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年表_物理学/化学_16-SH


■16世紀後半(1551~1600)

西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1551 エラスムス・ラインホルト ドイツ

星表『プロイセン表

※天体運行表

ラインホルトは、地動説を唱えたコペルニクスの『天球回転論』(1543年)をもとに天体運行表を作成。約300年間に利用された星表『アルフォンソ表』に取って代わるものとなった。

1552

       
1553 ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ イタリア 書物『自然魔法』  
1554        
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西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
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西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
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1564 ガリレオ・ガリレイ イタリア ガリレオ、誕生

ガリレオがイタリアのピサで誕生。医学を志しピサ大学に入り、数学者オスティリオ・リッチに出会い、ユークリッド幾何学とアルキメデスの自然哲学を学ぶ。20代半ばでピサ大学の数学教授に任命され、その後パドヴァ大学に移り数学を教えた。

1565        
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
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1569

ゲラルドゥス・メルカトル

(ゲラルド・デ・クレメル)

オランダ

メルカトル投影法

世界地図を完成

 
1570 アブラハム・オルテリウス ベルギー

地図『地球の舞台』

 
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1571 ヨハネス・ケプラー ドイツ

ケプラー、誕生

ガリレオと同時代、ケプラーはドイツのヴァイル・デア・シュタットで酒場の子として誕生。父が戦傷死した年に、17歳で大学の給費生に合格。1589年にはテュービンゲン大学に入学し、数学や天文学を学び、天文学ではコペルニクスの宇宙像に陶酔。大学卒業後、1594年にグラーツの高等学校で数学と天文学を教える傍ら、最初の著書『宇宙の神秘』で太陽中心説(地動説)に基づく宇宙構造を思弁的に考察。ガリレイやティコと知り合い、手紙で議論。1599年にはプラハにいる天文観測家ティコの助手となる。

1572 ティコ・ブラーエ デンマーク

書物『新星』

カシオペア座超新星(SN1572)を発見

※肉眼観察の時代

当時、超新星(SN1572)を見た人は多くいたが、目で見て移り変わる現象は宇宙空間ではなく大気中の現象とされた。しかしティコは超新星を精密に観察し、その位置が変化しないことから宇宙空間の天体である結論。この発見を書物『新星』に著し、天文学者として名をあげた。超新星(SN1572)は後に"ティコの新星"と名付けられた。

1573        
1574        
1575        
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1576 ティコ・ブラーエ デンマーク

フヴェン島に天体観測所を建設

※規則的な天体観測を行う

デンマーク王フレデリック2世はティコにフヴェン島の領地を与え、そこにブラーエの居城(ウラニボルク城、天の城)を兼ねた天文台を築かせた。望遠鏡のない時代、肉眼による観測ではあるが測定誤差が角度にして僅か2分程度という高精度で星の位置を記録できた。観測室の屋根は移動式で開閉可能であり、四分儀、天球儀、水時計、日時計など様々な機器が備えられていた。※望遠鏡は1608年にハンス・リッペルハイが発明する。

1577 ティコ・ブラーエ デンマーク 彗星は天上界にあると指摘

天動説が罷り通っていた時代、突如現れ、消えていく彗星は、その説明に苦慮する厄介な存在だった。天動説では天界は、完全な世界で一切の変化が起きない領域と説明される。よって彗星はオーロラ、稲光、流星のような地上界で起きる発光現象だと強引に解釈された。これに疑問を感じたティコは1577年に現れた彗星に対し、自分の天文台があるフヴェン島とそこから十分に離れた地点での同時刻の観測結果を比較し、彗星には視差が全くないことを確認。彗星は地上界や月よりもはるかに遠い場所にあると指摘。

1578        
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西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1581        
1582

クリストファー・クラヴィウス

グレゴリオ13世

ドイツ

イタリア

グレゴリオ暦の制定

※ユリウス暦の廃止

第226代ローマ教皇グレゴリオ13世の指示により、治世にズレが生じていたユリウス暦を廃し、新たにグレゴリオ暦を作らせた。クラヴィウスはグレゴリオ暦改暦委員会の中心人物であり、イエズス会随一の科学者である。

グレゴリオ暦の導入で1年間をより正確に反映可能になったが、ヨーロッパ大陸がこの時期に導入したのに対してイギリスは採用が遅れたため、一時期にイギリスの暦はヨーロッパ大陸よりも10日遅れとなった。

【ユリウス暦からグレゴリオ暦への変更のメリット】

ユリウス暦(紀元前46年頃に成立)はローマのユリウス・カエサルが改正させた暦で、1年を365.25日とし、4年に1日の閏(ウルウ)を置くものであった。しかし16世紀までに1年の長さが365.24220日までに精密に測られた。これは1年に0.00780日(11分)の差であり、128年で1日の差となる。千年単位では1000年で7.5日、2000年で15日の差となってズレが累積され、これは季節と暦のズレとなって現れる。ユリウス暦の改正から約1600年経過し、約12日ほど季節より暦が遅れた状態となり修正に迫られた。

修正とは、閏年を400年に100回から400年に97回に変更することを意味する。

【日本でのグレゴリオ暦の採用】

日本では1872年(明治5年)に採用。明治5年12月2日(旧暦)の翌日を、明治6年1月1日(新暦)(グレゴリオ暦の1873年1月1日)としている。

1583

ガリレオ・ガリレイ

イタリア 振り子の等時性

ガリレオはピサの大聖堂の天井から吊り下げられたランプが揺れているのを見て、振り子の等時性を発見した。振り子の周期(往復にかかる時間)は、重りを吊り下げる紐の長さが同じであれば、重りの重さや振れ幅には無関係で常に一定であり、振り子の等時性という。当時、時間の計測には脈拍の回数を利用していたが、振り子の等時性の発見後は振り子が用いられるようになった。

1584        
1585        
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1586 シモン・ステヴィン ベルギー

書物『吊り合いの原理』

斜面上の吊り合い

力の平行四辺形の定理

落下の法則

古代ギリシアのアルキメデスの理論を発展させ『吊り合いの原理』を著した。本書の付録には、重さの10倍異なる2つの物質を同時に落とすと、ほぼ同時に着地する実験結果を載せている。なおアリストテレスは重い物体ほど速く落ちると考えていた。

※ガリレオよりも早く落下の法則を発見。

1587        
1588 ティコ・ブラーエ デンマーク

書物『天界の新現象』

ティコの折衷説

※天動説と地動説の折衷案

アリストテレスとプトレマイオスの天動説(地球中心説)と、コペルニクスの地動説(太陽中心説)の折衷案と言えるティコ・ブラーエの宇宙体系(ティコの折衷説)を提示した。

ブラーエの折衷説では、宇宙の中心に地球を据えて、その周囲を太陽が回るという意味では天動説と言えるが、地球以外の惑星(水星、金星、火星、木星、土星)は太陽を中心に周回している。つまり地球中心に太陽系(除く地球)が回転している描像である。複雑な惑星の運動の説明には、コペルニクスの地動説と幾何学的にはほぼ同等に対応でき、その一方で宗教上の対立にも配慮された宇宙設計と言える。

1589        
1590 ヤンセン父子 オランダ

複式顕微鏡

オランダの眼鏡職人であるヤンセン父子(ハンス・ヤンセンとその息子ツァハリアス)により、2つのレンズを組み合わせた複式顕微鏡が発明される。

1590 ガリレオ・ガリレイ イタリア

書物『運動について』※遺稿

 
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1591        
1592        
1593        
1594        
1595        
西暦 人物 出来事 (発見/発表/発明/現象) メモ
1596 ダ-ヴィト・ファブリキウス ドイツ

変光星

ミラ

クジラ座にあるミラ星は変光星の発見の第一号となった。ミラ(Mira)はラテン後で「不思議な」という意味。変光星とは周期的に明るさが増減する星である。ファブリキウスは、ミラ星が1年弱の周期で明るさが増減していることを確認した。

【変光星とハッブルの法則】

変光星のうちセファイド型と呼ばれるタイプの変光星は、絶対光度と変光周期の間に相関があり、変光周期が長いほど絶対強度が大きい。後にハッブルは変光星を利用して銀河の距離を求め、赤方偏移との関係からハッブルの法則(1929年)を発見し、宇宙が膨張していることを指摘する。

1596 ヨハネス・ケプラー ドイツ

書物『宇宙誌の神秘』

※地動説(太陽中心説)に基づく宇宙像を描いたケプラーの処女作

25歳の時にケプラーが出版した本書には、
1597 アンドレアス・リバヴィウス ドイツ

書物『アルケミア』(錬金術論)

史上初の国際的な化学教科書として出版。最終章は「賢者の石」で締め括り錬金術を信じる一方、実用的な化学研究の道具や方法を解説。
1597 ガリレオ・ガリレイ イタリア

空気温度計

 
1598        
1599 ティコ・ブラーエ デンマーク   ヨーロッパ各地を逍遥したブラーエは1599年、神聖ローマ帝国の首都プラハに赴き、皇帝ルドルフ2世の宮廷天文官として召し抱えられた。
1600 ウィリアム・ギルバード イギリス

書物『磁石論』

地磁気の磁力線

⇒地球が磁石であると主張

磁化(磁気誘導)・減磁・消磁

磁気と静電気の区別

エリザベス女王(1世)の侍医ギルバードは医師として働く傍ら、磁石の研究を行った。地球は中心が鉄でできた一つの巨大な磁石であり、その磁極は地理上の南北両極近くにあると指摘。当時、方位磁石のN極は北極星か、磁性を帯びた大きな島を指すと信じられていたが、地球表面上の磁力線の向きを調べていくと北極付近ではN極は地面を指すことを確認した。

ギルバートは、磁石を熱すると磁気が失われる現象(熱減磁)を記している。また混合されやすかった磁石の引力と静電気の引力(摩擦した琥珀のもつ引力)とが異なるものであることをはっきりと記している。

1600 ヨハネス・ケプラー ドイツ   天文観測家ティコ・ブラーエの名声に惹かれ、ケプラーはプラハにいるブラーエを訪れる。
1600 ジョルダノ・ブルーノ イタリア 太陽中心説による最初の焚刑