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年表_物理学/化学_18-FH


■18世紀前半(1701~1750)

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1701        
1702 ゲオルク・エルンスト・シュタール ドイツ

フロギストン説(燃素説)

※燃焼理論

ベッヒャーの元素「燃える土」を発展させ、「フロギストン(燃素)」を用いて燃焼理論(フロギストン説)を提唱。現象論的な説得力がある一方、物質的・定量的な考察はされず。
1703 オランダ商人 オランダ

トルマリン(電気石)

焦電気(ピロ電気, パイロ電気)

スリランカのセイロン島からオランダ商人がある鉱石を西洋に持ち帰った。この鉱石は熱すると電気が生じることが分かり、焦電気(ピロ電気, パイロ電気)として知られた。後にスウェーデンのカール・リンネにより電気石(electric stone)と名付けられる。
1703 クリスティアーン・ホイヘンス オランダ

書物『屈折光学』

 
1704 アイザック・ニュートン イギリス

書物『光学

光の粒子説

※1660年代から提唱か

ニュートンは光学研究の集大成『光学』を出版。造幣局長官になり5年目、王立協会会長に就任して翌年、この時期は『プリンキピア』発表以前のような研究生活からは離れていた。『光学』は30年前の研究成果であり、プリズム実験による白色光の正体(白色光が屈折率の異なる様々な色の混じり物)や、光の直進性や波のように干渉や回折が起きないことから光の粒子説を提唱。ラテン語でなく英語で書かれた『光学』は広く読まれ、18世紀は『光学』の専制的な権威が光学研究を支配した。それまでホイヘンスらの光の波動説もあったが、『光学』発表以降は光の粒子説が主流になり、波動説派にとって18世紀は暗黒時代となった。19世紀初めのトマス・ヤングによる光の干渉現象の発見(1801年)まで光の波動説は下火となった。

1705 エドモンド・ハレー イギリス

書物『彗星の天文学の概要』

周期彗星(ハレー彗星)の発見

ハレーは1680年(24歳の時)にパリで彗星を目にし、未解決の彗星の軌道問題に強い関心を寄せた。1682年には後に自身の名を冠する彗星を観測した。ハレーは彗星の過去の観測記録を精査し、1682年の大彗星は1531年と1607年に見られた彗星と同一で、それは75年周期で細長い楕円軌道を描き、太陽の周囲を周っているという計算結果を導いた(書物『彗星の天文学の概要』)。ハレーは著書で軌道計算により1758年の彗星再来を予言。しかしその回帰を待たずしてハレーは85歳(1742年)で逝去。その後1758年にハレーの予言通り彗星は出現。惑星以外で太陽を公転する天体の存在、ニュートン力学の予見能力の高さが認められた。なおその後ハレー彗星は、1835年、1910年、1986年と三度ほど回帰し、次回は2061年夏に再来予定である。

【ハレー彗星の記録】

現存する最古のハレー彗星の記録は、秦の始皇帝時代(紀元前240年)に記された『史記秦本紀』である。また『日本書紀』にも684年の出来事として「彗星(ほうきぼし)が西北の空に現れた。長さ一丈余であった」とある。

1705 フランシス・ホークスビー イギリス

摩擦起電機(静電発電機)の改良

※中空のガラス球の使用

放電現象

※真空放電実験の始まり

ゲーリケが1663年に発明した摩擦発電機の回転球は硫黄であったが、ホークスビーはより強い静電気を得るため、クランクで回転させるガラス球を使う装置を開発。ホークスビーはニュートンの実験室の助手であり、ニュートンが硫黄球の代わりにガラス球を使う提案をしたそうだ。

1705年までのホークスビーの研究は真空実験であり、中空のガラス球を備えた摩擦起電機を使った真空放電実験を行った。帯電した電極が中にあるガラス球を外から触れると、その方向に放電した。また低圧のガラス球に少量の水銀を入れておくと、放電の際に極めて明るい光を発することも発見した。

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1706        
1707   日本 富士山、噴火(宝永噴火)  
1707 レオンハルト・オイラー スイス オイラー、誕生

スイスのバーゼルでオイラーは誕生。プロテスタントの牧師の父から数学を学び、1720年にバーゼル大学に入学。オイラーの専門分野は、数学、物理学、天文学であり、工学分野でも様々な研究を行っている。特に数学の分野では解析学発展に大きく貢献。

1709

アブラハム・ダービー1世 イギリス

コークス高炉法(コークス製鉄法)の開始

17世紀後半~18世紀、イギリスでは製鉄業で用いる木炭不足に見舞われ、製鉄業停滞を打開するために鉄を外国から輸入する必要に迫られた。一方、燃料に使われる石炭は潤沢にあり、その消費量は増加の一途にあった。そうした中、ダービー1世は石炭を製鉄に適したコークス(石炭を高温乾留)にし、木炭の代わりに用いるコークス高炉法を開発。息子ダービー2世がさらに発展させ、次第に各地に広まった。ダービー父子(1世/2世)によってイギリス製鉄業はコークスによる銑鉄の大量生産に成功。木炭不足による製鉄業停滞から解放された。なお銑鉄を可鍛鉄にするには依然として木炭に依存したが、この問題も1783年にヘンリー・コートが開発したパドル法(攪拌式精錬法)により解消される。

1712 トマス・ニューコメン イギリス

揚水機械

(ニューコメン機関, 大気圧機関)

※蒸気機関(外燃機関)の原型

ニューコメンは蒸気機関の原型である揚水機械(揚水ポンプ)を発明。石炭を燃やした熱で釜(ボイラー)の水を蒸気に変え、シリンダー(ピストン内蔵)にその蒸気を送り込み(この時、重りは下がりピストンは上がる)、シリンダー内に冷却水を浴びせて蒸気が冷める際の減圧により、重りが引っ張り上げられる仕組みである。蒸気の注入・冷却の繰り返しにより重りを上下させる。シリンダー内の圧力は大気圧程度であるが、技術的にボイラー、シリンダー、配管が高圧に耐えられないため。熱効率(熱を動力に変換する効率)は極めて低く(1%未満)、99%以上の熱が熱のまま捨てられる熱機関であったが、炭坑で実用化された世界初のエンジンであった。

当時、炭坑(石炭採掘のため掘った穴)内の湧き水(地下水)の排水処理は、悩みの種であった。深く掘れば掘るほど出水量は増えて、ともすれば炭坑は水没してしまう。従来の馬力による排水からニューコメン機関に置き換わることで、掘削の難しかった炭坑開発も可能になり、石炭生産量の増加に貢献した。但し、熱効率の低いニューコメン機関の動力に消費される石炭は採掘分の3分の1と大きかったが、経営者からすれば炭坑を水没させない方が重要であった。ニューコメン機関はワットの蒸気機関(1769年)の登場まで50年以上利用された。

※日本の石炭産業は、製鉄・造船業の発展に伴って北海道や九州(長崎の端島(軍艦島)(1974年閉山))など1960年代まで主要な産業だった。

【外燃機関と内燃機関の解説】

エンジン(熱エネルギーから力学エネルギーに変換する機構)の原型であるニューコメン機関は、外燃機関である。外燃機関は名の通り、熱源と作動流体が異なるものを指す。熱の発生のみでは動力に変換できず、必ずその仲立ちとなる流体(作動流体と呼ぶ)が必要となる。つまり、ニューコメン機関をはじめとする蒸気機関は、熱源を石炭の燃焼とし、それによって沸騰させられた水蒸気が作動流体である。

一方、ガソリンエンジンなどは内燃機関であり、熱源と作動流体が一体化している。燃料となるガソリンなどを燃やして発生する燃料ガスが作動流体となる。

1713 イギリス政府 イギリス 航海用クロノメーターの製作に懸賞金

航海での位置確認の際、南北方向については動かない北極星を頼りにして六分儀の角度から緯度または赤道(または北極点)からの距離を計算できた。一方で、東西方向(経度)について船上に正確な時計を用意する必要があった。イギリス政府は揺れる船上でも経度を0.5度の精度で測定可能な時計の製作に懸賞金(20000ポンド)を用意した。

※振り子時計では揺れる船上では機能しない。後に時計職人ジョン・ハリソンが40年以上の歳月を費やし、1759年に要件を満たす時計の開発に成功する。

1713 アイザック・ニュートン イギリス

書物『プリンキピア』第二版

彗星の軌道を追加

ニュートンはハレーの研究に触発され、プリンキピアの第二版で彗星の軌道に関する項目を追加した。彗星の軌道では、ニュートン自身の計算とハレーの計算にかなりのページを割いた。
1714 ガブリエル・ファーレンハイト ドイツ

水銀温度計

華氏温度の考案

水銀を用いた液柱温度計を発明。華氏温度(単位:°F)を考案し、氷点は32°F、人間の平熱が96°F、沸点は212°Fである。華とは、ファーレンハイトの中国名"華倫海特"が由来。

1718 エドモンド・ハレー イギリス 恒星の固有振動  
1724 ヘルマン・ブールハーヴェ オランダ

カロリック説(熱素説)

不可秤量流体

臨床医師ブールハーヴェは、熱とはカロリック(熱素)という重さのない物質(流体)とする説を唱えた。熱膨張とは物質中に多くのカロリックが流れ込み、物質を構成する粒子の間隔を押し広げるため体積が膨張すると説明。その際、体積は膨張しても物質の重さは変化しないので、カロリックには重さがないと仮定された(不可秤量流体という)。摩擦で熱が発生するのは、物質中に含まれるカロリックが外に絞り出されるためと解釈。カロリック説は熱現象を定性的にうまく説明できたため、18世紀を通して熱学の基礎に位置付けられた。

※当時、ある程度精度の良い温度計(水銀温度計/1714年)もあったが、まだ熱と温度の区別は曖昧で、物質の量が同じであれば、種類に拠らず温度上昇の程度は同じと考えられた。後にジョゼフ・ブラックが提唱する熱容量と潜熱の概念(1761年)は、熱運動説で説明することは困難であり、さらに熱物質説であるカロリック説の支持につながる。

1726 ジョナサン・スウィフト アイルランド 書物『ガリヴァー旅行記 第3編でガリヴァーが訪れる"飛ぶ島ラピュータ"の動力には天然磁石(磁気)が利用される。
1726 アイザック・ニュートン イギリス

書物『プリンキピア』第三版

彗星の項目を補筆

 
1727 アイザック・ニュートン イギリス ニュートン、逝去 ニュートンは生涯、独身のまま84歳で亡くなり、ウェストミンスター寺院に葬られた。
1728 ジェームズ・ブラッドリー イギリス

(年周)光行差

地動説(太陽中心説)の証拠

光速度の有限性(299042km/s)

コペルニクスの地動説(1543年)が発表された時、太陽の周りを地球が公転することによる年周視差の存在が指摘された。つまり地球は公転により半年ごとにその居場所が大きく移動するため、太陽系から近い星(恒星)ほど地球から見える角度が変化する観測結果が期待された。しかし多くの天文学者の努力や、望遠鏡の性能向上にも関わらず確認されることはなかった。

ブラッドリーも年周視差の観測に注力した1人であり、大気による光の屈折効果を避けて星の位置を正確に把握するために、天頂を通過する比較的明るい星に注目した。

その結果、恒星(りゅう座のγ星)の周期的な位置変化を観測したものの、年周視差から予想されるものとは異なる動きを示していた。ブラッドリーはこの理由を探し求め、(年周)光行差という現象を見出した。光速度の有限性に由来する光行差の発見は地球が動いている地動説(太陽中心説)の証拠となる一方、正確な天体観測の難しさを改めて印象付けた。

オーレ・レーマーにより地球から見た木星の衛星食の所要時間をもとにした光速度の有限性(1675年)は既に報告されていたが、ブラッドリーも光行差をもとに光速度を求め、太陽から地球までの光の到達時間は8分13秒と述べた。

ブラッドリーは自身の天文観測が1秒程度の精度を持つことから、仮に年周視差が存在するとしても1秒以下の小さな値だろうと見積もった。これは距離に換算して40万天文単位に相当した。

※光行差には地球の相対速度を出す基準系の取り方により、永年光行差、年周光行差、日周光行差とある。年周光行差は、太陽に対する地球の公転速度(30km/s)により発生する光行差である。

1729 スティーヴン・グレイ イギリス

電気伝導性

導体と不導体

ガラス球を備えた摩擦起電機から得た静電気は、発生した場所に留まる。ところが、そうした静電気が物質(木の棒など)を介して遠くに伝わる電気伝導性があることを発見した。より長い距離を送電するには漏電を防ぐ(地面との絶縁)ための工夫が必要であることも実験で確認した。グレイは様々な物質の電気伝導性を調べ、電気伝導性のある導体(鉄など)と、電気伝導性がない不導体(絹など)とに分類した。
1731 ヘンリー・キャベンディッシュ イギリス キャベンディッシュ、誕生  
1733 C.フランソワ・デュ・フェイ フランス

2種類の電気

※物質間の引力と斥力で区別

※ガラス電気と樹脂電気

摩擦される物質同士に働く引力もしくは斥力によって、発生する電気を2種類に分けた。摩擦起電機でガラス球に金箔を接触させると、金箔も電気を誘発され、ガラスと金箔の間に斥力が働く。一方で、この金箔と樹脂との間には引力が働いた。このことからデュ・フェイは、同種の電気を帯びた物体は互いに反発し、異種の電気を帯びた物質は引き付け合うと結論付けた。デュ・フェイは、2種類の電気をガラス電気と樹脂電気と呼んで区別した。

※今日で言えば、ガラス電気とは正電気、樹脂電気は負電気である。

※静電気の引力や斥力の大きさを定量的な測定は、1770年代前半にヘンリー・キャベンディッシュ、1780年代後半にシャルル・ド・クーロンが各々が独立して行い、電気力の逆二乗則(クーロンの法則)を発見している。またクーロンは磁力の逆二乗則も同時期に発見している。

1733 J.J・ドルトゥス・ド・メラン フランス

書物『北極光の物理と歴史』

オーロラに関する初の研究書

太陽黒点とオーロラの関係性

メランはオーロラに関する世界初とされる研究書を出版し、その中で太陽黒点の出現とオーロラの発生の関係を指摘した。
1734

ヴォルテール

(フランソワ・マリー・アルエ)

フランス 書物『哲学書簡』 イギリス(ニュートン世界観)とフランス(デカルト世界観)の自然観の違いを強調。地球の形状は、イギリスでは赤道方向に長く、フランスでは極方向に長い。
1735 パリ王立科学アカデミー フランス 地球測量の計画実施

1735年、ルイ15世の治世下、フランス科学アカデミーは地球の正確な形状を決定する計画を進めていた。北極圏(ラップランド)と赤道直下(ペルー)のそれぞれで測量隊を派遣し、各地点の子午線(南北両極を通って地球を一周する大円)1度分の地上距離の長さを求める。その結果とフランスで測られた値と比較することで、地球の扁平率が決定する。

1735 ジョン・ハリソン イギリス 航海用クロノメータH-1製作  
1735 イェオリ・ブラント スウェーデン コバルト  
1736 レオンハルト・オイラー スイス 書物『力学もしくは解析学的に示された運動の科学』 ニュートン力学をまとめたプリンキピア(1687年)は幾何学的手法で書かれたが、オイラーはニュートン力学を微積分法(解析学)で書き直した。
1737 ピエール・ルイ・モーペルテュイ フランス

地球が扁平であることを実証

北極圏(ラップランド)に向けて旅立ったモーペルテュイ隊は、1736年7月30日から約1年かけて北極圏で測量を続け、翌年、貴重なデータを携えてフランスに帰国した。1737年11月13日のフランス科学アカデミーでの発表で、北極に近づくほど子午線1度の距離は長くなり、地球は扁平になる結果を報告した。

ニュートンが大著『プリンキピア』(1687年)の第三巻「世界の体系」の命題19で記した地球の扁平率の計算結果の正しさが実証された。

1738 ダニエル・ベルヌーイ スイス

書物『流体力学』

ベルヌーイの法則、気体分子運動論

流速と圧力の関係を与える流体力学の基本定理(ベルヌーイの定理)を発表。
1743 ロン・ダランベール フランス 書物『動力学論』 ニュートン力学を質点系に適用。
1743 アレクシス・クロード・クレロー フランス

書物『地球形状論』

地球の扁平率

1736年~1737年に北極圏にて地球の測量を行ったモーペルテュイ隊に加わっていた数学者クレローは、測量結果をもとに書物『地球形状論』を著した。これを契機に、ニュートン力学への信頼は広く高まった。
1743 アントワーヌ・ラヴォアジエ フランス ラヴォアジエ、誕生  ハレーが予言(1705年)したハレー彗星の回帰(1758年)を確かめることなく、亡くなった。
1743 エドモンド・ハレー イギリス ハレー、逝去  
1745

エヴァルト・クライスト

ドイツ

オランダ

ライデン瓶(蓄電瓶)

電気を蓄える装置(蓄電器,コンデンサ)であるライデン瓶を発明。ガラス瓶(絶縁体)の中に入れた導体(当初は液体だったが、後に金属箔)に外部から供給した静電気を保存する。

クライストの方がミュッセンブルークより3ヶ月ほど早く発明した。ライデンとはミュッセンブルークが物理学教授として勤めるオランダの大学名に因む。

1745

ミュッセンブルーク

オランダ

ライデン瓶(蓄電瓶)

 
1745

伊能忠敬

日本

伊能忠敬、誕生

 
1746

ウィリアム・ワトソン

イギリス

電気は1種類(電気エーテル)

※1種類の電気の余剰欠乏

 
1746

アンドレアス・マルクグラフ

ドイツ 亜鉛の大規模生産  
1747 ジェームズ・ブラッドリー

イギリス

章動  
1748 ラ・メトリ フランス 書物『人間機械論』 身体も精神も人間は完全な自動機械であるとする説。徹底的な唯物論的生命観。
1749

シャトレ侯爵夫人

(エミリ・デュ・シャトレ)

フランス 書物『プリンキピア』の仏語翻訳

シャトレは子供の頃から数学や物理学が好きで、父親の理解もあり、当時の女性としては例外的にも学問に関する家庭教師をつけてもらい勉学に励んだ。難解な『プリンキピア』に取り組み、微分や積分を勉強して式を一つ一つチェックしながらラテン語からフランス語へと翻訳を行った。1749年、42歳という若い死の直前まで手を入れ続けたフランス語訳は、彼女の死から10年経た1759年に出版される。

※シャトレは華やかな社交界に身を置き、人妻でありながら恋多き女で、伝記では"火の女"と呼ばれる。また思想家のヴォルテールの恋人であり、良き友人であった。 

1749

コント・ビュフォン

(ルイ・ルクレール)

フランス 書物『博物誌』 地球史に沿って動物・植物・鉱物を包括的に記述した書物。ニュートン力学の成功により諸現象の法則化(数式化)が注目される中、実存性が損なわれる点を指摘。
1750

ベンジャミン・フランクリン

アメリカ 電気は1種類  
1750 ベンジャミン・フランクリン アメリカ 電気の状態を正と負で区別 ガラス棒を絹でこすった時、ガラス棒に生じる電気を正とする。一方、樹脂を毛皮でこすった時、樹脂に生じる電気を負とした。
1750 トマス・ライト イギリス

書物『宇宙の独創理論ないしは新仮説』

※天の川の考察