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年表_物理学/化学_20-Q1


■20世紀第1四半世紀(1901~1925)

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1901     ノーベル賞の開始

ノーベル賞の受賞の開始。第1回目は物理学賞(レントゲン)、化学賞(ファント・ホフ)、医学生理賞(フォン・ベーリング)が受賞。

1901 アーネスト・ラザフォード

F・エルンスト・ドルン

ニュージーランド

ドイツ

エマネーション(エマナチオン)

※気体の放射性元素、ラドン(Rn)

トリウムやラジウムなどある種の放射性元素が存在すると、周囲の気体が放射性を帯び、この気体(元素)をエマネーションと呼んだ。またエマネーションに晒された物質もまた、放射性を持つようになる。

※このエマネーションは、トリウムやラジウムといったウラン系列の放射壊変によって生じた放射性希ガス元素であるラドン(Rn)である。ラドンは全ての同位体が放射性元素であり、最も安定なもの(222Rn)でも半減期が3.825日である。

1901 グリエルモ・マルコーニ イタリア 大西洋横断無線通信の成功 イギリス最南端コンウォール半島のポルデュに接地型の火花放電式送信機を建設し、大西洋を隔てて3400km離れたカナダのニューファンドランド島で受信することに成功。
1901 カウフマン ドイツ

 

電子の質量の速度による変化

物体は光速度を越えられない

Ra線源のβ線(高速電子)を電磁場で屈曲させる実験から、電子の質量が速度に依存し、一般的な放電管や真空管で得られる電子に比べてβ線の電子の質量はかなり大きいことを発見した。β線は約100万Vの電圧で加速させた高速電子に相当(光速度の約95%)し、低速電子の約3.8倍の質量を持った状態になる。

この実験結果は、物質(電子)を加速させて光速度に迫っても質量が無限大に向かって増加することで、さらに加速させることが難しくなり、人間が用意できるエネルギーでは光速度は超えられない仕組みが働いていることを示している。こうした実験事実もアインシュタインの特殊相対性理論を考える出発点となったと思われる。

1901

アドルフ・フランク

カロ

ドイツ

石灰窒素法

(フランク=カロ法)

カルシウム・カーバイド(炭化カルシウム)を大気中の窒素と結合させ、石灰窒素の合成に成功。電力は放電法に比べて1/4で済むため省エネである。石灰窒素は動植物に対して毒性があるため、農薬と肥料の両方の効果が見込まれる。

1902 ウィラード・ギブス アメリカ

統計力学の確立

教科書の出版

 
1902 フィリップ・レーナルト

オーストリア=

ハンガリー

光電効果の詳細な研究

※入射光と光電子の関係

ヘルツにより既に光電効果(1888年)は発見されていたが、レーナルトは簡単な電気回路を用いて光電効果により発生する光電子の運動エネルギーの挙動を詳しく調べた。

レーナルトは、金属面(エミッター電極)に照射する入射光をプリズムで調整可能な単色光とした。光電効果によりエミッター電極から真空へ飛び出した光電子が、反対側にあるコレクター電極まで到達すれば電流(光電流と呼ぶ)が流れ、電流計で検出できる。光電子の持つ運動エネルギーを知るために、エミッター電極とコレクター電極の間に調整可能な阻止電圧を掛けて光電流を測定した。レーナルトは、入射光の波長(振動数)、阻止電圧、光電流の強さの関係から光電効果に関する以下の挙動(法則)を発見した。

①振動数が同じ光を照射する限り、光電子のエネルギーに変化はなく、光の強弱に対応するのは、光電子の数(⇒光電流の強さ)である。

②ある振動数以下の光では、どんなに光の強度を高めても光電子は全く飛び出ない(⇒光電流はなし)。しかしそれ以上の振動数の光では、光電子の数(⇒光電流)は振動数の高まりに応じて増える。

1902 アーネスト・ラザフォード

フレデリック・ソディ

ニュージーランド

イギリス

放射性元素の崩壊説(放射壊変)

※科学的な錬金術の可能性

エマネーション(放射性の気体)の性質を調べた結果、ラジウム(Rn)やトリウム(Th)などの放射性元素は、放射線(α線,β線,γ線)を出すことによって別の元素に変換されていく一連の現象(放射壊変)を発見した。

放射壊変により当該元素の含有量が半減する期間(半減期と呼ぶ)は元素の種類ごとに一定であること、化学反応とは比べものにならない莫大なエネルギーを生み出す永続的なエネルギー源であることを指摘した。

【半減期を利用した年代測定】

元素の種類ごとに一定の半減期があることは後年、岩石などの年代測定に利用される。

1902 ヴィルヘルム・オストワルト ドイツ

オストワルト法(硝酸の製法)

1902年に硝酸の工業的大量生産の決定版であるオストワルト法(Pt触媒によるアンモニアの酸化)の特許は出願された。硝酸は爆薬や肥料の原料として使用される。

※硝酸の原料となるアンモニアの初合成は1909年、工業的製法(ハーバー・ボッシュ法)の確立は1912年である。

1902 木村 栄 日本

自転軸のZ項の導入

緯度変化の研究

地球の自転軸の指す方向は一定ではなく、僅かながら変化している。この自転軸の振らつき現象はオイラーがその可能性を予言していたが、その実証のため地球上の6地点での観測を国際的な協力のもと実施した。日本(岩手県・水沢)での精密な観測データが発端となり、計算式にZ項(補正項)が必要であることが分かり、新たに追加された。
1902 マルティン・クッタ ドイツ

翼の揚力の理論

クッタ=ジュコースフキーの定理

 
1902 レオン・ティスラン・ド・ボール フランス

成層圏の発見

 
1902   イギリス 太平洋横断海底ケーブルの敷設

イギリスは太平洋横断海底ケーブルの敷設を完了した。これによりイギリスは当時の植民地を結ぶ大きなケーブル網を構築した。1901年頃の海底ケーブル網を見ると、世界各地の情報はイギリスに集まっている様子が分かる。

なお実用可能な大西洋横断海底ケーブルは1866年に敷設されている。

1902 アルベルト・アインシュタイン ドイツ スイス連邦特許局に就職 1895年、アーラウ州立学校での充実した1年間が終わり、1896年秋にチューリッヒのスイス連邦工科大学に入学した(大学にて妻ミレヴァ・マリッチと出会う)。1900年7月、21歳で大学卒業したが、彼を助教授として採用する教授はいなかった。翌年2月にスイスの市民権を獲得し、親友グロスマンの父親の紹介でスイス連邦特許局に採用された。
1903 ライト兄弟 アメリカ 飛行機  
1903 コンスタンチン・ツィオルコフスキー ロシア

論文『反作用利用装置による宇宙探検』

人工衛星打上げの理論

人工衛星を打ち上げるロケットに関する最初の論文を発表。その中で人工衛星にするための手段と具体的な人工衛星の速度を示した。ロケットで大気圏を抜け、約200km以上の高さで地表と平行に約8km/sの速さで物体を打ち出すと人工衛星になると記した。

1903 

ピエール・キュリー フランス

ラジウムの発熱量の測定

※1時間で同量の水を沸騰させるほどの熱量

当時、ラジウムのような放射性元素は永続的なエネルギー源と見られ、まるでエネルギー保存則が破綻したかのような不可解な現象であった。1903年にピエール・キュリーがラジウムが放射する熱を測定している。

ラジウム1gで、1時間当たり約100calの熱量を放出する。これは1時間で同じ量の水を0度から沸騰(100度)させるほどの熱量である。ガソリン1gの発熱量は10400calであるが、ラジウム1gで4.3日間あれば同等の熱量が得られる。ラジウムの半減期は約1600年であることを考えると、ガソリン1gもはるかに大きなエネルギーを引き出せる。

※熱量の担い手はラジウムから放射されるα線の運動エネルギーである。

1903

ビルケランド

アイデ

ノルウェー

ノルウェー

火花放電による硝酸の製法

ビルケランド・アイデ法

雷と同様に火花放電により空気中の窒素と酸素から酸化窒素NOを生成させ、硝酸を作る方法。消費電力が極めて大きいが1905年に工業化されており、ノルウェー硝石(硝酸カルシウム)として肥料用に販売された。

1903 キュリー夫妻

フランス

夫婦でノーベル賞を受賞

 
1904    

日露戦争、開始

※1904年~1905年

日本は、世界中に情報通信網(海底ケーブルなど)を整備するイギリスと日英同盟を締結できたことは、金銭面だけでなく情報技術面でも戦争勝利へと大きく貢献。
1904

ジョゼフ・ジョン・トムソン

(J.J.トムソン)

イギリス

スイカ型原子模型

またはプラムプディングモデル

※トムソンの原子模型

トムソンは原子模型として、プラムプディングモデル (日本ではブドウパンモデル、スイカ模型と呼ばれる)を提唱。プラスの電気を帯びた大きな玉の中に小さな電子の粒が散らばっているモデル。但し、種である電子は無秩序に散らばるのではなく、電気的な釣り合いの位置に置かれるとし、計算上、電子は同心円状に並び、それぞれの同心円には限られた数の電子の席しかないとした。トムソンはこの模型でメンデレーエフの周期表を説明できると考えた。原子の中の電子を内側から埋めていくと、外側の円には空席の有無が生じ、その空席の空き具合だけの着目すれば、化学的特性の周期性が現れるだろうというのがトムソンの狙いだった。一方で、原子の線スペクトルの説明は十分でなかった。
1904 長岡半太郎

日本

土星型原子模型

※長岡の原子模型

トムソンのスイカ模型と正反対の原子モデルとして、長岡は土星型モデルを提唱。原子の中心には重い正電荷の極があり、その周囲を電子が輪を描いて回っているとした。長岡は、マクスウェルが土星系(土星には9つ衛星がある)を取り扱った方法を参考としていて、電子が円軌道から外れて振動すれば光を出し、描く円軌道が異なれば振動の仕方も異なるだろうと考えた。長岡は複雑な線スペクトルの説明のため、常に数多くの電子を動員した。しかし水素原子ですら複雑な線スペクトルを持つ一方で、電子を一つしか含まないという説明困難な点が見られた。

【トムソンと長岡の原子模型による説明目的】

※トムソンと長岡の原子模型を比較すると、トムソンは元素周期表の説明のためのモデルである一方で、長岡は線スペクトルの説明のためのモデルであると言える。モデルの検証は原子には中心に重い正電荷の芯があるか否か(ガイガー=マースデンの実験/1909年)、ということになる。

1904

ヘンドリック・ローレンツ

オランダ

収縮説におけるローレンツ変換

物理法則はローレンツ変換不変性である必要性を指摘

ローレンツは収縮説について考察を重ね、運動物体の長さだけでなく時間も収縮する公式としてローレンツ変換を公表した。これは二つの慣性系における時間と空間の関係を示すもので、異なる慣性系では、時間と空間の尺度がどのように変換されるかを示している。またローレンツはどこでも成り立つ普遍的な物理法則の構築には、物理法則がこのローレンツ変換に対して不変(ローレンツ変換不変性と呼ぶ)である必要があることを示した。アインシュタインの特殊相対性理論の発表の1年前の出来事である。

数学的な面だけでいえば、ローレンツ変換の公式は、アインシュタインが特殊相対性理論で導いたものと完全に一致する。翌1905年、アンリ・ポアンカレはローレンツの理論に検討を加え、数学的によりいっそう完全な定式化を与えた。

1904 アーネスト・ラザフォード

ニュージーランド

地球の年齢問題について言及

かつてケルビン卿は、熱力学に基づいて地球の年齢を1億年程度とかなり若く見積もり(1863年)、そうした推測は地質学者らの見解と大きく乖離していた。今にしてみれば、ケルビン卿の地球年齢の見積もりには、当時は未発見であった放射性物質(アンリ・ベクレル/1896年)の存在が受け落ちていたことに起因する。地球内部にある放射性物質の熱源を加味すれば、地球の冷却速度は遅くなり、地球の年齢はもっと伸びる(地球誕生はもっと過去の出来事になる)と言及した。

1904

ジョンフレミング

イギリス

二極真空管

整流作用

エジソン効果の発見(1883年)では、"2つの電極"を備えたガラス管内の電流は、金属プレート(陽極/アノード)→フィラメント(陰極/カソード)の一方向にのみ流れた。一方向にしか電流が流れない性質(整流作用)は、電波を受信して検波(音声信号に変える)する素子として使えると考え、フレミングは二極真空管を発明した。

フィラメント(陰極)には加熱による熱電子放出の役割と、電場により熱電子を金属プレート(陽極)へ流す役割がある。真空管のフィラメントと金属プレートの電位差は数百ボルトが普通であるが、高電圧が必要なことは後に真空管が廃れる理由の一つとなる。

1905 アルベルト・アインシュタイン ドイツ

4編の重要な論文を提出

26歳のアインシュタインは4編の論文をアナーレン・デア・フィジーク(物理学年報)誌に発表する。いずれも物理学の本質に迫る論文であった。

論文①(1905年6月):光量子仮説による光電効果の説明

論文②(1905年7月):ブラウン運動における分子の質量の直接測定、分子の実在性

論文③(1905年9月)と論文④(1905年11月):特殊相対性理論

1905 アルベルト・アインシュタイン ドイツ

論文①『光の発生・変換の発見法的視点』

※3月執筆、6月論文掲載

光量子仮説

光電効果の理論的説明

qV=hf-P

光子 (光の粒子性) ※エーテル不要?

光子の運動量p=h/λ

光の二重性(粒子かつ波)

【光の量子化の適用範囲の拡張】

プランクは、空洞内の熱平衡における放射スペクトルに限定してエネルギー量子仮説を提唱したが、アインシュタインはエネルギーの量子化を一般的な光の特徴へと拡張する形で光量子(後の光子)を導入した(光量子仮説)。

【光量子仮説と光電効果の説明】

光は粒子(光量子と呼ぶ)の集まりであり、個々の光量子はその振動数vに対応した最小単位となるエネルギー(E=hv)を持つと考えた。また強い光とは光量子の数が多いことを意味し、単一波長のnこの光量子の総エネルギーはE=nhvと表される。アインシュタインの光量子仮説は、レーナルトが実施した光電効果の実験(1902年)をうまく説明し、実験室で検証可能な入射光エネルギーhf、阻止電圧V、光電子の運動エネルギーPの関係式qV=hf-P(※qは電荷)提示した。

質量のない光量子の運動量と波長の関係式(p=h/λ)では、粒子性(p)と波動性(λ)を併呑し、粒子性を表す運動量pはプランク定数hを介して波動性を表す波長λで結び付けられる。光を粒子としながらも、その運動量やエネルギーの計算には波の考え方なしには表されず、従来とは異なる概念の粒子と言える。

アインシュタインは光の波動性を否定せず、光は波動性と粒子性の相反する性質を併せ持つと考えた。光は物質との相互作用の仕方に応じて波動性を強めたり、粒子性を強めると考えた。

【古典電磁気学(マクスウェル電磁気学)による光電効果の説明矛盾】

古典電磁気学は光は粒子でなく波動である。光の強度(波高)の増加すれば電子に与えられるエネルギーも増加する。電子が受け取るエネルギーは光の振動数(波長)には無関係。

1905 アルベルト・アインシュタイン ドイツ

論文②『熱の分子運動理論から要求される静止した液体中の懸濁粒子の運動』

※4月執筆、7月論文掲載

ブラウン運動の理論式

⇒分子の質量の直接測定

分子の実在性(分子理論)の主張

アインシュタインは分子の存在を前提として、ブラウン運動における微粒子の動きを、液体温度、粘性係数、粒子サイズ、観測時間を変数として与えられる理論式を提出した。

水に浮かぶ粒子が大きい場合には表面積が十分に大きく、粒子が受ける水分子からの圧力は単位時間当たりで均一となるため、粒子は静止している。一方、懸濁する小さな粒子になると、表面積が小さくなり瞬間的に水分子の圧力が特定の方向に偏る状況(ゆらぎ)が生じる。アインシュタインは水分子による懸濁粒子の平均変位(位置の移動の長さ)を調べ、上記の変数に依存する理論式を示した。また理論式には気体定数R(J・K^-1・mol^-1)とアボガドロ定数が含まれる。

論文の最後に「ここに提起した熱理論に関する重要な問題を間もなく、研究者の誰かが解決してくれることを願う!」と書き、アボガドロ数の測定を実験家に呼び掛けている。

※1909年にジャン・ペランにより、この理論式をもとにアボガドロ定数が実験的に求められた。原子や分子の実在性の証明に至る。

1905 アルベルト・アインシュタイン ドイツ

論文③『運動物体の電気力学

※6月執筆、9月論文掲載

特殊相対性理論

公理①:(特殊)相対性原理

公理②:光速度不変の原理

論文③は、第1部の運動学と第2部の電気力学から構成される。アインシュタインは、異なる慣性系(等速直線運動)において力学的にも電磁気学的にも観測者の立場によらず物理法則は変化しないという原理(相対性原理)を前提に据えた。相対性原理が求めることはニュートン力学で前提となる絶対空間と絶対時間を否定であり、電磁気学で想定される光速度にズレを生じさせると考えられた静止エーテルの否定である。代わりに相対性原理がもたらしたものは、観測者(慣性系)ごとに異なる時間と空間の存在と、全ての観測者(慣性系)にとって光速度は常に一定となる世界である。なお後者は、光速度不変の原理と呼ばれ、特殊相対性理論を打ち立てるための2大原理の一つとなっている。

光速度の不変性(一定)は、1881年にマイケルソン=モーリーの実験で実証されており、静止エーテルの存在は否定されたと見ることができる。但し、当時はそれでもエーテルの存在を維持したまま、実験結果と整合するよう光速度一定の理屈(長さの収縮説など)を捻りだそうとする物理学者は大半だった。アインシュタインはこの実験から、力学、電磁気学の双方において絶対静止(宇宙空間における基準点の存在)の概念を裏付ける根拠はないと判断した。このことは既にエルンスト・マッハがその著書(力学 批判的発展史/1883年)で言及していたが、アインシュタインもその考え方に立脚したと言える。

 

論文冒頭で「光を伝える媒質(エーテル)に対する地球の相対的な運動を調べようとして、失敗に終わった試み(1887年/マイケルソン=モーリーの実験)等から力学のみならず電磁気学でも絶対静止の概念を裏付ける現象は存在しないと推測できる」と述べた。つまり、「なぜ光の速度は観測者が止まっていても動いていても、(真空中では)常に一定速度で観測されるのか」という疑問に答える理論として特殊相対性理論は発表された。特殊相対性理論は、①相対性原理(慣性系ではいかなる物理法則も座標系の選び方に拠らず同じ)と②光速度不変の原理(光源に対する慣性系に関係なく誰しも光の速度は同じに見える)という2つの公理(前提)から導出される理論体系である。

①相対性原理:すべての慣性系で、物理法則は同一形式で表される

②光速度不変の原理:すべての慣性系で、光源の速度に関係なく光速度は常に一定

自身と異なる慣性系の物理量(電場/磁場/時間/空間/質量など)がどのように見えるのか説明する。

【コペルニクス的転回とアインシュタイン的転回】

天動説、地動説、ニュートン力学の絶対空間、電磁気学の静止エーテルという風に、何かしら宇宙のどこかに空間的な絶対基準(固定された足場)を求めてきた物理学を歴史上はじめて否定し、真の意味での天動説の系譜からの脱却したと評価される。カントが自身の著書『純粋理性批判』の自画自賛の表現としてコペルニクス的転回と評したが、それに倣えば、アインシュタイン的転回と表されるか。

※座標系の速度変化や重力場の場合、一般相対性理論(1915-16年)へと拡張される。

1905 アルベルト・アインシュタイン  ドイツ

論文④『物体の慣性はそのエネルギーに依存するか』

※11月論文掲載

特殊相対性理論

エネルギーと質量の関係(E=mc^2)

アインシュタインは特殊相対性理論の論文『運動物体の電気力学』の発表から2ヵ月後、姉妹編として論文『物体の慣性はその物体の含むエネルギーに依存するであろうか』を発表した。ここでアインシュタインは、電気力学の研究の結果から興味深い結論が導かれるとして、エネルギーと質量の比例則(E=mc^2)を初めて明らかにした。

アインシュタインは論文の最後にE=mc^2の検証方法として、エネルギーが多量に変化する物体(放射性物質のラジウムなど)を用いることを挙げている。

【保存則の歴史を振り返る】

ニュートン力学の発展の過程で、力学的エネルギーの保存則を指摘したのはラグランジュ(書物『解析力学』/1788年)であり、これは位置エネルギーと運動エネルギーの変換・統合である。その翌年、定量分析によりラヴォアジエ(書物『化学原論』/1789年)が質量保存の法則を提唱しており、これは化学反応前後の質量において無から有は生じないという法則であり、化学反応は構成粒子の組み合わせの交換(変換)であり、その総量は変わらないという法則だ。

さらに時代は下り、ラグランジュが対象とした力学的エネルギー以外に、光、熱、化学、電気、磁気など様々なエネルギー形態と、各エネルギー形態間の変換やその効率性(⇒熱力学)までも議論され始めた。そうした中で一般的なエネルギー保存則を指摘したのは、ユリウス・マイヤー(書物『無生物界の力の所見』/1824年)である。

以上のように大きく分けて、エネルギーと質量はそれぞれ別々の保存則があった。アインシュタインは特殊相対性理論の帰結として、質量をエネルギー形態の一つとして取り込み、より拡張したエネルギー保存則に従う、エネルギーと質量の変換式(E=mc^2)を示した。

1905 ポール・ランジュバン フランス 常磁性の理論  
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1906 アルフレート・ヴェルナー スイス

長周期型周期表

メンデレーエフの元素周期表を改良し、長周期型周期表を提案。
1906

ジョゼフ・ジョン・トムソン

(J.J.トムソン)

イギリス

水素原子の電子は1個

水素原子の電子が一つだけであることを発見した。水素は1766年にキャベンディッシュにより発見されたが、これまでは原子が保有する電子の個数は任意とされてきた。
1906 チャールズ・バークラ イギリス 特性X線 (K線とL線)

X線を金属に照射すると、元素固有の波長を持つ特性X線(光の照射により発生する特性X線を特に蛍光X線と呼ぶ)が発生することを発見した。

1907年にはサドラーとの共同で、重元素から発生する2種類の特性X線のうち、透過性の高いX線をK列、透過性の低いX線をL列と分類した。このK列やL列といった特性X線の発生機構の解明が、原子内電子分布の解明につながる。

1906

リード・フォレスト

アメリカ

三極真空管

増幅作用

フォレストは二極真空管のフィラメント(陰極)とプレート(陽極)の間に、もう一つ別の電極(グリッド(制御格子)と呼ばれる粗い網状の電極)を入れた三極真空管を発明した。

グリッド電圧は通常、陰極(熱電子放出)に対してマイナス電位に印加し、調整することで陰極と陽極の間の電流(プレート電流)や電圧(プレート電圧)を指数関数的に変化させられる(増幅作用)。つまり、グリッド電圧の調整は梃のように働き、プレート電流やプレート電圧を大きく変化させられる。特に三極真空管は電圧で電圧を制御できる点が特徴的で、1Vのグリッド電圧の上昇で、数十Vのプレート電圧を上昇可能。

三極真空管は増幅作用を持つ最もシンプルな真空管だが、増幅率や感度向上のため補助的な電極を追加した四極や五極といった多極真空管が開発される。

1906 ヴァルター・ネルンスト ドイツ 熱力学第三法則  
1907 アルベルト・アインシュタイン ドイツ

論文『プランクの放射理論と比熱の理論』

アインシュタイン模型

アインシュタインの比熱式

※固体の比熱理論

原子の熱振動の量子的振舞い

固体を構成する原子の熱振動を電磁的振動体のアナロジーに見立て、プランクの放射理論を使って固体の比熱を計算した(アインシュタイン模型(アインシュタインの比熱式)を提唱)。その結果、固体の原子の熱振動もある単位量の整数倍のエネルギーの授受しか許されず(量子化されており)、ある低温領域に差し掛かると固体が全く熱エネルギーを受け取らない状態となることから比熱がゼロに近づくことを示した。

低温領域での固体比熱は当時、理論値から外れる点が指摘されていたが、アインシュタイン模型によりその差が解消された。

※比熱が温度の立方に比例して減少する点はアインシュタイン模型でも十分な説明はできなかったが、格子振動を考慮したデバイ模型により解決される(1912年/デバイ)。

1907 ヘルマン・ミンコフスキー ロシア ミンコフスキー時空

特殊相対性理論は、空間も時間も絶対的でなく伸び縮みすること、そして空間と時間が互いに影響を及ぼしつつ4次元の時空を形成していることを明らかにした。直感的に把握しにくい4次元時空を手際よく視覚化したのは、アインシュタインもかつて教えを受けたチューリッヒ連邦工科大学の数学教授ヘルマン・ミンコフスキーだった。かれはミンコフスキー時空と呼ぶ4次元時空を使って、特殊相対性理論をエレガントな幾何学で表した。

特殊相対性理論は慣性系における理論であり、ミンコフスキー時空も平坦な時空における幾何学(ユークリッド幾何学)を基礎とする。

1907 アルベルト・アインシュタイン ドイツ

等価原理

※自由落下すると無重力状態

※慣性力と重力は同じ

特殊相対性理論(1905年/アインシュタイン)は互いに等速直線運動する慣性系の間でしか成立しないため、アインシュタインは特殊相対性理論の非慣性系への拡張に取り組んでいた。1907年11月、アインシュタインはベルンの特許局で一般相対性理論を作る生涯で最も素晴らしいアイデア(⇒等価原理)を思いつく。それは落下する人間(座標系)は重力を感じない(重力が消える)ということ。つまり、重力も、慣性力と同様に観測者の立場によって消すことができ、両者は区別できない同じものとする等価原理を提唱した。
1907 ヘルマン・ミンコフスキー ロシア 四次元時空世界の概念  
1907 ピエール・ワイス フランス

強磁性の理論

分子磁場、磁区の概念

 
1907 ニコライ・ジューコフスキー ロシア 翼の揚力の理論  
1907

レオ・ベークランド

※プラスチックの父

ベルギー

ベークライト

※世界初の合成プラスチック

伸び盛りの電気産業では、電線用の新たな絶縁体が求められていた。当時、絶縁体に使われていたセラック(天然樹脂)の需要に供給が追い付いていなかった状況下で

ベークランドは合成プラスチックであるベークライトを発明した。ベークライトはフェノールとホルムアルデヒドから作られる固い透明な樹脂であり、成型が容易で、どんな形のものも作ることができた。自動車のエンジン部品から人工宝石まで様々な製品の材料に利用された。

1907 ケルヴィン卿 イギリス ケルヴィン卿、逝去。  
1908

万国電気単位会議

 

電流の単位:国際アンペア

化学的現象(電気めっき)によって電流の単位(アンペア)が定義された。「1アンペアは硝酸銀水溶液中を通過する電気が1秒間当たり0.001118000gの銀を析出させる電流」と定義。この定義を国際アンペアと呼ぶ。
1908 ヴァルター・リッツ スイス

リッツの結合原理

(リュードベリ=リッツの結合原理)

一般に任意の原子のスペクトル線の振動数(波数)の和または差は、当該原子の別のスペクトル線の振動数に一致するという経験則を発見。水素原子のスペクトル線を定式化したリュードベリの式(1890年)は、波長(の逆数)を用いた表記であったが、リッツの結合原理は任意原子のスペクトル線に対する経験則であり、振動数(波数)を用いた表記である。

1908

アーネスト・ラザフォード

トマス・ロイズ

ハンス・ガイガー

ニュージーランド

イギリス

α粒子の正体

※+2eのヘリウム原子核)

【α線の質量電荷比】

1903年、ラザフォードはα線の電場・磁場による曲がり具合から、その速度と質量電荷比を測定した。質量電荷比は2となりHeイオンと推定。

【α線の正体】

1908年、シンチレーション(放射線が蛍光物質にに当たると、その位置が明るく点状に光る現象)を利用して、α線源(ラジウム)から単位時間当たりに放出されるα線の粒子数を数えた。ここから単位時間当たりの電気量も測定し、α粒子1個当たりの電荷を求めた。電荷を決定したラザフォードは、α粒子は正電荷+2eのヘリウム原子核と結論付けた。

※分光学的実証の側面では、集めたα粒子を放電管に導き、放電させその発光スペクトルがHeのそれと一致するのを確認(1909年)。

1908 ハンス・ガイガー ドイツ

ガイガーカウンター(計数管)

この時のガイガーカウンターの性能はα線のみ検出可能なものだった。

1908 ヘイケ・カマリング・オネス オランダ

ヘリウムの液化

デュワーが開発した三重構造の魔法瓶を用いるカスケード法により、外から順に液体空気、液体水素を用いて冷却し、最終的にジュール・トムソン効果で絶対零度4.2Kでのヘリウム(He)の液化に成功した。

1909 ジャン・ペラン フランス

アボガドロ数の測定(ペランの実験)

原子・分子の実在性を証明

1905年にアインシュタインが提示したブラウン運動の理論式を使い、実験的にアボガドロ数を測定した。1908年から1913年にかけて実験を続けたペランは、粒子の水平方向の変位を一定の時間間隔を置いて記録し、そのデータから算出されるアボガドロ数の平均値として約6.4×10^23の値を得ている。

ペランによって目に見えない原子や分子の実在性が間接的に示されたわけだが、本業績に対して送られたノーベル賞(1926年)の受賞講演でペランは次のように述べている。

「原子、分子の存在は証明されたが、それを直接、観察できたら、物質に関する理解はさらに深まるに違いない」

【原子の直接観察】

原子の直接観察はクルーによる重元素原子の一個一個の電子顕微鏡写真(1971年)で達成された。1978年には走査型トンネル電子顕微鏡(STM)がゲルト・ビーニッヒハインリッヒ・ローラーにより開発され、その後の技術発展によりSTMはオングストローム・オーダーの観察のみならず原子一個一個をレンガを積むように操作することが可能になっている。

1909

ハンス・ガイガー

アーネスト・マースデン

ドイツ

イギリス

α線の散乱実験

(ガイガー=マースデンの実験,ラザフォードの散乱実験)

原子の内部構造の推定

原子模型(スイカ模型土星型模型/1904年)の検証のため原子内の重い正電荷の分布を調べる必要があった。ラザフォード指導の下でガイガーとマースデンは、薄い金属箔に対するα線(正電荷のヘリウム粒子)の散乱実験を実施。用いたα線源は天然の放射性元素(ラジウム)である。

・大半のα線は直進して箔を突き抜けるが、ごく一部(8000個に1個の割合)が箔の表面で反射され90度以上の大きな角度で散乱した。

・8種類の金属箔で同様の実験を行い、原子量が大きいほど反射されるα線の割合が増加した。

この実験から、(当時原子の構成要素として知られていた)電子よりも質量が8000倍も重いα粒子を跳ね返すだけの、正電荷を帯びた質量が局在的に存在する核のような内部構造の存在が示唆された。※1911年に正式に有核模型として発表。

1925年、ラザフォードはネルソン(ニュージーランド)の講演『電気と物質』の中で、ガイガー=マースデンの実験について「まるで砲弾を薄い紙に目掛けて射ったら、それが手前に跳ね返ってきたときのようにびっくりした」と回想している。

1909 ロバート・ミリカン アメリカ

ミリカンの油滴実験

電子の電荷 (電気素量)

噴霧器から吹き出した油滴にX線を照射して帯電させ、そこに電場を掛けることにより油滴の上昇・落下速度を測定。油滴に働く重力、空気の粘性抵抗、クーロン力を変数とした速度算出式を作り、速度を求めることで電気素量(電子1個が持つ電荷、単位はC)を測定した。

なお、既に比電荷(電荷/質量)はJ.J.トムソンなどにより測定(1897年)されており電荷から電子1個の質量も求められた。

1909 フリッツ・ハーバー ドイツ

アンモニア直接合成法

※空中窒素固定法

ハーバーは1904年からアンモニア合成の研究に着手。高温高圧下(175気圧,550℃)で金属片のオスミウム触媒を用いた実験を行い、1909年7月に水素と窒素から直接的なアンモニア合成に成功した。ハーバーが実験室レベルで成功したこの合成法は、BASF社のボッシュが工業的製法(ハーバー=ボッシュ法)に発展させる。

1909 

アンドリア・モホロビチッチ クロアチア

モホロビチッチ不連続面

地殻とマントルの区別

クロアチアの地震学者モホロビチッチは、地震観測で地球内部のある深さ(地下70km)を境としてP波の速度が変化することを発見し、モホロビチッチ不連続面と命名。この境界面は地球の三層構造のうち地殻とマントルの境界を指す。

1910     ハレー彗星、回帰  

1910

フレデリック・ソディ イギリス

同位体(アイソトープ)の概念

 
1910

オーエン・リチャードソン

イギリス

熱電子放出の理論

エジソンが白熱電球の劣化を調べた際に発見したエジソン効果(1883年)に対して、理論的な説明を行った。金属の加熱に伴う熱電子放出による電流密度が温度の関数となる式(リチャードソン=ダッシュマンの式)を提示。

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1911     第1回ソルベー会議

議題は「放射理論と量子」。

1911

ヘイケカマリング・オネス

オランダ 超伝導現象

ケルビン卿によれば、極低温では電子は原子内の引力に囚われて電気抵抗値は増大し、電流は流れないと考えられた。しかし、水銀(Hg)を絶対温度4.2Kまで液体Heを用いて冷却すると突如として電気抵抗がゼロまで落ち込み、電池のスイッチを切っても電流は流れ続ける超伝導現象を発見した。

※超伝導現象の理論的説明であるBCS理論(1957年)は、約46年後となる。BCS理論では量子統計的な粒子分類においてフェルミ粒子である電子の間で、何かしらの引力が働いてペアを作ることによりボース粒子(フェルミ粒子が偶数個の粒子)となることで、各ペアが同一状態に縮退し(重ね合わされ)、超伝導現象が引き起こされると説明される。

1911

アーネスト・ラザフォード

ニュージーランド

原子の有核模型

(ラザフォードの原子模型)

原子核の存在確認と命名

ガイガー=マースデンの実験(1909年)をもとラザフォードは原子の有核模型を提唱。α線を跳ね返した正電荷をもつ原子核は10^-15m程度と推定された。原子の空間的広がり(約10^-10m)に比べて"点"(約10万分の1)に過ぎない原子核が原子の質量の大部分を担っていると説明。本モデルは実験結果に基づくものの、なぜ原子核の周囲に広がる電子が原子核に引き込まれることなく、原子として安定して存在し続けるのか等の説明できない点があった。以下、ラザフォードの有核原子模型の問題点を記す。

①なぜ原子はその大きさを安定的に維持できるのか

電磁気学によれば、原子核に対して電子がその周囲を回転運動(加速度運動)した場合、電子はその軌道に沿って光を放出しながら自身の運動エネルギーを徐々に失っていく。つまり渦巻き状に電子の円軌道は小さくなり、最後は原子核に飲み込まれ(死のらせん階段と呼ぶ)、10^-11秒後には原子は原子核サイズに潰れてしまうはずである。しかし、そうはならず原子は安定的にその大きさを維持している。もはや原子の世界では、古典物理学(電磁気学)の法則が適用できない。

②なぜ原子から放射される光は線スペクトルなのか

原子のこの間、電子から発生する光の波長を想像すると、次第に短くなり連続スペクトルが得られると考えられる。しかし実際には、原子は潰れることはないし、水素原子のバルマー系列(1885年)に見られるように線スペクトルが観測されている。

1911

アルベルト・アインシュタイン

ドイツ

論文『光の伝播に対する重力の影響』

重力による空間の歪みと光線の曲進を指摘

アインシュタインは論文を発表し、光線は強い重力場で曲げられることを指摘した。この中で太陽の傍を通る光線は角度にして0.83秒ほど曲げられ、その湾曲は皆既日食の時には観測可能なはずだ、と結論付けた。なおこの検証実験は1919年まで待つことになる。ちなみに惑星で最も重い木星の近傍でも光は曲げられるが、アインシュタインの計算によれば、その湾曲の大きさは太陽の1/1000でしかなかった。

※1915年に完成した一般相対性理論で再計算すると、太陽の縁をかすめる光線は以前の計算の約2倍の1.75秒曲げられることが分かった。

※1度の1/60が1分、1度の1/3600が1秒

1911

C.T.リーズウィルソン

イギリス

霧箱(ウィルソン霧箱)

放射線の飛跡の可視化

霧の生成メカニズム解明に使用した断熱膨張装置を改良し、放射線の電離作用により空気中に発生するイオンを霧の軌跡として検出できるようにした霧箱(Cloud Chamber)を作製。ラザフォードは

1911

ヴィクトール・フランツ・ヘス

オーストリア

=ハンガリー

宇宙線(宇宙放射線)

当時、地上付近の放射線の存在は知られていたが、それは地球内部からの放射線と考えられていた。ヘスは軽気球を用いて(太陽の出ていない)夜間や日食期間における高度5000mでの大気の電離現象を測定した。高度が上がるほど放射線の強度が増したため、これは太陽光ではなく宇宙(地球外)から飛来する透過力の大きい放射線と結論づけた。この宇宙起源の放射線は1925年にミリカン宇宙線と命名される

1911

ポール・ランジュバン

フランス

双子のパラドックス

兄の移動にはロケットの加速・減速に伴う加速度系が含まれる一方、弟の移動は慣性系である。慣性系と加速度系では時計の進み方が異なる。

1912

ジョゼフ・ジョン・トムソン

(J.J.トムソン)

イギリス

質量分析器の原型

安定同位体

正電荷を帯びたネオンイオンの流れ(カナル線,陽極線)に電磁場を作用させた。ネオンイオンの進路は電磁場により曲げられ、照射される写真板には2つの点(感光部)が出現。これは質量の異なるネオン20とネオン22という安定同位体であった。この装置は質量分析器の原型となり、放射能を持たない安定同位体の研究に貢献する。

1912

マックス・フォン・ラウエ

ウォルター・フリードリッヒ

パウル・クニッピング

ドイツ

ドイツ

ドイツ

結晶によるX線回折(ラウエ斑点)

※X線の波動性

X線が波長の短い電磁波と考えるなら、X線の波長と同程度の距離で原子が規則正しく配列する鉱物結晶が回折格子になるとラウエは考えた。ラウエの指摘に従い、フリードリッヒとクニッピングが実証実験のため、硫化亜鉛(ZnS)の単結晶に連続X線(様々な波長を含むX線、白色X線)を照射した。その結果、写真乾板上に規則正しい斑点(ラウエ斑点と呼ぶ)が多層状に現れるX線回折像を得た。

1912 マックス・フォン・ラウエ ドイツ

ラウエの方程式

X線回折(ラウエ斑点)の発見の2週間後、ラウエは「三次元回折格子における回折の理論」として、ある波長のX線が結晶により回折される条件(ラウエの方程式)を発表した。

1912

ヘンリー・ブラッグ

ローレンス・ブラッグ

(ブラッグ父子)

イギリス

イギリス

結晶構造解析の始まり

ブラッグの条件(法則)

ラウエの理論を簡素化したブラッグの条件(X線の波長、X線の入射角、結晶の周期性の距離)を発表し、結晶構造(原子の3次元配列)を決定する方法(結晶構造解析)を提唱した。ラウエらの目的が結晶物質を用いたX線の波動性(回折現象)の実証であったのに対して、ブラッグ父子の目的はX線回折を利用した結晶物質の結晶構造の決定だった。

1912 ピーター・デバイ オランダ

デバイ模型

デバイの比熱式

※固体の比熱理論

アインシュタイン模型(1907年)に固体(結晶)全体の格子運動(フォノン)を考慮して改善したものがデバイ模型(デバイの比熱式)である。デバイ模型では、高温領域においてアインシュタイン模型同様によく一致することに加えて、低温領域においても比熱が温度の立方に比例して減少するという挙動をよく再現できている。

1912

オットー・ザックール

ヒューゴ・テトローデ

ドイツ

オランダ

ザックール=テトローデ方程式

※理想気体のエントロピーの式

S≈NklnV+3/2NklnU

ここで粒子数Nと内部エネルギーUは一定とすると、ΔS=Nkln(Vf/Vi)となり、気体の体積が2倍になるとエントロピーの変化は、ΔS=Nkln2だけ増加する。

1912

ヴェスト・M.スライファー

アメリカ

赤方偏移

※遠方銀河の後退速度の測定

遠くの銀河(系外渦巻銀河)から来るスペクトル線の波長が赤色側にずれている(赤方偏移)ことを発見。この赤方偏移は光のドップラー効果であり、遠方銀河の後退速度の測定に利用される。

1912

フリッツ・ハーバー

カール・ボッシュ

ドイツ

ドイツ

ハーバー=ボッシュ法

(アンモニアの工業的製法)

ハーバーはアンモニア合成(1909年)の成功後、BASF社(Badische Anilin und Soda Fabrik)の援助(特許の買い取り)を受けてボッシュとともに工業化の研究を続け、1912年にアンモニアの工業的製法(ハーバー=ボッシュ法,HB法)を確立した。翌年には日産10トンのアンモニア合成工場の運転が始まった。平時には水と石炭と空気からパンを作ると言われる一方、戦時には空気から火薬を作ると言われ、ドイツは第一次世界大戦で必要な全火薬原料を国内調達でき(チリ硝石はイギリスの管理下にあり入手経路が経たれていた状態)、戦い続けることができたとされている。

※100年以上たつ現在でも大型施設と電力を要するHB法はアンモニア製造の主流であるが、より低温・低圧で製造可能な触媒開発が進められている。

1912 アルフレート・ヴェーゲナー ドイツ 大陸移動説を発表  
1913

ヘンリー・ブラッグ

イギリス

X線分光器

食塩とダイヤモンド等の結晶構造

ヘンリー・ブラッグは、オーストラリア(アデレート大学)での機器製作で培った技術を活かし、X線の波長を正確に測定できるX線分光器を製作した。X線分光器により分光された測定対象となる結晶物質の回折X線の波長をブラッグの条件に当てはめると、結晶内の原子配列(原子間距離)を調べられる。この方法で食塩やダイヤモンドなど数々の結晶の原子配列を明らかにした。
1913 ヨハネス・シュタルク ドイツ シュタルク効果 強い電場を掛けると、原子の発光スペクトル線が分岐する現象(シュタルク効果)を発見した。なお強い磁場作用による原子の発光スペクトル線の分岐はゼーマン効果(1896年)と呼ぶ。
1913 ニールス・ボーア デンマーク

論文『原子と分子の構造』

ボーアの原子模型

①量子条件(2πr×mv=nh)

②定常状態(エネルギー準位)

③振動数条件(遷移条件)

原子構造の量子論

※ここまで前期量子論と呼ぶ

ボーアは、ラザフォードの有核原子模型(1911年)の論文を読み、直感的に放射能は原子核に、元素の化学的性質は原子核の周囲を回る電子の振る舞いに起因すると見抜いたとされる。また有核原子模型の問題点とされた「なぜ原子は潰れてしまわないのか」という問題に取り組んだ。

友人から聞いた水素原子のバルマー系列の関係式(バルマー/1885年)がヒントとなり、3つの仮定(条件)に基づいたボーアの原子模型を提唱。ボーアの原子模型による原子内の電子の在り様は以下の通り。

①量子条件

電子は原子核を中心とした不連続に変化する特定の軌道にのみ存在可能。

②定常状態

その軌道を回転する時は電子は光を放出せず固有のエネルギー状態を維持。電子が取りうる最低エネルギーの状態を基底状態という。

③振動数条件

不連続な軌道間を飛び移る(遷移)時に限り、両軌道の定常状態にある電子の運動エネルギーの差が光として放出(内側に遷移)もしくは吸収(外側に遷移)される。

以上の①~③に基づけば、ラザフォードの有核原子模型の欠点(なぜ原子は潰れないか)は回避でき、またバルマー系列の線スペクトルの説明や光量子仮説との整合性をとることができた。特に②は、回転運動する荷電粒子は絶えず光を放つことで自身の運動エネルギーを消耗するという、古典物理(マクスウェル電磁気学)の常識を無視する大胆な前提である。

ボーアの原子模型の欠点は、仮定②が成立する根拠を説明していない点、最も簡単な水素原子にしか成立しない点、放出される光の明るさ(強度)については何も示していない点である。以上の欠点は残るものの、ボーアの原子模型は古典物理学と量子物理学をつなぐ橋渡しとなった。一般に、プランクの量子仮説(1900年)からボーアの原子模型(1913年)までを前期量子論と呼ぶ。

※ボーアの量子条件や定常状態は、後に電子を波と考えることでド・ブロイ(1923年)により説明される。

1913 ヘンリー・モーズリー イギリス

モーズリーの法則

原子番号と元素固有X線の関係

原子番号の科学的意味

(→原子核の電荷数=陽子数)

未発見の元素の予言

当時、加速した電子を原子に照射すると、元素に固有のエネルギーを持つ特性X線が放射されることは知られていた。モーズリーは様々な金属元素の特性X線の波長を調べ、その逆数(振動数)の平方根が元素の原子番号に比例するモーズリーの法則を発見した。

従来、原子番号(Z)とは元素周期表の位置を表す背番号に過ぎなかったが(時代によって基準がブレて順序の入れ替わりもあった)、モーズリーは、原子番号が意味するものは原子の中心(原子核)にある正電荷(陽子の発見は1919年)の数だと解釈した。モーズリーの法則は、周期表上の元素の抜け(未知の元素)の存在も予測でき、その元素の特性X線エネルギー(keV)も概ね予測できた。

化学的性質と原子量に基づいて配置された元素周期表の順序は、一部で原子量の逆転が起きる不規則性も見られていた(原因となる同位体の発見は1912年)。しかし、モーズリーの法則により原子番号とは原子核の正電荷の数とする新たな定義が生まれ、元素周期表の同位体比率による逆転をただし、完全な形に導く科学的根拠を与えた。実際にその主張を検証するのはチャドウィックである(1920年)。

1913

フレデリック・ソディ

カジミア・ファヤンス

イギリス

ポーランド

放射性崩壊の変位則

(ソディ=ファヤンスの法則)

ソディ、ファヤンスはそれぞれ独立に、放射性崩壊の変位則を発見。

1913 高峰譲吉 日本

国民科学研究所の必要性を提唱

高峰譲吉が築地精養軒にて、「国民科学研究所設立の必要性」について演説。渋沢栄一、桜井錠二ら官・財界人「国民科学研究所」構想を議論。

※1917年に渋沢栄一を設立者総代として理化学研究所が設立される。

1914   日本

桜島、噴火

 
1914   欧州

第一次世界大戦、開始

※1914年~1918年

 
1914

ジェームス・フランク

グスタフ・ヘルツ

ドイツ

ドイツ

フランク=ヘルツの実験

※電子と気体原子の衝突実験

ボーアの原子模型の実証

原子のエネルギー準位

放電管内で加速させた電子を管内に封入した気体原子に衝突させ、気体原子が吸収しやすいエネルギーを調べる実験(フランク=ヘルツの実験)を実施。加速電圧を変化させて電子の運動エネルギーを変化させると、気体原子が特異的に吸収するエネルギーが存在することが電流値の増減として確認された。気体原子が吸収する(=気体原子に束縛される電子を弾き飛ばすのに使われる)エネルギーは、入射電子の損失エネルギー量がちょうど原子の線スペクトル(特性X線に相当)として現れる光子のエネルギーと一致した。

この実験により、ボーアの原子模型が示すように、原子が束縛する電子軌道は不連続でること(量子条件)、電子は各軌道で光を放出せずに安定的に存在すること(定常状態)が実証された。

※グスタフ・ヘルツは電磁波の発見者であるルドルフ・ヘルツの甥である。

1914 エルヴィン・フロイントリッヒ ドイツ

重力レンズ効果の観測計画

※戦争により失敗に終わる

アインシュタインが1911年に重力による光の湾曲を指摘して以来、ベルリン天文台助手の若き天文学者フロイントリッヒはアインシュタインと光の湾曲(重力レンズ効果)の測定について連絡を取り合っていた。日食を利用すれば観測できると分かり、観測隊をクリミア半島に派遣して1914年8月21日に起きる皆既日食を観測する計画を立てた。

1914年7月19日、フロイントリッヒは仲間2人(一人はカール・ツァイスの技師)と共にベルリンを発って、1週間後にはクリミアのフェオドシアに到着し、望遠鏡と4台のカメラの整備を開始した。しかし日食を3週間後に控えた1914年7月28日、オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告して、第1次世界大戦が勃発した。突如として敵(セルビア・ロシア陣営)の真っただ中に取り残されたフロイントリッヒは逮捕され戦争捕虜となり、観察計画は無散してしまった。

なおこの時のクリミアでの日食観察にはアルゼンチンの観測チームも来ており、その観察目的は水星の近日点移動の異常の原因と見られる太陽に最も近い未知の惑星ヴァルカンの発見であった。翌年1915年にアインシュタインが一般相対性理論を完成させた時、水星の近日点移動は惑星ヴァルカンを持ち出す必要もなく重力場の影響として説明される。

1914

アルベルト・アインシュタイン

マルセル・グロスマン

ドイツ

未完成の一般相対性理論

※一般共変性の断念

アインシュタインは1905年に発表した特殊相対性理論を実証するべく、皆既日食を利用した太陽の重力場による光の曲進現象の観測の準備を行っていた。その一方で、相対性理論をより普遍的に宇宙のどこでも使えるように、慣性系に限定された特殊相対性理論を加速度系にも適用可能な一般相対性理論の構築を進めていた。

重力場により曲がった時空を扱うための数学的ツールとしてリーマン幾何学が有用だと説いたのは親友の数学者グロスマンであった。リーマン幾何学において座標の各点の幾何学的特性を記述する計量テンソルgμν(4次元時空の場合、16個の変数で定義)が重力ポテンシャルを規定する量として利用できることが分かった。以来、一般相対性原理(全ての座標系で物理法則が同じ形式として表される)を実現可能な重力場方程式の探索に没頭した。1914年11月、グロスマンとの共同研究で最終版と自負する論文を発表した。しかしこの論文は一般相対性原理(一般共変性の原理)を断念することで導かれたもので、宇宙のどこでも通用する一般共変性を備えた重力場方程式ではなかった。

※しかし翌年、一般相対性原理の実現という原点に立ち返えり論文を再検討したところ、より単純化された重力場方程式が導かれ、またその近似にはニュートン方程式も含まれていた。

1915

アルベルト・アインシュタイン

ドイツ

論文『一般相対性理論』

一般相対性理論

公理①:等価原理

測地線方程式

重力場方程式

1915年11月4日、アインシュタインはベルリンのプロイセン科学アカデミーで論文『一般相対性理論について』と題した論文を読み上げた。ここで1914年に一般共変性を断念して得られた理論を誤りだったと認め、

アインシュタインは1905年に特殊相対性理論を発表したが、こちらは慣性系という力が働かない特殊な場合にしか適用できない。しかし、現実世界ではあらゆる物体に重力が働く加速度系にも適用できる理論に拡張する必要があった。この理論の拡張に約10年要した。

慣性系(外力のない等速直線運動)を扱った特殊相対性理論に対し、加速度系(重力場などの外力が働く運動)まで拡張。等価原理とは重力場と加速度系が区別できないこと。ニュートンの万有引力理論を全面的に刷新し、ニュートン力学と比べて運動の速度が速い場合(ミクロ世界の光速度に近い粒子の運動)、重力が大きい場合の現象を正しく記述できる。重力場で光が曲がる、宇宙は膨張か収縮している、などの結論が得られる。

アインシュタインは一般相対性理論の発表後は、宇宙論や統一場理論(重力と電磁力の統合)に向けて、後半生を費やす。

【アインシュタインの指摘した一般相対性理論の正しさを証明する実例】

アインシュタインは水星の近日点移動と太陽近傍を通過する光の曲進の2点について、すぐに一般相対性理論の正しさを立証する実例として言及した。ここでは後者について述べる。アインシュタインは重力による光の曲進現象を1911年の論文『光の伝播に対する重力の影響』で既に報告しており、その時の計算値は約0.83秒だった。一般相対性理論が完成した後に再計算すると曲進の度合いは約2倍の1.75秒となることを指摘した。ニュートン力学では、光がそのエネルギーに相当する質量を持つと仮定して計算される湾曲は約0.87秒と計算されるため、実際に観測することで、いずれの理論が正しいか判定することができるとした。実際に1919年にエディントンにより皆既日食の折に観測され、一般相対性理論の正しさが立証される。

1915

アルベルト・アインシュタイン

ドイツ

水星の近日点移動の理論説明

※一般相対性理論の実証

未知の惑星ヴァルカン説の否定

アインシュタインは一般相対性理論の正しさを説明する最初の実例として、水星の近日点移動を取り上げた。近日点(惑星の公転軌道の太陽に一番近い点)は長い年限をかけて少しずつ位置を変えるが、水星においてはニュートン力学の計算値されるよりも100年間当たり43秒ほど大きい変化が観測されており、長年問題となっていた。従来、水星のさらに内側に未知の惑星ヴァルカンがあり、その惑星の重力場の影響だと考える天文学者もいた。同様の推論で海王星が発見されたこともあり、実際に惑星ヴァルカン探索のため皆既日食を利用した観測隊も派遣されていた。

1915年11月18日、アインシュタインは水星の近日点移動についての成果を発表した。一般相対性理論においては惑星の作用がなくても近日点が移動し、実際の観測値と見事に一致する結果が得られた。

1915 

アルベルト・アインシュタイン

ドイツ

論文『重力場の方程式』

一般相対性理論

重力場方程式(アインシュタイン方程式)

Rμν-1/2gμνR=(8πG/c^4)Tμν

1915年11月25日、『重力場の方程式』と題した論文をアカデミーの物理数学科会で読み上げた。難産だった一般相対性理論がついに完成した。

アインシュタインが辿り着いた重力場方程式は、あらゆる座標系においても物理法則・理論が形を変えないという一般相対性原理(一般共変性、一般座標変換に対する不変性)を保証しつつ、時空の本質を簡潔に記述している。

Rμν-1/2gμνR=(8πG/c^4)Tμν

重力場方程式は、3つのテンソルの項からなり物質のエネルギー・運動量テンソルTμνによって、重力場を表す計量テンソルgμνが決まることを示す。Rμνは時空の形状を表すリッチ・テンソル、Rはスカラー曲率、Gはニュートンの重力定数である。

1915

アルノルト・ゾンマーフェルト

ドイツ

水素スペクトルの微細構造理論

 
1915 アルフレート・ヴェーゲナー ドイツ

大陸と海洋の起源

 
1915 パーシヴァル・ローエル アメリカ 冥王星の存在を予言 ローエルは天王星と海王星の軌道計算(理論値)と観測結果のズレに基づいて、未知の惑星の存在を示唆。その予言通りトンボーが冥王星を発見するのは1930年である。なお冥王星Plutoの名には、パーシヴァル・ローエルのイニシャル(P.L)の意味も込められている。
1915 カール・シュヴァルツシルト ドイツ

シュヴァルツシルト解

シュバルツシルト・ブラックホール

※静止した球対称ブラックホール

※ブラックホールの最初の示唆

一般相対性理論の重力場方程式(アインシュタイン/1915年)は非常に一般化された時空方程式で、数学的には無数の解を持つ。解の大部分は簡単な数式で表現できないが、球対称や軸対称などの単純な仮定を置くことでいくつかの解が得られる。

シュバルツシルトは、空間に大質量の天体が存在させた場合にその空間自体が重力で歪み、一旦飲み込まれると光でも脱出できない領域(シュヴァルツシルト半径)を表す解(シュヴァルツシルト解)を発見した。シュヴァルツシルト半径はブラックホールの表面であり、この境界を特に「事象の地平面(event horizon)」と呼ぶ。事象の地平面という境界によって空間の性質が急激に変わるわけではない(それは滝に例えられる)。

シュバルツシルトがその存在を最初に示唆したブラックホールは、その中では最も単純な静的球対称のタイプ(シュヴァルツシルト・ブラックホール)である。なお当時のブラックホールの予言は、机上の空論に留まり、具体的な発生メカニズムにまで言及したものではない。

【太陽のシュヴァルツシルト半径は】

太陽の質量(約2×10^30kg)に相当するシュヴァルツシルト半径(r=2Gm/c^2)は約3kmほどであるが、太陽の半径は約70万kmと大きくブラックホール化するには密度が薄い。参考

仮に太陽が同じ質量でブラックホール化した場合、約500秒後に地球に届く光は止むが、重力作用については変わらない。

【ブラックホールの名前について】

現在、定着しているブラックホールという名前は、ジョン・ホイーラーが1967年12月に行った講義で初めて用いられたとされる。それ以前は重力崩壊星とか、凍結星とか呼ばれた。

【ブラックホールの実在性について】

ブラックホールの理論的発生プロセスは、1939年にオッペンハイマーとシュナイダーが一般相対性理論に基づいて説明(星の死に伴う重力崩壊による無限縮小)した。現実の宇宙にブラックホールの存在が示唆されたのは、1971年に発見された"はくちょう座X-1(Cyg X-1)"からである。

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1916 アルベルト・アインシュタイン ドイツ

論文『重力場方程式の積分の近似法』

光速度で伝播する重力波の存在を指摘

アインシュタインは論文にて電磁気学とのアナロジーから、重力波の存在を指摘した。重力場がエネルギーと運動量を運ぶ波動となり、電磁波と同様に真空中を光速度で伝播するという結論が提示された。

1916 ロバート・ミリカン アメリカ

光電効果の精密実験

プランク定数の算出

ミリカンはアインシュタインの光量子仮説を確認するべく、金属Na板に様々な振動数の単色光を照射し、光電効果に伴い生じる光電子の運動エネルギー(T)を測定した。理論上、T=hv-Wとなり、hvは入射する光量子のエネルギー、Wは原子に束縛される電子を光量子が断ち切るために使われるエネルギー(仕事)である。結果、Wを下回るエネルギーの光量子をいくら照射しても光電子は得られず、Wを超えると入射した光量子の振動数に応じたTが得られ、光量子仮説の正しさを示した。またミリカンはプランク定数を実験的に算出した。
1916

ピーター・デバイ

パウル・シェラー

オランダ

スイス

粉末結晶によるX線分析法

(デバイ=シェラー法)

 
1916

ワルター・コッセル

ドイツ

コッセルの化学結合理論

※量子論的なイオン結合の説明

円環の電子配置モデル

オクテッド説(8偶子説)

コッセルは、ボーアの原子模型(1913年)をベースにした円環の原子モデル(電子配置モデル)を用いてイオン結合を説明した。オクテッド説(最外殻電子が全て充填した希ガス電子配置が安定)を前提とし、イオン結合は電子が1つの原子から他の原子に移り、静電的な相互作用によって引き起こされると説明した。
1916 ギルバート・ニュートン・ルイス アメリカ

ルイスの化学結合理論

※量子論的なイオン結合及び共有結合の説明

立方体の電子配置モデル

ルイス構造式(電子式)

オクテッド説(8偶子説)

ルイスは、入れ籠状の立方体の原子モデル(電子配置モデル)を用いて、イオン結合や共有結合を説明した。原子核を覆う各立方体の頂点8個に電子が配置されるが、原子核に最も近い電子配置は2個である。周期表の第二周期の原子ではLiからFへと進むにつれ、立方体の頂点を順に電子が占めていき、Neは8個の電子で立方体が満たされ安定で不活性な原子となる(オクテッド説)と説明。化学結合では、立方体が電子で満たされない頂点を2つの原子が共有することで生じると説明された。単結合は立方体の辺(電子2個)の共有、二重結合は立方体の面(電子4個)の共有で説明できるが、窒素分子のような三重結合は取り扱えなかった。食塩のようなイオン性の塩に対しては、NaとClが電子の過不足を補い合い互いに希ガスの電子配置で電荷を帯びて、イオン結合が生じる。

ルイスは化学結合に関与する最外殻電子を・で表す方法(ルイス構造式/電子式)を考案し、例えば水素分子ならH:Hと表した。ルイスの立方体の電子配置モデルは短命であったが、この結合の表示方式は今でも化学の教科書に使われており、共有結合の本質が2つの原子が1対の電子を共有することにあることを明確にした。

【ルイスとラングミュアの確執】

ルイスが軍務について一時研究から離れた頃、ラングミュアはルイスの化学結合論を改良・拡張し、講演などを通じて欧米中心に広めた。化学結合(covalent bond)という用語もラングミュアが導入した。こうした背景もあり、共有結合の理論をルイス=ラングミュアの理論とも呼ばれるが、最初の提唱者のルイスとしては、並列して扱われることは受け入れ難いことだった。

1916

ワルター・コッセル

ドイツ

X線吸収スペクトルの吸収端理論

 
1916

アルノルト・J.ゾンマーフェルト

ドイツ

微細構造定数

原子のスペクトル線が微細なズレを示して分離する現象を説明するために導入した無次元量の項。電子の電荷e、プランク定数h、光速度cといった物理定数を組み合わせた2πe^2/hcであり、約1/137である。
1916    

ライスナー=ノルドシュトルム解

※帯電静止した球対称ブラックホール

 
1917

アルベルト・アインシュタイン

ドイツ

論文『一般相対性理論についての宇宙論的考察』

重力場方程式による宇宙像

宇宙項

一般相対性理論の重力場方程式を宇宙全体に適用し、数学的な解として宇宙は膨張もしくは収縮するという動的な振る舞いとなることを示した。宇宙は静的で安定して存在すると予想していたアインシュタインの意に反する結果に対して、物理的根拠が不明のまま、恣意的に宇宙を収縮させる重力の効果を打ち消せる"宇宙項"(未知の普遍定数をテンソルに乗じた項)を重力場方程式に組み込んだ。後にハッブルが宇宙の膨張を発見(1929年)したことを受けて、アインシュタインはこの宇宙項を放棄する。

1917 ヴェスト・M.スライファー アメリカ

渦巻き銀河の回転運動を観測

 
1917 渋沢栄一 日本

理化学研究所、創立

産業の振興を図るため、物理学と化学の基礎研究と応用研究を遂行する目的で東京都文京区駒込の地に設立された半官半民の研究機関。第36回帝国議会(1915年)にて理化学研究所設立を決定。※理化学研究所の沿革はこちら

1918 ニールス・ボーア デンマーク 対応原理

ミクロ世界特有の不連続な世界を記述する量子論において、極端に大きな量子数を扱う(古典物理でも記述できるマクロ世界の)場合には、量子論特有の不連続性が無視できるほど小さくなり、古典物理学の法則に近似される。つまり、量子論はある極限では古典物理学に対応するだろう…とする、ボーアが量子論を発展させる上で提案した指導原理(対応原理と呼ぶ)を指す。

具体例としては、ボーアの原子模型の電子のエネルギー準位は、リュードベリの式に見られるように整数の平方に反比例(1/n^2に比例)する。nが小さい場合は差が大きく不連続性が顕著に表れるが、nが大きくなると差が小さくなり実質的に連続だと見ることができる。

1918 ハーロー・シャプレー アメリカ

銀河系における太陽の位置

球状星団の分布を観測し、銀河系の直径は約30万光年、太陽の位置は銀河系の中心から約5万光年外れた場所にあると推定。

1919 アーネスト・ラザフォード イギリス

α粒子による原子核破壊

※核変換による錬金術の可能性

陽子 (原子の構成要素)

※命名は1920年

ラザフォードはラジウム(Ra)をα線源に用いて、高速のα粒子を軽元素(N,B,F,Na,Al,Pなど)に衝突させる"原子核の破壊実験"を実施した。いずれからも水素原子核が叩き出されたことを受けて、翌年(1920年)には原子核に共通する構成要素である水素原子核を"陽子"と呼ぶことを提唱する。

衝突実験により、原子核変換(NはOへ)されることを発見。水素原子核の同定方法は、飛程や比電荷(磁場による屈曲実験)による。

【標的元素の違いと目的】

1909年のガイガー=マースデンの実験(α線の散乱実験)では、重元素である金(Au)を標的元素としたが、これは正電荷の大きい重元素の方が原子核の破壊よりも散乱(反発)しやすいからである。一方、1919年のα線を用いた原子核破壊実験で軽元素を標的元素とするのは、正電荷の弱い軽元素の方がα線が原子核に接近でき、破壊させやすいためである。

※電荷を持つα線を使う限り、重元素のような正電荷の大きい原子核には接近できず、基本的には核変換による原子番号の増減はせいぜい±2程度。重元素の原子核を割るには中性子が必要。

1919 フランシス・アストン イギリス

質量分析器

同位体研究

J.J.トムソンが安定同位体の発見に至った質量分析器(1912年)を改良。特に荷電粒子の入射速度のバラつきによって質量スペクトルが乱れる影響を抑制し、原子量の高精度な測定を可能にした。同位体の存在により原子量が整数にならない理由を示し、周期表(原子番号順)の原子量が一部で逆転する現象を解明した。

1919 

アーヴィング・ラングミュア アメリカ

ルイス=ラングミュアの原子価理論

共有結合(covalent bond)

表面化学の先駆者として業績を上げていたラングミュアは1919年に化学結合論を研究対象とし、先行するルイスの説を改良・拡張し、世に広めた。共有結合(covalent bond)という用語も導入した。ラングミュアはルイスの先取権を尊重したが、ルイスの理論はルイス=ラングミュアの理論と呼ばれるようになった。

【共有結合理論の発展】

その後1927年にシジウィックにより共有結合の一種である配位結合の理論に拡張される。配位結合は、錯体化学などで一方の原子が結合に必要な電子対を出す場合を指す。

1919 ハインリッヒ・バルクハウゼン ドイツ

強磁性体のバルクハウゼン効果

 
1919 アーサー・エディントン イギリス

重力レンズ効果

(重力場による光の屈曲現象)

※一般相対性理論の実証

アインシュタインが一般相対性理論(1915年)の論文を発表しても第1次世界大戦の影響ですぐには他国の科学者には伝わらなかった。アインシュタインは中立国スイスを経由してイギリスに論文を送ろうと試みたがうまくいかなかった。しかしオランダの天文学者ウィレム・ド・ジッターがケンブリッジ天文台台長アーサー・エディントンに送った郵便はドーバー海峡を渡り無事にロンドンに到着した。優れた理論家でもあったエディントンは一般相対性理論を正しく理解し、熱烈な相対論支持者となった。ここからアインシュタインに知られることなくイギリス主導で重力による光の曲進現象の観測計画が始まる。1918年11月11日、第1次世界大戦が終わり、王立天文台台長サー・フランク・ダイソンとエディントンは翌年5月の日食観察に向けて計画を立てた。最大のリスクは、天候に恵まれず観測できないことであり、同時に2ヵ所に遠征隊を送る結論となった。エディントンはアフリカ西海岸沖のプリシンペ島へ向かうアフリカ遠征隊の隊長を務めることになった。もう一方のブラジル東岸ソブラルへはグリニッジ天文台の研究者チームが担当した。

1919年5月29日、エディントンは予言される重力場における光の屈曲現象(重力レンズ効果)を皆既日食(グリニッジ標準時で午後2時13分から約5分間(302秒間))を利用して観測した。太陽の背後にあろう雄牛座(ヒアデス散開星団を含む多くの恒星)の光は太陽をかすめて地球に達したことが確認され、カメラに収められた。急ごしらえの実験室ですぐに現像し、既に撮影していた(太陽の重力場のない)夜間の星空の写真と突き合せたところ、いずれの星も太陽の中心位置から遠ざかるようにズレていた。帰国後、詳細な写真の解析がなされ、位置ズレの平均は1.61秒(σ=0.3秒)となり、一般相対性理論の予測値1.75秒と一致した。一方でソブラルに遠征したチームも撮影に成功しており、位置ズレの平均は1.98秒(σ=0.12秒)と高い精度であった。2つのチームによる日食観察により一般相対性理論は、水星の近日点移動の説明(1915年)に続いて、完全に実証された。

アインシュタインは1919年9月になってようやくオランダの友人経由でこの実験を知った。

※なお現在では太陽のような恒星が存在しない場所でも重力レンズ効果は見られ、目に見えない重力源(ダークマターなど)が大量に存在していることが確認されている。

1920 ジェームス・チャドウィック イギリス

原子番号と原子核内の陽子数の一致を証明

原子番号の定義を決定付ける

特性X線の研究したモーズリー(1913年)は、原子番号とは原子核が持つ正電荷の数(陽子の数)だと主張し、元素周期表の厳密な順序関係を示唆した。チャドウィックはガイガーとマースデンの実験(α線による散乱実験/1909年)を改良した実験で、原子核の電荷と原子番号の一致を証明し、原子番号の定義を決定づけた。

1920 アーネスト・ラザフォード ニュージーランド

水素原子核を陽子と命名

イギリス科学振興協会の総会で、原子核破壊実験であらゆる元素で共通して見られた水素原子核について、原子核の構成要素として"陽子"と名付けることを提唱。

1920 アーネスト・ラザフォード ニュージーランド

中性子の存在に言及

ロンドン王立協会での講演で、次のように述べた。陽子の発見と同時に原子核のもう一つの構成要素である中性子の存在に言及していた。

「ある条件下では、水素原子核(=陽子)とその周囲を回る電子とがもっと強く結合しているかもしれない。その結果、両者が結合した中性の粒子が、物質中を自由に動き回れるだろう。(中略)この粒子は原子内部にまで容易に入り込み、核と結合するか、あるいは核の強い電場により破壊され、そこから水素原子核か電子、あるいはその両方が放出されるかもしれない」

※1932年に、ラザフォードの門下生チャドウィックが中性子を発見する。

1920

アルベルト・アインシュタイン

アレキサンダー・モスコフスキー

ドイツ

E=mc^2の利用可能性

1919年-1920年にかけて作家モスコフスキーはアインシュタインにインタビューを行った(書物『アインシュタインとの対話』に記載)。その中で、E=mc^2で得られるエネルギーの利用可能性についてアインシュタインが言及している。

「現在のところ、このエネルギーが得られるかをどうかを示す事実は全然ない。というのは原子の崩壊、いわば原子の分割を意のままに引き起こすことを前提としているからだ。今までのところ、それが可能になると伺わせる証拠は殆どない。原子の崩壊はラジウムのように自然が自らそれを起こすときのみ観測される。」

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1922 アーサー・コンプトン アメリカ

コンプトン効果

光量子仮説を決定付ける

アインシュタインの光量子仮説は光を粒子(但し、そのエネルギーは振動数で表される)として扱うことで光電効果をうまく説明した。コンプトンはさらにエネルギーの高い(振動数の多い)光を用いて実験することでコンプトン効果を発見し、光量子仮説を決定的なものとした。コンプトン効果では、光子と電子の衝突前後で、一部の光子はビリヤードの玉のように角度を持って散乱する。その際に光子の散乱角度とそのエネルギー(または振動数)の変化に関係が見られ、光子の運動量(p=hν/c、p=h/λ)を考えることで説明できた。

※通常、光の波動性を示すトムソン散乱(全方位に散乱)も一定の確率で同時に起きる。

1922

オットー・シュテルン

ヴァルター・ゲルラッハ

ドイツ

ドイツ

シュテルン=ゲルラッハの実験

原子の磁気能率(磁気モーメント)

 
1922 アレクサンドル・フリードマン ソ連

膨張宇宙モデル(フリードマン宇宙)

フリードマン方程式

アインシュタインが静止な宇宙が得られるよう自身の重力場方程式に宇宙項を導入(1917年)してから5年後、フリードマンは宇宙にある物質は一様等方分布という仮定のもと、アインシュタインの宇宙項を考慮せずに一般相対性理論に基づく厳密解の一つ(フリードマン方程式)として膨張宇宙モデルを導出した。フリードマン宇宙とも呼ばれ、これにより静的宇宙ではなく動的な宇宙、膨張している宇宙を考える理論的基盤ができあがった。

1922 アルベルト・アインシュタイン ドイツ アインシュタイン、来日 アインシュタインは5週間の講演旅行のため、来日した。
1923 関東大震災、発生

1923年9月1日、関東大震災が発生。マグニチュードは8であり、地震の10^17(ジュール)前後のオーダーのエネルギーである。アインシュタインの特殊相対性理論から導かれるE=mc^2から質量に換算すると約1kgである。

1923 ルイ・ド・ブロイ フランス

物質波(ド・ブロイ波)の概念

電子の波長を算出

ボーアの量子条件の説明

※量子力学の基礎を築く

ド・ブロイはアインシュタインの光量子仮説の成功から光の二面性(粒子性と波動性)に着目し、逆に今まで粒子と見なしてきた電子を波として考えみた。光量子仮説における光量子の運動量の式(p=h/λ)を、電子に適用して、電子の波長λ(=h/p=h/mv)を逆算した。さらに電子に限らず、全ての物質の運動量はこの式から波長に変換できる波であると考える物質波(ド・ブロイ波)の概念を提唱した。

また電子を波と考えることで、ボーアの量子条件の導出に成功し、その理論的根拠を与えた。原子核の周囲に電子の定在波を作る条件(2πr=nλ)と、電子の運動量と波長の式(λ=h/mv)を用いて、ボーアの量子条件(2πr×mv=nh)は自然に導かれた。

1923 ギルバート・ニュートン・ルイス イギリス

書物『原子価と原子構造』

ルイスは化学結合論の書物『Valence and the Structure of the Atom』を発刊。
1923

ブレンステッド

ローリー

  酸・塩基の定義 水素イオンを放出する物質を酸、受け取る物質を塩基と定義。酸性度を定量的に表すのに、水素イオン濃度を使用。
1924 エドウィン・P.ハッブル アメリカ

アンドロメダ銀河は系外銀河であることの発表

 
1924

サティエンドラ・ナート・ボース

アルベルト・アインシュタイン

インド

ドイツ

論文『プランクの放射法則と光量子仮説』

ボース=アインシュタイン統計

(ボース分布関数)

ボース粒子(ボソン)

インドのダッカにいたボース(30歳)という若者は、イギリスの"フィロソフィカル・マガジン"に論文を投稿したが、掲載を拒否されてしまった。そこでアインシュタインの名声を頼り、雑誌に掲載されるよう尽力願えないかとを訴えた。アインシュタインはボースの論文を高く評価し、ドイツ語に翻訳され、ドイツの一流雑誌"ツァイトシュリフト・フュア・フィジーク"に発表された。

ボースは光を光子という粒子からなる気体と見なし、量子論に基づく新しい統計手法(ボース=アインシュタイン統計)を導入すれば、熱力学に頼らずとも、プランクの放射法則が同様に導き出されることを証明した。

フェルミ粒子(1926年)とは異なりパウリの排他律の縛りを受けないボース粒子では、全く同じ状態に重なり合って存在することが可能となる。

【ボース粒子(ボソン)とフェルミ粒子(フェルミオン)の判定基準】

両者の統計学的なふるまいの違いは、後にスピンと呼ばれる素粒子の物理量に関係することが明らかにされる。全ての素粒子はそのスピンによって、いずれかのグループに分けられる。

1924

アルベルト・アインシュタイン

ドイツ

論文『一原子理想気体の量子論』

ボース=アインシュタイン凝縮

アインシュタインは、ボースの理論を光子の代わりに気体の原子に適用してみた。その結果、同じ種類のボーズ粒子を極低温まで冷やすと最低エネルギー状態で重なり合う相転移現象(ボース=アインシュタイン凝縮と呼ぶ)の出現が理論的に予言された。

従来、気体粒子の速度(エネルギー)分布はマクスウェルが気体分子運動論(1860年)から求めた式(釣り鐘型の正規分布)で表され、そのピークに当たる粒子の平均エネルギーが気体の温度に対応した。

【ボース=アインシュタイン凝縮のための冷却技術】

He原子やNa原子といった代表的なボース粒子でボース・アインシュタイン凝縮を起こすには、絶対零度に限りなく近いマイクロケルビン~ナノケルビンまで冷やす必要があるが、従来の冷却法では実現できない。

1924

長岡半太郎 日本

水銀還金実験

長岡は、金(原子番号79)と水銀(原子番号80)から放出されるスペクトル(特性X線)がよく似ていることに注目した。原子番号と原子核の電荷は一致することは既に知られており、スペクトルの類似は、水銀の原子核に金の原子核に陽子が一個余分に弱く結合しているためだと推測した。この考えをもとに、長岡は強い電場を水銀に掛けて、陽子1個を引き剥がす実験を試みた。その結果、1924年に水銀の還金に成功したと発表した。

当時、資源の少ない日本に多大な恩恵をもたらす錬金術だとセンセーショナルに報じられたが、その後研究は続けられたが成果はなかった。要するに、水銀から金が得られたというのは分析が不十分なまま誤りを発表してしまったというわけだが、長岡は誤りと認めたわけではなく、周囲の人も日本の科学界の重鎮に対して批判することはなかったそうだ。

【成功のためには中性子線が必要】

水銀を金に変えるエネルギー源として、電場では十分ではなく、仮にラジウムなどのα線源ならどうだったか…それでも正電荷の強い水銀の原子核を破壊することは困難だろう。重元素にも十分に接近可能な中性子線を得るには1930年のベリリウム線の発見を待つ必要があり、なかなかこの時期に長岡が意図した水銀還金実験(水銀を金に変換)を成功させるのは難しいだろう。

1924 ヴァルター・ボーテ ドイツ

コインシデンス法 (同時計数法)

コンプトン効果の検証

複数のガイガーカウンターを用い、同時計数回路を工夫したコインシデンス法によりコンプトン効果の検証を行った。その結果、入射X線光子が電子に衝突する反応前後でエネルギーと運動量が両方同時に保存されるように、衝突後のX線光子や電子の散乱(反跳)方向が決まることを観測した。質量を持たない光が運動量(p=h/λ)を持つことを裏付ける結果である。

1924    

電離層

無線通信との関連性。なぜ球面上でも直進する電波が遠くに届くのか。
1925 W.K.ハイゼンベルグ ドイツ

行列力学

シュレディンガーの波動力学(1926年)に先立ち、ハイゼンベルグは別の形式で量子力学を作ることに成功した。計算方法に行列を使うので行列力学と呼ばれる。行列力学は波動力学よりも計算が複雑なため、具体的な事例の計算を行う際には波動力学を用いることが多い。一方、量子力学の一般論を取り扱う場合に行列力学が適するとされる。

※行列力学と波動力学は数学的手法が異なるものの、実は内容的には同じ理論であることが後にディラックにより示される。

1925

ジョージ・ウーレンベック

サミュエル・ハウトスミット

オランダ

オランダ

電子のスピン

※アルカリ金属元素の2重線の説明

価電子を1個だけ持つアルカリ金属元素の線スペクトルには2重線(NaのD線など)が見られ、その微小な波長のズレは何らかの性質が僅かに異なる電子の存在を示唆した。この電子の未知の量子自由度は、電子が原子核の周りを公転するのに加え、電子自身の自転(スピン)による2つの運動(右回りと左回り)を原因とすると考えた。なお電子の自転を仮定する上で、電子を質点ではなく、空間的な広がりを持つ物体として捉えた。

※電子のスピンによる磁気能率(磁気モーメント)は、内殻電子が偶数個で占められる場合は相殺されるため、実質的な効果が現れるのは最外殻の不対電子の有無による。これは原子番号の多寡に拠らない。

※電子固有の性質として、質量、電荷、スピンの三つが揃った。

※磁場を掛けると線スペクトルが細かく分裂するというゼーマンの発見(1896年/ゼーマン効果)は、電荷を持つ電子の自転(スピン)は磁石の働きがあるためである。なお磁場を掛けるとNaのD線は一方が4本、他方は6本に分かれる。

1925

ヴォルフガング・パウリ

ドイツ

パウリの排他原理

(電子の禁止則)

電子の量子自由度

どんな電子も同じ状態には一つしか入らないとするパウリの排他原理(電子の禁止則)を発表。電子の状態は4つの量(エネルギー,存在確率の分布,電子スピン)で区別される。

ゼーマン効果(1896年)の解釈として、強い磁場作用下では原子の中の電子は2つの異なるエネルギー状態(量子自由度)を持つ(分裂する)ことを指摘した。

1925

W.K.ハイゼンベルグ

ドイツ

行列力学

 
1925

アルベルト・アインシュタイン

ドイツ

論文『重力と電気力の統一場理論』

アインシュタインは相対性理論を用いて、当時知られていた自然界の2つの力(電磁気力と重力)の統一に取り組んだ。電気と重力の統一理論は、かつてファラデーが晩年(1850年代)に試みたが、アインシュタインはファラデーと共通する観点に立って挑んだと言える。

※1930年代に入り素粒子研究が進むと、新たに弱い相互作用(素粒子を崩壊させる力)と強い相互作用(素粒子を結合させる力)が基本的な力として加わる。

1925 ウォルター・アダムス アメリカ 赤方偏移の観測  
1925 パトリック・ブラケット イギリス

宇宙線による窒素の核変換

ブラケットは、キャベンディッシュ研究所でウィルソン霧箱を用いた宇宙線の研究に従事した。ウィルソン霧箱を用いて2.3万枚の写真を撮影し、41万本の軌跡を精査した。そのうち8本がα粒子との衝突で窒素原子核が酸素原子核へ核変換したことを示した。
1925

八木秀次

宇田新太郎

日本

日本

YAGI-UDAアンテナ