■19世紀後半(1851~1900)
西暦 | 人物 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1851 | ||||
1856 | E.F.A.ブルピアン | フランス | ブルピアン反応(ヴュルピアン反応) | 高峰・上中がアドレナリン(副腎皮質ホルモン)を発見(1900年)する以前に、このホルモンを動物の副腎から抽出する研究にはそれなりの先行研究があった。そのパイオニアとなったのはブルピアンである。ブルピアンは副腎組織をすり潰した汁は、塩化鉄との化学反応により常に緑色を呈するブルピアン反応を報告している。 |
1859 | チャールズ・ダーウィン | イギリス |
書物『種の起原』 自然選択説 |
ビークル号の世界周航を終えて23年後、『種の起原』を執筆。自然選択説を世に問う。第17章の「異種交配の好ましい効果と近親交配の弊害」はダーウィンが温室で行った植物の実験に基づく。 遺伝形式の表れ方は本書では謎であるとダーウィンは認めていて、子供の形質が祖父母、あるいはもっと遠い祖先から受け継ぐ場合がある点も不明だとしている。この疑問に対して後にメンデルによる遺伝の法則により一定の回答を与えることになる。 |
西暦 | 人物 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1861 | ドイツ | ドイツのバイエルン州にある採石場(約1.5億年前の地層)から、羽毛を持つ恐竜が発見。爬虫類と鳥類の特徴を併せ持つこの生物は始祖鳥と名付けられた。 | ||
1863 | ヘルマン・ヘルムホルツ | ドイツ |
論文『生理学的基礎としての聴覚教程』 |
エネルギー保存則の定式化(1847年)で有名なヘルムホルツは、本論文で耳が音の高低や音色を識別するメカニズムの理論を展開。音響学と生理学の融合。 |
1865 | グレゴール・ヨハン・メンデル | オーストリア |
遺伝の法則(メンデルの法則) ※混合遺伝説の否定 |
ダーウィンの『種の起源』の出版から数年後、オーストリアの修道士グレゴール・メンデルは修道院の庭でエンドウを使って8年がかりの実験を開始した。エンドウは雄蕊と雌蕊が花弁に包まれた構造で一般に自家受粉となる。メンデルは花を開いて花粉をピンセットで別の株の花に付けて受粉させ(他家(タカ)受粉)、各株の遺伝系統を明確にした。他家受粉を続け2年後に、両親の形質と同じ形質を持つ「純系」ができたと確信し、次に純系同士を交配させて雑種を得る本格的な実験に取り掛かった。その結果、優性遺伝子と劣性遺伝子の基本的な法則を見出し、代々現れる遺伝形質を説明した。 メンデルはダーウィンに実験結果を送ったが、特に反響はなく、この革命的な実験は以後30年間あまり顧みられることはなかった。 |
西暦 | 人物 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1866 | ||||
1869 | J.リードリッヒ・ミーシャ | スイス | 核酸(ヌクレイン) | 免疫の研究のため病院から膿の付いた包帯をもらい、白血球の死骸を集めて研究材料にした。白血球細胞を分解し、集めた核から様々なリン酸塩からなる化学物質の単離に成功した。この化学物質をヌクレイン(核酸)と命名した。 |
1870 |
西暦 | 人物 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1880 | ||||
1882 | ロベルト・コッホ | ドイツ | 結核菌 | |
1884 | アルトゥール・ニコライアー | ドイツ | 破傷風菌 | |
1885 | アルブレヒト・コッセル | ドイツ | 核酸の塩基であるアデニン | コッセルにより核酸を構成する5種類の塩基のうちアデニンが発見された。さらにコッセルはグアニン(1886年)、チミン(1893年)、シトシン(1894年)を発見した。 |
西暦 | 人物 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1886 | ||||
1887 | ジョン・ランドン・ダウン | イギリス | サヴァン症候群の報告 | |
1888 | 牧野富太郎 | 日本 |
日本植物志図篇 植物の分類法 |
牧野はかねてから構想していた日本植物志図篇を自費で刊行した。工場に出向いて印刷技術を学び、絵は自分で描いた。それまでなかった日本の植物誌であり、今でいう植物図鑑の先駆けである。※牧野富太郎の年譜 |
1889 | 北里柴三郎 | 日本 | 破傷風菌純粋培養法 | 破傷風菌は土壌に生息する酸素を嫌う細菌(嫌気性菌)であり、感染症として破傷風の致死率は高い。北里は酸素を排除することで、初めて破傷風菌の純粋培養に成功。 |
1890 |
ドイツ 日本 |
論文『動物におけるジフテリア免疫と破傷風血清免疫の成立』 |
西暦 | 人物 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1891 | ||||
1892 |
ロシア |
ウイルスの存在 |
タバコモザイク病の病原(タバコモザイクウイルス)は細菌濾過機を通過させても、感染性を失わないことを発見。これにより細菌よりも微細で光学顕微鏡でも観察できない存在を示唆した。※後にベイエリンクにより、この病原をウイルスと名付けられる。 |
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1894 | 北里柴三郎 | 日本 | ペスト菌 | 5月に日本政府により香港に調査派遣され、6月、世界で初めてペスト菌を発見。 |
1894 | 高峰譲吉 | 日本 |
※胃腸薬・消火剤の成分 |
高峰は日本酒用の種麹(麹菌と炭水化物の混合物)を改良した元麹の研究をしていた。最初は種麹に米を使っていたが、やがて小麦ふすま(外皮や胚芽など表面部分,ブラン)から安上がりに出来るようになった。この元麹は発酵効力が従来より5割以上高く、効率的な酒造りに期待された。 1890年に高峰は渡米し、元麹の利用でアメリカのイリノイ州ピオリアのウィスキー会社と協力してウィスキーの生産性を高めようとした。しかしモルト(大麦の麦芽を発酵させたもの)生産者が飯の種がなくなったと騒ぎ出し、ウィスキー会社だけでなく高峰個人までも過激な反対キャンペーンの標的となった。会社は解散に追い込まれ、高峰は収入源を断たれた。 この苦境の中、高峰の研究対象は酒造りから薬品へ切り替える。ウィスキー造りの麦芽や米麹菌の研究に取り組む過程で、同じデンプンの消化酵素でもより強力な酵素(ジアスターゼ)を生産する菌を発見し、これを小麦ふすまに植え付けることで、強力な消化酵素タカジアスターゼを発見した。タカジアスターゼのタカはギリシャ語で「最高・優秀」を意味し、それに自身の高峰の名を重ねたものである。 |
1895 |
西暦 | 人物 | 国 | 出来事 (発見/発表/発明/現象) | メモ |
1896 | ルートヴィッヒ・レーン | ドイツ |
世界初の心臓手術に成功 |
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1897 | 志賀 潔 | 日本 | 赤痢菌 | |
1900 |
オランダ ドイツ オーストリア |
メンデル遺伝法則の再発見 ※科学的品種改良の時代へ |
1865年、オーストリアの修道院の司祭メンデルが地道で単調な作業により発見・発表した遺伝の法則は約35年間、その重要性を顧みられていなかった。しかし35年後の1900年頃、オランダ・ドイツ・オーストリアの植物学者3名がそれぞれ独立して過去文献を調べる中でメンデル(1884年死去)の遺伝の法則の重要性を再発見するに至った。 ダーウィンやメンデルの行った実験が基礎となり、格段に予測管理しやすい品種改良の時代が始まる。育種家たちは収穫量を爆発的に伸ばす種子開発のため近親交配を避け、雑種強勢の活力を活かし、生産管理可能な種子を作る指針が定まった。 |
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1900 |
日本 |
※世界初のホルモン物質の抽出 |
アドレナリン(副腎皮質ホルモン)は高峰と上中(助手)が世界で初めて結晶抽出に成功したホルモンで、今日なお不可欠の医薬品として利用される。 1890年代、イギリスのオリバーとシェーファーにより副腎エキス(抽出液)の血圧上昇・強心・止血といった作用が治療薬になると注目された。但し副腎エキスは不純物が多さ、腐敗しやすさ、アレルギー反応の危険があるため純粋な結晶精製が求められた。当時、欧米研究者は牛・豚・羊等の副腎エキスから結晶精製を試みたが、うまくいかなかった。 高峰はタカジアスターゼの製造・販売権を与えていたアメリカのミシガン州デトロイトの製薬会社パーク・デイビス社からこの研究依頼を請け負った。高峰は日本から来た上中を助手に雇い取り組んだ。1900年2月上旬に研究開始。デイビス社からは10日毎に8~9kgの牛の副腎が送られた。そして半年ほどで上中は目的の結晶化に目途を付けた。上中の実験ノートによれば7月21日に結晶化に成功し、10月10日の5回目の実験では約9kgの副腎から約7gの結晶を得た。この結晶を4000倍に希釈して自分の充血した眼球に点眼して、その薬効を確認した。11月7日の実験ノートには、高峰博士の友人ドクトル・ウィルソンの提案により「アドレナリン」と命名すと記され、これは副腎(Adrenal Gland)に因む。以上、アドレナリンの発見は助手である上中啓三の貢献が非常に大きかった。 アドレナリンの呼び名には紆余曲線がある。アメリカではエピネフリン(薬学者ジョン・エイベルの発見)と呼ばれ、つい最近まで日本でもアドレナリンは薬品名として使用できずエピネフリンだけが認められていた。2006年4月に公布施行の第15改正日本薬局法でようやくアドレナリンと呼べることになったが、あくまでもエピネフリンの併記が条件となっている。 |
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1900 |