽黒点をスケッチを残している。

※現在では太陽の活動周期は11年周期とされている。

1844

アルベルト・F.ドップラー

オーストリア

音のドップラー効果

光だけでなく音にもドップラー効果は適用できることを示した。

1844   アメリカ

モールス信号の初の公開送信

 
1845

グスタフ・キルヒホフ

ドイツ

電気回路のキルヒホフの法則

キルヒホフの電流則(第1法則)

キルヒホフの電圧則(第2法則)

 
1845 マイケル・ファラデー イギリス

ファラデー効果 (磁気旋光)

※光と磁場の相互作用

ファラデーは開発した高屈折率のガラスを磁場の中に置き、そこに光を通すと、偏光面が回転する現象(ファラデー効果)を発見した。光と磁気の間に相関があるこをと示した。
1845 マイケル・ファラデー イギリス 反磁性 ガラスと磁石の反発(反磁性)を発見。

1845

クリスチアン・シェーンバイン ドイツ 綿火薬(ニトロセルロース)  
1846 ヨハン・ゴットフリート・ガレ ドイツ 海王星

惑星軌道の近似解を得る摂動論から導かれる天王星(ハーシェル/1781年)の軌道と、実際の観測結果とに食い違いみられた。これは未知なる惑星の存在を示唆しており、計算上予測された位置には海王星が発見された。なお経験則となっていたティティウス=ボーデの法則(1766年)は成立しない位置であった。

1847 ヘルマン・ヘルムホルツ ドイツ

書物『力の保存について』

エネルギー保存則を定式化

※後の熱力学第一法則へ

マイヤーが提唱(1842年)したエネルギー保存の概念を定式化。エネルギーとはギシリャ後で「仕事を含む」という意味。どこかである量のエネルギー(仕事や熱など)が消えると、それに等しい量のエネルギーが、同じ物理系に発生しなければならない。

後にクラウジウスにより熱力学第一法則(1850年)として位置付けられる。

1847 チャールズ・バベッジ イギリス

自動計算機の設計図

階差機関と呼ばれる機械仕掛けの計算機を設計開発。有限階差法という数学の原理を利用して数値計算を行い、その結果を自動的に印刷して打ち出す。

1848 フランス二月革命  
1848 ルドルフ・ウォルフ スイス

黒点相対数の提案

太陽活動周期は約11年

スイスの天文学者ウォルフは太陽黒点の周期性を過去の観測データを集めて系統的な比較を試みた。黒点活動の活発さを表すためにウォルフは黒点相対数という指数を用いた。黒体相対数は、太陽表面に現れる黒点の集団の個数(群数:g)と、(大きさによらず)黒点の個数(黒点数:f)を数えて、R=k(10g+f)で計算される。比例係数kは情報源の異なるデータを比較可能な値へ規格化するための調整項目である。

ウォルフは望遠鏡による観測開始時まで記録を遡り、信頼できるデータのある1745年以降について、平均して約11年の周期があることを確認した。

後にウォルフは1755年をスタートに太陽活動周期を第1期として順に番号を付けて、現在もその方針を引き継がれ、2019年12月から第25期がスタートしたとNASAとNOAA(アメリカ海洋大気庁)が発表(2020年9月15日)している。

1849 アルマン・フィゾー フランス

大気中の光速度の測定

(秒速315300±500km)

フィゾーは天文現象に頼らない、回転する歯車を利用した地上(大気中)での光速度測定に初めて成功した。大気中の光速度は秒速31.53(±0.05)万kmと測定。光源にロウソク、おもり滑車を動力(まだ電気モーターはなかった)にして回転させる歯車、8km先に設置した反射鏡(光の往復距離は16km)、8km先の反射鏡に映るロウソクの見え方を観察する望遠鏡、を用いて反射鏡の光が強く見える時の歯車の回転数から光の往復時間を算出し、光速度を算出した。得られた光速度は実際より5%程度大きいが、当時の器具の限度を考えると、正確なものと言える。参考資料

※天文現象を利用した光速度の測定は、レーマー(1675年)やブラッドリー(1728年)が成功。

1850 マイケル・ファラデー イギリス

論文『重力と電気の関係』

※力の統一理論の先駆け

ファラデーは論文の冒頭に記したように、自然界のあらゆる力は相互作用し、同じ起源を持つ一つの基本的な力が、異なる形で現れるものだと考えた。元来、異なるものと思われていた電気と磁気の相互作用が見つかり(エールステッド/1820年)、ファラデーはさらに当時知られていた別の力である重力を結び付ける現象を見つけようとした。

ファラデーは電気と重力の相互作用の存在を見つけ出すため、電磁誘導(ファラデー/1831年)のアナロジーとして、重力場での物体の移動は電流を誘発するかどうかを調べた。

実験結果では重力と電気の関係を示す証拠は得られなかったが、それでも両者の間に関係が存在すると信じる私の気持ちは少しも揺るがないとして、論文を締めくくっている。

1850 レオン・フーコー フランス

水中の光速度の測定

※光の波動説の勝利

光の粒子説と波動説が併存する中、空気中から水中へ光が進む際に、水中の光速度は粒子説では加速し、波動説では減速すると考えられた。フーコーは、回転する鏡を用いて水中での光速度の測定と、大気中から水中へ進む光速度の速度変化を調べた。その結果、水中では光速度が減速したため、これによりニュートンの粒子説に基づく予測(水中の方が光速度は速い)は否定され、光の波動説が支持された。但し、波動説の場合、光を伝える媒質エーテルが必要とするため、その発見は課題として残り続けた。

なお1862年、フーコーは同様の測定方法で真空中で光速度の精密測定を実施している。

【光速度と屈折率の関係】

光速度は真空中では秒速30万km(cと表す)の一定速度で進む。しかし、物質中を進む光は、その物質の屈折率(n)に従い光速度c/nで減速する。真空中ではn=1、水中ではn=1.33となり、水中の光速度は約22.6万kmとなる。

1850 ルドルフ・クラウジウス ドイツ

論文『熱の動力と熱理論』

熱力学第1法則(エネルギー保存則)

熱力学第2法則(エネルギー変換則)

クラウジウスは熱力学として最初の論文『熱の動力と熱理論に関する諸法則』を発表。熱力学の法則として、ジュール、マイヤー、ヘルムホルツらにより既に示されていたエネルギー保存則がある一方で、カルノーが示した熱の変換効率(カルノーの原理)に関する法則に注目し、整理した。

エネルギー保存則は熱力学第1法則として定式化し、カルノーの原理(熱を全て仕事に変換できない)は熱力学第2法則とした。第2法則では、可逆過程において、低温槽における"流入熱量/温度"と高温槽における"流出熱量/温度"の各値が等しいことに注目し、この比率をエントロピーとして定義した。熱機関では実際には不可逆過程であり、エントロピーは

※エントロピーとはギリシャ語で変換・変化を意味するトロペを語源とする。

現在我々が見るdU=dQ-dw(熱の流出入=内部への仕事エネルギー+外部への仕事エネルギー)という形式は1865年の論文で提示された。ここでエネルギー保存則の対象となるエネルギーの形態は、仕事(力学エネルギー)、熱、温度(内部エネルギー)である。

【エネルギー保存則の破綻】

1900年以降確立された量子論では、不確定性原理よりエネルギー保存則(エネルギーは無から生じない)は必ずしも守られていない状況が判明する。実は真空では、瞬間的(10兆分の1など)にエネルギーの発生・消滅が起きており、厳密な意味でのエネルギー保存則は破られている。ちなみに、電荷保存則については厳密に守られ、例えば電子が真空中から突如発生する際には必ず陽電子を伴う対生成となる。逆に消滅する際には両者同時の対消滅となる。但し、電荷のない中性の仮想光子などは対ではなく単独で生成・消滅が起こる。

1850

マセドニオ・メローニ イタリア 赤外線と可視光の同一性 目に映らない赤外線にも反射・屈折・偏向・干渉・回折など諸現象が観察され、その特性は可視光と同じであることを実験により証明。
1850 ブレット兄弟 イギリス

2国間を繋ぐ海底ケーブルの敷設

1840年代、ヨーロッパやアメリカで陸上の電信網(モールス信号)は急速に普及した。一方、海底の電信網は、電線を覆う絶縁物質の開発のため、敷設は遅れていた。その後、絶縁物質の材料としてマレー半島の樹木ガタパーチャ(ゴムの木)の樹液が有望であることが判明し、海底ケーブル敷設の道が開けた。

1848年頃、ブレット兄弟はドーバー海峡(英ドーバーと仏カレーの間の35km)に海底ケーブルを敷設する計画を立てた。イギリスとフランスの双方の承認のもと1850年に海底ケーブルの敷設は完了した。モールス信号による幾つかのメッセージのやり取りに成功したが、翌日には通信途絶。漁師が海藻と思って切断したためとされる。